第57話




 天野美汐――彼女の行動原理は大きく分けてふたつある。

 とは、第17話で説明したのだが、もしかすればこの試合最後の天野の打席になりそうなのでもう一回。

 行動原理のひとつめ。面白いことに反応する。とにかく愉快なことに沿ってみる。彼女の持つたぐい稀なる選球眼――物や人に対する観察眼はそこから培われたと言っても過言ではない。

 ふたつめ。沢渡真琴。彼女の持つ独特な雰囲気――自分が愛した『あの子』と同じ境遇を持つ彼女の行動が、時に天野の行動そのものにもなる。

 天野が特に好きでもない野球をやっているのは、まさにその事情による。

 天野は前回に受けたみちるの打球の傷を撫でながら思う。

 私がこの野球部に入ったのは、真琴のそばに少しでも長くいたかったからなんですから……。

「ねえ、真琴」

「あぅ?」

 天野は優しく呼びかける。真琴は大きな瞳をくりくりさせながら天野の顔を見上げる。

 ああ、めっちゃかわいい。

 このまま彼女を家にお持ち帰りして飼い慣らしたい……じゃなくて一緒に暮らしたいという衝動を心の奥底に無理やりしまいこみながら、天野は言葉を続けた。

「真琴はこの試合、勝ちたい?」

「うん。勝ちたい」

 真琴はにへらっと笑って即答した。そこには迷いも躊躇もなんにもない。

「だって真琴、このチームでまだ野球やってたいから」

 天野はやっぱり優しい瞳で真琴を見つめている。いつもこんなふうな表情をしていたら天野の内面を理解する者もすこしは出てくるのだろうが、もちろんそんなことは本人の知ったことじゃない。

 天野の内面。真琴が好きという気持ち。自分の前からいなくなってしまった『あの子』のことを想い続けるということ。

 それは、実は天野自身の受動的な性格を覆したいという希望から構成されていたりするのだが、彼女がその事実に気づくのはいつになるのか――だけど、すくなくとも今の彼女は昔の彼女よりも気づいていた。

「それでは、勝ちましょうか」

 そうして天野は打席に向かった。

 いつも使っているバットじゃない、舞の鍔付きバットを持って。

「川澄さん、これ借りますね」








 終盤の七回裏、佳乃のスタミナもそろそろキツくなる頃合でクロスファイヤーもシンカーもキレが失われつつあったが、天野にとってはそれでも厄介な代物であることには変わりない。

 初球、佳乃のクロスファイヤーを天野はへろへろスイングで空振った。

 ここでファーストランナーの名雪が走り、キャッチャーの聖はセカンドに送球すらしなかった。走りたかったら走れ、と言わんばかりに。

 二球目、佳乃のシンカーを天野はこれまたへろへろスイングで空振りした。

「……あいつ、追い込まれる前から振ってるぞ」

 祐一にとっては、いや華音高校メンバー全員にとって信じがたいことだった。だってあの疲れることが嫌いな天野が初球から振っている? カット打法でフォアボールを狙っているわけでもなく? そんなカンジだった。

「スクイズのサイン、出す間もなかったわね……」

 香里はグラウンドをぐるりと見回す。絵亜高校の内野は全員、さも当然のように前進守備についている。今は1アウトで2、3塁。内野ゴロで点をやらないためだ。しかも試合は終盤、点差はたった一点。ここで点が入るかどうかでこの試合が決まると言ってもいいくらい重要な場面だった。

 だから祐一や香里の頭には当然、スクイズの選択肢はあった。とにかく同点に追いつかなきゃならない。だがスクイズははっきり言って分の悪い博打だった。

 なぜならサードランナーは負傷した詩子に代わって、あの月宮あゆである。鈍足というわけではないが、野球のルールを――つまりはスクイズのサインをちゃんと覚えているか、いやそもそもスクイズというのがなんであるかちゃんと理解しているかとても謎の超初心者プレイヤー。

 祐一は、非力だが神がかり的な選球眼を持つ天野に、この打席をすべて任せたのだった。天野に望むのは、得意のくもの巣カット打法によるフォアボール。それで満塁。絵亜高校もその可能性が高いと踏んだから、名雪を簡単に走らせたに違いない。

 この流れは、華音高校にとっては儲けものだった。

 なにせ次の打順はミート力には定評のある香里だった。犠牲フライの一本で一点くらいは確実だとみんながみんな思っていた。

 だというのに。

「ツーストライクノーボールなんてカウント、天野の打席では初めてじゃないか……?」

 天野の二度のへろへろ空振りを見た絵亜高校内野守備陣は、こいつカット以外打てないんじゃないか、打ってもボテボテにしかならないんじゃないかとさらに守備位置を前進させた。特に往人(ハートブレイクのため15分の試合中断後、生き返った)は名雪のバント出塁を許した手前、しょうがないのでかなり前に守っていた。

 一方の天野は黙々とへろへろ素振りを繰り返している。その手にはなぜか舞の鍔付きバットが握られている。

「あのバット、なにかの作戦かしらね……」

「なぁ舞、あれって鍔が付いている以外になんか秘密でもあるのか?」

「べつに」

 舞は短く答えた後、ちょっとだけ考える素振りを見せて続けた。

「ただ、普通のバットより重いかも」

「そりゃ鍔が付いてるぶん重いだろうけど……」

「それだけじゃない。鍔を外しても重いと思う。魔物を討つためのものだから」

 剣で斬られる代わりにバットで撲殺される魔物を思うとなんか同情を誘うな……と祐一は悲しくなった。悲しくなった後、疑問が浮かんだ。

「あいつ、非力なくせになんで重いバットなんか……」

 そこまで口にして祐一はまさか、と閃いた。いやこれまでの流れ的に天野が思いついていてもおかしくなかった。

 事実、美凪と詩子が繰り出した二度のポテンヒットを前にして、天野はこの作戦を思いついた。

 一球外した四球目の外に逃げるシンカーを、左打席の天野はハエが止まりそうなへっぽこスイングながらもバットに当てて、サード方向へうまくボールを運んだ。

 小さなフライはゆるゆると、前進しすぎの往人の頭を超えてぽてんと落ちた。

 非力な自分でも重いバットでフライを打つ、そして前進守備の内野の頭を越すというまぎれもない天野の作戦勝ちだった。

 ベンチが盛り上がる。よくやった美汐―――!! と真琴が一番よろこんだ。天野は走りながら無言でうなずいた。

 だが、これが華音高校待望の同点のポテンヒット―――には、まだなっていなかった。

「なにやってんだあゆ!! 走れ!!」

 おろおろとボールの行方を見守っていたあゆは、打球がヒットになってもまだおろおろしていた。

「月宮さん、走って!」

「うぐ?」

「うぐ、じゃねえ!! ホームに向かって走れ!! こっちだこっち、俺のいるほう!! 全力疾走!! 後ろからタイヤキ屋のオヤジに追いかけられてるカンジで!!

「う、うぐぅ――――っ!!」

 あゆは全力疾走した。必死に。死に物狂いで。名雪の足に勝るとも劣らないスピードだった。それはタイヤキ屋のオヤジをイメージしたおかげだけじゃない。

 あゆはだって、自分は絶対に足手まといになりたくなかった、初心者でもなんでもこの試合に勝ちたいって気持ちはみんなとまったく変わらなかった。

「聖さん!」

 打球を拾った佐祐理はすぐさまバックホーム、スタートダッシュが遅かったぶん、あゆは聖とのホームクロスプレーに突入した。

 あゆは身体ごとぶつかっていった。その姿はまるでタイヤキをかかえて逃げている途中で警官に遭遇したけど止まれないのでいいやこのまま突っ込んでやれという姿だった。

 そしてあゆは聖のブロックに吹っ飛ばされた。完全完璧アウトだった。ボクの活躍ってひょっとしなくてもこれだけ…とあゆはキラキラと涙した。あゆちゃんナイスガッツ、とファーストの観鈴もちょっぴし涙した。

 主審の久瀬がアウトの宣告をする前にそれはやって来た。

「聖さん、まだです…!」

 佐祐理の悲痛な叫びがあがった。聖はぎょっとする――あえなく弾き飛ばされてしまったメインヒロイン(原作設定)の影から、ヒロインの座を奪う勢いでセカンドからさらにサードベースを蹴った名雪の姿が現れた。

「あゆちゃんのカタキだよ―――っ!!」

 もちろん名雪はヒロインの座なんか関係なくただ華音高校のために、みんなのために、ひいては祐一のためにホームベースに手を伸ばした。この試合中、名雪はこれで何度目のスライディングになるだろう。度重なる走塁に盗塁にホームスチール、髪もユニフォームも大人びた美人フェイス(原作設定)も、名雪の姿はグラウンドの土でどこもかしこも汚れていた。絵亜高校との激闘を最も如実に表す選手、それが水瀬名雪だった。

 そしてそれはあゆのタックルで体制を崩していた聖の死角を突いた、まさに起死回生のスライディングだった。

「せ、セーフ!」

 おおおおおお!! とベンチから歓声があがった。それは試合中にあがった声の中でも最も大きな歓喜の声だった。

 ついに待望の一点をもぎとった名雪は、みんなに肩や頭や身体全部をたたかれもみくちゃにされて、もっとボロボロになった。

 そのボロボロは華音高校野球部キャプテンにふさわしい勲章だった。








「どうも、盛り上がってるみたいだな」

 かたやスケッチブックを抱える小さな女の子、かたや盲目であるがゆえに甲子園に想いを馳せる女の子を従えたそのトワイライトサムライは、さゆスタの思った以上の熱気を道すがら感じていた。

「それじゃあ、柳也さん」

 川名みさきは後ろに手を組んでくるんと振り返り、いたずらっぽい微笑を浮かべて柳也をその光を失った瞳で見た。

「わたしたちは、ここでお別れですね」

「ああ」

 上月澪の間違いだらけの道案内でようやくたどり着いた柳也は、試合がまだ終わっていないことにまずホッとしていた。だからお別れと言ったみさきの言葉にも普通にうなずいていた。

「お別れはちょっとさびしいけど、お別れです」

「ああ」

『ここからは敵同士なの! 泣いても笑ってもそれは変わらないの!』

「ああ、わかっている」

「柳也さんのこと、わたし好きですよ」

「ああ、わかって……って、なに言ってる」

「好敵手という意味です」

 あ、そう。柳也は後ろ頭を掻く。まったくこの子の前では形無しだな。こういうところが裏葉に似てるんだって。

「柳也さんは登板されるんですか?」

「どうかな。勝っていればその必要はないだろうし、同点にでもなっていればその必要が出てくるのかもしれない」

「チームのためになるなら投げるってこと?」

「そうなるのかな」

「じゃあ、負けていたら?」

「そうだな……」

 柳也は、梅雨時でも晴れ渡ったこの空の下に立っている仲間を思い浮かべながら、口にした。

「そのときは、キミのために投げてやろう」

 らしくない冗談に、柳也は目を逸らした。もう一度後ろ頭を掻いた。

「楽しみにしてますね」

 みさきの顔を柳也は見ていなかった。だから彼女がどんな意味でそう言ったのか柳也は知らなかった。知らないほうがいいと思った。

 みさきと澪は華音ベンチに歩いていった。柳也も絵亜ベンチに足を向けた。

 そのとき再び大きな歓声が柳也の耳に届いた。

 それが、絵亜高校が華音高校に逆転を許した証であることを柳也はまだ知らなかった。








●スコア


◇2死1塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】
 佳乃
 北川 → 栞 → 詩子

【本塁打】
 往人 美凪




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (遊) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (三) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (捕) 里村茜
(中) 神奈備命  (投) 月宮あゆ
(一) 神尾観鈴  (左) 美坂栞


柳也




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