第59話
8回表の絵亜高校の攻撃。
投手の詩子がベンチに下がったことで、華音高校の守備陣形は大きく変わっている。
サードには茜。
レフトにあゆ。
投手に栞。
そして、捕手に祐一である。
この布陣は香里の申し出だった。詩子が一回しか持たず、予想よりも早い栞の再登板を考えた結果だった。
栞は、まだほとんど体力が回復していない。膝だってふらふらだ。
だけど、だからこそ、捕手の座を祐一に明け渡したのだ。
残るは栞の気力だけが頼りだから。
「ゆ、祐一さん……」
「なんだ?」
「あの……お願いがあります」
「ああ。なんでも言ってくれ。そしたらなんでもやってやる。俺はついにおまえの女房役に返り咲いたんだからな」
「は、はい」
「ようやく主人公らしい活躍ができるんだからな」
「は、はい。おめでとうございます」
「あとは練習と同じく俺の要求どおりにおまえが投げてくれれば、この試合俺たちの勝ちだ」
「は、はい。がんばります」
「じゃあな」
「は、はい……って、マウンド降りようとしないでくださいっ」
「まだなにかあるのか?」
「お、お願いがあるって言いました……」
「なんだ?」
「あ、あの、えっと、その……ごにょごにょ」
よく聞き取れない。
「もっとはっきり言ってくれ」
「は、はいっ! あ、あの、私の、気力注入のために……」
栞はぎゅっと瞳をつむる。
「わ、わた、私に……」
「私に?」
「その……き、ききき……」
「ききき?」
私にききき?
……なんか前にもあった気がするな。
「そ、そうじゃなくて……あの……キ、キスを」
「…………」
「キスして……」
…………。
「……今、空耳が聞こえたような」
「そ、空耳じゃないですっ!」
「じゃあ幻聴か」
「幻聴でもないですっ!」
「腹話術?」
「私ちゃんと口でしゃべってますっ!」
「腹話術だって口でしゃべるんだぞ」
「そんなのはどうでもいいんですっ!!」
栞は叫んだあとにハッとして、またもじもじした。
「私、そ、その、前は……祐一さんに……に、逃げられて……だから……」
栞はかわいそうなくらい顔を真っ赤にしている。
「こ、今度は、ちゃんと……キスを……」
「…………」
「キス……してくれたら……がんばれますから……」
「…………」
「栞ちゃーん! ふぁいと、だよー!!」
名雪が激励の言葉をかける。ほかのバックからも応援が飛んでくる。
打者の神奈が素振りをしている。審判の久瀬がプレイ再開を待っている。
そして、みんなの視線はしっかりマウンドに向けられていた。
「こんな状況でできるかぁ!!」
いや、こんな状況でなくても無理。
「ゆ、祐一さん、なんでもやるって言いました……」
「……おまえは公衆の面前で俺に死ねと?」
敵味方問わずフルボッコだろう。
「あ、あの、おでこじゃダメです……」
「本気で殺しにかかってるのか……」
「なっ、なんでそんな解釈になるんですかあっ」
涙目になっている。
「勝負に、勝ったときの……ご褒美でもいいですから……」
「……約束すれば、気力注入になるのか?」
「は、はいっ。あといざってときに逃げないって約束してくださいっ」
「……わかった」
たぶん。
「今、たぶんって聞こえたような……」
「気のせいだ」
祐一はキャッチャーミットで栞の頭をぽんとたたく。
「そんなことくらいでおまえが元気になるなら、安いものだからな」
「そんな……こと……」
「しっかり投げろ。期待してるぞ」
祐一はホームベースに戻っていった。
「祐一さんにとっては……やっぱり、その程度のことなんですね……」
栞は落ち込みそうになった。
だけどめげない、くじけない、舞い降りそうになった天使と悪魔だってぱたぱたと追い払う。
なぜなら栞は成長した。この試合でピッチャーには必須の負けん気を手に入れたのだ。
「振り向かせて……みせますから……」
そのためには、あと二回。
全力投球するのみだ。
プレイの号令とともに、栞の瞳に炎が揺らめいた。
「柳也様、この方法は使えるのではありませんか?」
「なにがだ?」
「今の祐一様と栞様のやり取りです。きっと神奈様にも効果てきめんでございますよ」
「だからなにがだ」
「ヒットを打てたら接吻、と約束するのです」
「……いいのか?」
「私は賛成でございます」
「余は反対じゃっ!!」
聞こえていたらしく、バッターボックスに入っていた神奈がベンチまですっ飛んできた。
「り、柳也と接吻などしてもうれしくもなんともないであろうが!!」
「俺もそうだな」
「なにゆえじゃこの痴れ者が!?」
「……なんで怒るんだ」
神奈が振り下ろしたバットを柳也はなんなく白刃取りする。
「柳也様もたいがい、女泣かせでございますね」
「神奈、プレイ中だ。早く戻れ」
「言われなくてもすぐ戻ってヒットくらい簡単に打ってきてやるわ!!」
だが神奈は、コースを突く栞の変化球をひっかけてしまい、簡単にアウトになっていた。
「……柳也様が約束をしなかったばかりに」
「俺のせいか?」
「もちろんでございます」
柳也は嘆息せざるを得なかった。
「あ、あの、往人さん……約束……」
「却下」
「が、がお……」
とぼとぼと打席に入った観鈴もまた、あっけなく討ち取られていた。
「もらった──────っ!!!」
コマのように回るみちるの大回転打法が、栞のボールをそのとき捉えた。
要求よりもわずかにコースが甘かった。外角に外すはずが、中に入ってきた。
疲労が原因であることは祐一でなくともわかってしまう。
「だけど……」
ショートの頭上を越えるライナーに、香里の腕が伸びていく。
「そのためにあたしたちがいるんじゃない!」
香里は渾身の脚力でジャンプした。
グローブの先端がかする、そのぶんボールの勢いが削がれ、レフトの正面に落ちるいい頃合いのフライになった。
いや、正確には正面ではなかった。二、三歩は前に出ないといけない。だがスピードが衰えている今、余裕の捕球が可能なはずだった。
レフトがあゆでなければ。
「うぐ?」
「うぐ、じゃねえ! 前進しろあゆ!」
祐一から檄が飛ぶ。
あゆは思った。まだボクの活躍の場はあったんだ!
ホームのクロスプレーで吹っ飛ばされたのが最後だと考えていただけに感涙だった。
よかったねあゆちゃん、とベンチの観鈴も感涙した。その涙の半分はすでに活躍の場がない自分に対するものだった。
あゆの眼前に、今にもボールが落下する。
「うぐぅ──────っ!!」
あゆは前進した、というよりもダイビングした。ナイスガッツだった。
そのガッツは後逸というかたちで昇華した。
「うぐ?」
「うぐ、じゃねえ!? おまえいいかげんにしないとその背中の羽根むしりとってドナドナするぞ!?」
「う、うぐぅ──────っ!?」
あゆは慌ててボールを追いかけた。その前にセンターの名雪が追いついて中継に返球するが、みちるはすでに二塁を落としていた。
2アウト2塁。
試合の左右を決めかねない、得点圏のランナーだった。
「それでは、行って参ります」
「頼むぞ、裏葉」
「全力は尽くすつもりです」
「ヒットとは言わない。相手は制球が乱れているようだし、もともと球速もない。おまえの選球眼ならフォアボールで出塁できるさ」
「いえ、柳也様はこれまでの栞様の完璧なまでのコントロールを見ていませんから、簡単に言えるのですよ」
「だとしても、おまえなら出塁できる」
「あらあらまあまあ」
裏葉は楽しそうにほほえんで、
「出塁したら、していただけますか?」
「……接吻か?」
「はい」
「……冗談だよな」
「はい、冗談でございますよ」
裏葉はほほえみを絶やさず打席に向かった。柳也のため息を聞きながら。
グリップを握りしめる。これがおそらく、最後の打席。
栞のボールは、これまですべて同じ速度で投げられている。
完璧なまでのコントロールだけじゃない、完璧なまでの一定の球速──114キロのボールを放っている。
ストレートだろうと変化球だろうと。
まるでピッチングマシーンのごとく。
詩乃の投球を魔法とすれば、栞の投球はまさに機械。
キャッチャーのサインどおりにしか投げられない、栞ゆえの弊害だろう。
体力が衰えた今でもそれは変わらない。
だからこそ、この打席までに、タイミングは充分すぎるほどつかんでいる。
そして最大の難敵だった制球が、わずかではあっても、初めて乱れを見せている。
好球必打。
裏葉の最も得意とするそれが、最も効果的な場面で生きようとしている。
……もう、限界か。
肩で息をする栞をマスクの奥から覗き見て、祐一は思う。
……ここまでよくがんばったよ、おまえ。
想定の球数はとうに越えている。なのに弱音を吐かず栞はマウンドに立っている。
自分から降りようなどとは決して言わない。
成長を果たした華音高校のエースがそこにいる。
……だから、もう、限界でいいよな。
そう。
祐一が考えているのは栞の体力のことではない。
本音を言えば、最終回に打席に立つ南の怪物のために取っておきたかった。
最後の最後、これが本当の奥の手だ。
祐一は、栞に向かってサインを出した。
────ピッチングマシーンは、もう、終わりにしようか。
●スコア
◇2死2塁
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【投手】
佳乃 → 柳也
北川 → 栞 → 詩子 → 栞
【本塁打】
往人 美凪
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (遊) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (捕) | 相沢祐一 | |
(投) | 柳也 | (三) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (左) | 月宮あゆ | |
(一) | 神尾観鈴 | (投) | 美坂栞 |