第52話




「栞の武器は、なにもライズボールだけじゃないだろ?」

 祐一はこれから守備につく華音ナインを前に、不安などおくびも出さずに言った。

「むしろ、栞の最大の武器はまだ損なわれちゃいないんだ。ライズボールを読まれたって、どうとでもなる」

「栞ちゃんの最大の武器?」

「ああ」

「それってなんですか?」

「……栞、おまえが聞いてどうする。制球力だよ」

「そうね」

 香里は、さすがにまだ完全に立ち直ったとは言えないまでも、いくらか明るい顔をしていた。

「そう……でしょうか」

「そうなんだよ。だから栞、おまえはいつものようにキャッチャーの要求どおりに投げていればいい」

「ならあとの問題は、あたしがうまくリードできるかどうかかしらね」

 わかってるじゃないか、と祐一は香里の肩をぽんっとたたく。

 普通だったらこんなふうに気軽に身体にさわろうものなら、祐一は今ごろかおりんバットの餌食になっていたはずだった。

 だが今の香里にはそんなことに気を留める余裕がなかったし、なにより祐一が自分を信頼してくれたという安堵感ないし感謝の気持ちが多かった。

 結果、香里は祐一にほほえみかけるという他人から見たら決してありえない行為を犯した。

 すでに守備へと向かっていた名雪や真琴なんかはこの鬼のかく乱に気づかなかったが、このとき最も香里にとって見られたくなかった人物があろうことか目撃していたのだった。

「お、お姉ちゃん……」

 栞は、ふたりって今までずっと犬猿の仲でいつも私が板ばさみになってたのに……と目を真ん丸くしてから、

「よかった。仲良くなってくれて」

 姉も祐一も大好きな、実に栞らしい感想を述べた。

「……ま、まさか美坂が相沢のやつをロックオン?」

 そしてベンチにいた北川の頭のアンテナがぴーんと立った。

「なぜだ……。なぜいつもあの自己チューな相沢ばかりがっ」

「……そのセリフ、まるで恋敵みたいです」

「あれ、茜ちゃん。守備は?」

「……髪を直しに来ただけです」

 茜は慣れた手つきで乱れていた三つ編みを黙々と整えると、黙々としばらく座ったままでいて、それからやっぱり黙々とグラウンドに戻っていった。

 北川は「あの三つ編み、巨大すぎてたまに生き物に見えるんだよな……」と場違いな独り言をつぶやいてから、パソコンで開きっぱなしのスコアブックを見た。

 6回表、絵亜高校の攻撃。

「せっかくの栞ちゃんと美坂のバッテリーだからな、最後までちゃんとつけてやるよ」

 モニターに映った記号を横から覗きこんで「これなに? これは?」と質問責めを行うあゆに辟易しながら、北川は痛めた右手を使わず左手だけでタイピングを始めていた。








 トップバッターの佳乃はさっきのホームスチール阻止でルンルン気分になりながら打席に入っていた。

 初球、2球目ともにきわどいところを突かれ、あっという間に2ストライクと追い込まれたが、佳乃の顔はまだまだ余裕でいっぱいだった。

 絵亜高校の作戦は引き続き「2ストライクになったらカットで逃げる。決してライズボールには手を出さない」である。

 栞のボールは遅いので、カットは難しくない。フルカウントからカットが続けば、業を煮やしたバッテリーは必ず決め球のライズボールを投げてくる。

 そしてライズボールは、その威力からか、栞が投げるボールの中で唯一コントロールが乱れるのだ。

 ほとんどが高めのボール球となり、ストライクにならない場合が多い。

 前回はこの作戦が功を奏し、抜群の制球力を誇る栞からフォアボールを連続してたたき出した。

 ……ごめんねぇ、華音高校のピッチャーさん。あたしと同じで初めてのマウンドなのに、こんな手使っちゃって。

 だけども自分らだって勝ちたいわけで、これは決してズルい手なんかじゃないと佳乃も重々承知している。

 続く3球目のコーチャーからの指示は「ライズボール」、佳乃は見送ってカウントは2−1。

 そして4球目、栞の投げたボールは低めの甘いコースに入ってきた。

 コントロールミス? 佳乃は思った、甘い球なら打ってもいいって裏葉さん言ってたよね?

 本当は言っていないのだが(打っていいのは上位打線だけ)、上機嫌だった佳乃は打ち気満々でスイングした。

 ガキン。

「……あれ」

 打ち損ねの打球はボテボテとショートに転がり、「なんかひさしぶりの出番〜☆」と詩子は難なくさばいて送球する。

 ふえーん、ぜったい打てると思ったのにぃ。佳乃は簡単に討ち取られてしまった。

「佳乃のやつ……油断したな」

 聖の顔は言葉とは裏腹にゆるんでいた(姉バカ)。

「油断だけではありません。栞さまはライズボールをうまく高めの吊り球として使ったようでございますね」

 特に佳乃に対する今回の配球は、すべて高めに集まっていた。そのため打者の視点も知らずに高くなり、低めのボールにうまくバットを合わせられなかったというわけだ。

 そしてネクストバッターの神奈にいたっては、2ストライクから低めいっぱいに投げられたボールのカットを失敗し、あえなく三振に終わっていた。

「神奈さま……わたくしがあれほどバットコントロールの特訓を施して差し上げましたのに……よよよ」

 裏葉の顔は言葉とは裏腹に青筋が立っていた(スパルタ)。

「相手バッテリーも、よくやります。一気にくずれると思いましたのに」

「観鈴ー、あんたは油断するなやー!」

「が、がお……」

 わたしはいつも一生懸命やってるよ。だけど、わたしの技術じゃ遅い球に当てるのだって一苦労だから……。

 だからこそいいかげんなプレーなどせずいつでも全力で打席に挑むのが、観鈴という選手の今の技術のすべてなのだ。

 徹底したストライク先行で追い込まれた3球目、観鈴は全力でスイングし、神奈とは違ってしっかりとバットに当てていた。

 ボテボテのピッチャーゴロ。栞はホッとしながら処理しようとして、そのとき突然膝が脱力してかくんと折れてしまい、あわてて前に出した右足がちょうどよくボールを蹴ってしまい、打球は正面にいた香里の脇を抜けていった。

「ちょ、栞……」

「ご、ごめんなさい〜!」

 香里は焦ってボールに追いついてファーストに送球しようとするが、いつでも全力の観鈴は一度も減速せず、ベースを駆け抜けていた。

 塁審のセーフという声に、観鈴は驚いて振り返った。

「え、わ、わたし……」

「ようやった観鈴ー! それでこそうちの娘やっ!」

「観鈴さまは決して足は速くありませんが、これは最後まであきらめなかった結果でございますね」

 神奈にくどくどとお小言を言っていた裏葉が感心したようにうなずいた。

「ドンマイ、栞。あんまり落ち込まないようにね」

 落ち込み癖のある栞に、香里は真っ先に釘を刺す。

 栞はすまなそうな顔はしていたが、うんっと健気に返事したので、香里はひとまず安心した。

 だが、セットポジションに入ってすぐに投げた牽制球を栞は暴投してしまった。

「……し、栞?」

 香里は思わず立ち上がる。

 ごめんなさいごめんなさいと謝る栞、観鈴はベンチの「走れー!」という声にあわててセカンドに向かっていく。

「ひょっとしたら、これは私たちが最も恐れていた事態に陥ったのかもしれませんね」

 マウンドで謝り倒す栞を眺めながら、天野はひとりごちた。

「ですが、投手は栞さんしかいないわけですし、いくら体力がないからと言っても……」

 流れる汗を拭い、隠してはいるが疲労を宿した表情の栞に、天野は瞳を細くする。

「勝つためには、踏ん張ってもらいませんと」

 天野は次に左打席に立つみちるを見る。

「彼女は小柄な体躯に似合わないあの大きなバットをぶんぶん振り回す強打者です。さて、栞さんは抑えられるでしょうか」

 天野が人事みたいにブツブツ言っている間に、カウントは2−1となる。

 そのとき香里から内野陣へのサインが出る。

 栞の投球と同時に、サード茜とショート詩子がぐっとセカンドベース寄りに移動した。

 とすると、栞はインコースに投げるはずだ。左バッターのみちるがひっぱると予想してのこの守備配置である。

 鉄壁の内野の要は投手の制球力にあり――よって打った球はすべて内野の守備範囲に転がり込む。

 今回は、セカンド真琴かあるいはファースト天野に高確率で打球が飛んでくるというわけだった。

 天野は内心めんどくさいと思いながら打球に備える。まぁ、私も勝つための助力はやぶさかではありませんから。

 そしてみちるの「にょわ――――っ!!」という雄たけびとともに飛んできた打球は天野の真正面だったが、とんでもない速度のライナーだった。

 ちょっと待ってくださいこれは聞いていません通常のゴロやライナーならわかりますがこんなフェンスまで届きそうなくらい威力のある打球はとてもじゃないけど私では(思考時間0.02秒)――――

「天野さん―――!」

 栞が絶叫した。

 天野の両目がカッと見開き、投球だけでなく打球さえ見極める選球眼が開眼した。

 その打球が天野の胸部ちょっと下を突く軌道だと、瞬く間に見破った。

 そして天野は頭脳を覚醒させ、対抗策を弾き出す。

 この打球はキレる→とても厄介→グラブに入るか微妙→キャッチは無理そう→自分はひ弱→ぶつかったら痛い→痛いの嫌い→取るだけ無駄。

 天野は見逃した―――つもりだったのに、なぜか身体が動いてくれなかった。

 なぜですか、私はたしかに反射神経は良いほうじゃないですが人間に備わる危険回避本能であれば脊髄反射を利用して打球をかわすくらい――――

 そのとき天野の広い視野の片隅に、栞の必死な顔がちらりと映り、するともう天野はよけることをあきらめた。

 最後のあがきでグローブを構えようとするが叶わず、打球は天野のみぞおちに深くめり込んだ。

「……っ!」

 冗談じゃなく、視界が赤と黒に明滅した。

 天野はグラウンドにくずおれる。

「美汐、よくやった―――っ!」

 すかさず真琴がこぼれ球を拾い、そのままファーストベースを蹴ってアウト。

 香里がすぐに痛み止めスプレーを取りにベンチへ駆けた。他のみんなは倒れたまま動かない天野の元に寄り集まる。

「あ、天野さん…!」

 栞が真っ先に天野を抱き起こした。

「……バカ。おまえ、無理するな」

 脂汗を浮かべて痛みに耐える天野に、祐一は言った。

「おまえらしくなく、熱血プレーじゃないか」

「……熱血プレー?」

 天野は唇を強く噛み締めてから、

「こんな痛いわ苦しいわ息はできないわ涙は出てくるわのプレーなんて、二度とごめんです」

 それから天野は、ふうっと息をついて瞳を閉じた。

 ……あのみちるって子、私のブラックリストに書いておくことにしましょう。

 絵亜ベンチでみちるが身震いした。

 そして、天野は思ったのだ。

 ……どうしてでしょうね。なぜ私は、ボールをよけなかったのでしょうね。

 きっと運動神経が機能不全を起こしたためだろうと、天野は思うことにした。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】
 佳乃
 北川 → 栞

【本塁打】
 往人 美凪




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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