第56話
「どっかーん☆」
ホームプレートの角を掠め去る佳乃のシンカーを、詩子は不恰好に腕を伸ばしてどうにかバットの先に当てた。
打った打球はふらふらと三遊間に上がる。
往人と佐祐理が肩越しに打球を追う。レフトから美凪もまた懸命に突っ込んだが、彼女はかなりの鈍足であり捕球は叶わなかった。
打球は三者の視線に挟まれながら、グラウンドの上にぽとりと落ちた。
「ま、こんなもんでしょ☆」
詩子はへらへらしながらファーストベース上でVサインする。
「……ラッキーなやつ」
前回の美凪を真似したような、見事なテキサスヒット(ポテンヒット)だった。祐一は呆れる。なぜなら詩子は、いつかの打席でもこれとまったく同じテキサスヒットを打っているのだ。
性格同様、まさしく『人を食った打撃』というわけだ。
「まさか狙ってやってるわけじゃないよな……」
「それは詩子にしかわかりません」
祐一の嘆息交じりの言葉に、茜は淡白に答える。
今のように守備の抜け目を狙うなんてバットコントロールは並大抵の芸当じゃないことを祐一は――祐一だからこそ知っている。
だからそれを狙える美凪はまぎれもなく一流のバッターだし、詩子だってもしかすれば投球だけじゃなく打撃のエキスパートであるかもしれないのだ。
詩子のVサインに、茜はこくっと軽くうなずくだけだった。詩子が出塁したことは、実は内心自分のことのようにうれしいのだが、そんなことを顔に出すほど茜は素直じゃないし、そもそも中学時代のイケてない野球チームの影響で味方のヒットを喜ぶという発想自体ほとんどなかった。
ちなみに詩子と茜が華音高校で下位打線にいるのは、単にふたりの打撃力を祐一自身まったくわからなかったというだけだ。もし詩子と茜の試合出場をもっと早い段階で決めていて、事前にふたりのバッティングレベルを調べることができたなら、華音高校の打順は変化していただろうし、この試合も有利に運べたかもしれない。
そんなふうに祐一が思考している間に、ネクストバッターだった栞は佳乃の前にスイングアウトの三振を喫していた。
「……あの子、スイングしたわね」
香里はベンチで腕を組んで、渋い顔をする。
「香里、振らなくていいって言ったのにね。でも、どうして?」
「そりゃ、すこしでも多く休むのが今のあの子の仕事じゃない」
と、なぜだか名雪はとびきりの笑顔で香里の仏頂面を見つめていた。
「……なによ」
香里は不機嫌に言った。なんだか胸がもやもやして、自分でもよくわからなくて、知らず眉間にしわが刻まれていた。
名雪はやっぱりにこにこ笑顔で、
「栞ちゃん、強くなったよね?」
「なんであたしに聞くのよ」
「栞ちゃんが強くなってさみしいかなって」
香里は言葉を失った。自分ではそんなこと思ってもいなかったはずなのに、この自分にとって一番の友人は香里の心情をずばり的確に指摘した。
「うくっ……悔しいです」
栞は唇をきゅっと噛み、バットを抱きしめながら戻ってくる。
「そんなに落ち込むな」
すかさず祐一が声をかける。すると、栞はちらりと上目遣いで祐一のぶっきらぼうな表情を見た。それが当たり前のようにとてとてと祐一の前に歩いていく。
「なんで振ったんだ?」
「……塁に出たかったからです」
「出塁したら、攻撃の間ずっと走らなきゃならない。体力、まだ回復してないだろ」
「それでも」
栞はキッと祐一を射た。
「もう、休んでるだけなんて嫌なんです……!」
栞はもはやためらうことなどしない、だって自分は頭をぱたぱたやってやり続けてついにあの悪魔と天使を追い払ったのだ(まぁまた栞がネガティブまっしぐらになったら悪魔と天使はファンファーレと共に復活するだろうけど)。
「もし変にバットに当たってゲッツーになったら、ゴミ箱にポイするところだったぞ」
「じゃあ祐一さんがゲッツーになったら、私がポイします」
「……おまえ、言うようになったな」
「はいっ。……えへへ」
そんなふたりを、香里と名雪はベンチから眺めていた。
「……さみしい?」
名雪の言葉に、香里はぷいっと顔を背けるだけだった。
「わたしは、さみしいな……」
小さく、誰にも聞こえないくらいの声でつぶやき、名雪もまた視線を祐一からグラウンドへと戻した。
次は名雪の打順。
後ろ髪引かれつつ、名雪は打席に向かおうとする。
そのとき、
「名雪」
祐一の声に、名雪の心臓がとくんと跳ねた。
「がんばれよ。おまえの必殺技で出塁してこい」
「…………」
「失敗したらポイするからな」
「……いじわる」
ああ、と名雪は思う。やっぱりわたしは昔から祐一が好きなんだなあ。興味もなかった野球をやっているのだって、祐一が誘ったからなんだ。
そして今はみんなで野球をすることがこんなにも大好きになっている。
名雪は一球二球と見送って、カウントは1−1。
そして三球目のストレート――これまでさんざん苦労させられてきた佳乃のクロスファイヤーを、名雪は練習を思い出しながら落ち着いてバントした。
ボールはぽてぽてとピッチャーとサードの真ん中に転がる。
送りバント。名雪の必殺技である。
もちろんただの送りバントではない、これは自分も生きる送りバント――――!
「国崎君、ファーストだ!」
マスクを放り上げた聖がすぐに指示をくだす。
だが名雪の超特急走力に加え、面倒くさがりの往人は前進してバントをさばくというのが最も苦手という部分も幸いし、名雪はボールよりも先にベースを駆け抜けた。
「もーらい☆」
そしてファーストランナーだった詩子はなんとセカンドをあっさり越えてサードへ特攻をかけていた。
「観鈴さん、こっちにボール戻してください!」
サードベースカバーに入っていたショート佐祐理が声を大にして言った。
内心、してやられたと思いながら。
観鈴の肩は弱い。とんでもなく。絵亜高校ではダントツに――野球経験の浅い華音高校を入れてさえ最下位に位置するだろう。
すでに試合は後半、絵亜高校のその守備的弱点を相手チームに知られていてもおかしくない――――!
「ぎゅーんっ!!」
観鈴は飛んだ。
ボールを持って両腕を伸ばしながら飛行機のように地を蹴り、そのまま高くジャンプし、身体をひねりながらボールを投げ、ふわりとリボンをはためかせて着地し、
べちゃっと転んだ。
「こ、これは……『転向力変化球』!!」
なぜかあゆがベンチから立ち上がって叫んだ。
いや、「なぜか」ではなかった。だってあゆはあのとき、観鈴と初めて出会った夕焼け色のグラウンドで、この必殺ボールを見せてもらっていたのだから。
そのときのボールはころころ転がってあゆのもとに届く前に止まったのだが、今回は違った。転向力とも変化球ともまったく無関係ではあったが、とにかく観鈴の送球はたしかにサードへ向かって飛行機のように飛んでいた。
とはいえスピードはへろへろで、たとえるなら燃料切れでいつきりもみしながら墜落してもおかしくない飛行機だった。詩子は楽々セーフになると思われた。
「ナイス返球だ、観鈴」
観鈴の送球を往人が途中で奪った。中継だった。いや中継というとあまり正確じゃない、往人はサードベースに向かってきゅぴーんとスライディングしたのだから。
タイミングは際どかった。
詩子もまたスライディングをしながら考えた。
……あたし、クロスプレーで殺される?
砂塵が舞い、ふたりの視界を一瞬隠す。
ベース上でからまりあった詩子と往人は、同時に顔を上げた。
それから、妙な感触に詩子の顔がまた下を向いた。
ぼむっと間違った化学反応のように頬が真っ赤に染まった。
「どっ、どこさわってるのよ!? エッチ!!」
ボールタッチは詩子のふくよかな胸になされていた。
詩子の手刀がほぼゼロ距離で往人の心臓に決まった。生傷をえぐるハートブレイクショットだった。往人は悶絶した。こいつマジコロス…と最後につぶやいた。
判定は、セーフだった。
「いつつ……なんなのよっ、あのきゅぴーん男はっ」
場所は代わってベンチ裏、詩子は救護室で秋子の手当てを受けていた。
ベース上で乱暴にからまったせいか、詩子のただでさえ脆い左肩は、あと10発の弾丸を残しつつ弾詰まりを起こした銃みたいになっていた。
要は、秋子からドクターストップがかかったのである。
詩子の代走として、今はあゆがサードに立っているはずだった。
「ほんとサイッテー、次の回も登板する予定だったのにー!」
詩子は怒り心頭で、そばについている茜にまで当たり散らす。当然といえば当然だ。まさかこんな結果で詩子の三振ショーの幕が降りるなんて思ってもみなかった。
「あのきゅぴーん男、今度対戦したらタダじゃおかない……。まず一打席目は心臓に自打球当てさせてから三球三振っ、もちろん自打球以外はかすらせもさせないっ、それで二打席目も自打球当てさせながら三球三振……」
「詩子の肩では一試合の間に同じバッターと二度対戦するのは難しいと思いますけど」
「だったらあいつの打席にだけ登板するっ、それで自打球当ててさらに当ててまだ生き返るようならデッドボールで撃ち殺して……」
いっこうに収まる気配のない詩子の罵詈雑言を耳にしながら、茜は感心にも似た気持ちでいた。いつもいつもへらへらしている詩子なので、こんな姿が今は逆に新鮮だった。
それだけ、詩子はあの南の怪物を買ってるってことでしょうか。
茜はほほえんだ。夏の甲子園が楽しみになった。こんな詩子を見られただけでもこの試合に参加できて良かったと思った。
南の怪物さん、あなたはとんでもない女の子に気に入られてしまったみたいですね。
●スコア
◇1死1,3塁
|
【投手】
佳乃
北川 → 栞 → 詩子
【本塁打】
往人 美凪
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (遊) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (三) | 相沢祐一 | |
(投) | 霧島佳乃 | (捕) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (投) | 月宮あゆ | |
(一) | 神尾観鈴 | (左) | 美坂栞 | |
柳也 |