第51話




 ゲッツーとなり、肩を落としてベンチに引き下がる香里に、天野は背後霊のように近づいていった。

「らしくありませんね、美坂さん」

「わあ!? なっ、い、いきなり背後から声かけないでよ!」

「あなたの気持ちはわかるつもりです。たしかに栞さんのライズボールをことごとく見逃され、また4番5番打者にはあろうことかホームランを打たれたのは……」

「…………」

「あなたのせい、と言えることもあるかもしれないと否定せざるを得なくもない」

 どっちなんだ。

「ライズボールは打者の手元で急激に変化するため、捕球も難しい。よってキャッチャーはあらかじめ腰を浮かして捕球体勢を取らなければならない…」

 天野は、香里の横を通り過ぎざま、淡々と言う。

「それを、絵亜高校は私たちよりも早く見破った」

 天野は肩越しに、ちらりと香里を見る。

「試合前の練習中でその欠点に気づけなかった、これは私たちのミスです」

「…………」

「これまで何度もあなたと栞さんの投球練習を見てきた私たちでさえ気づかなかったんです。それをたった一度の試合中に見破った、相手側がすごかったんです」

 だから、と天野はあくまで淡々と、でもどこか不機嫌そうにこう続けた。

「あなただけのせいでは、決してありません。うぬぼれないことです」

 香里はこくっと息を呑む。

「仲間を信頼しろ、というのはあなたが北川さんに言った言葉だと思いましたけど」

 そして天野は再び顔をベンチに振り向け、もうこれ以上は声をかけることなく歩いていった。

 香里は、汗ばむ拳をきゅっと握る。

 自分はうぬぼれていた? 天野さんが言ったように?

 あたしは栞とバッテリーを組みたくて、だから相沢君よりもぜったいうまくなってやろうと思って、みんなが認める正捕手になってやろうと意気込んで。

 だけど練習中、相沢君に全幅の信頼を寄せる栞を見て、それに応えられる相沢君の実力を見せつけられて…。

 相沢君は、あたしと違ってライズボールを完璧に捕球していて。

 それは、想いだけではどうしようもなく埋められない、力の差というやつだった。

 ふたりはみんなが認めるバッテリーだった。

 相沢君とバッテリーを組む栞からは、笑顔の回数が増えていき、それはあたしが望んでいたことだったはずのに、なぜだか胸の奥がこう、辛くて苦しかった。

 栞は、もう入院生活を送っていた頃の栞じゃないんだなぁって、お姉ちゃんはもう必要ないのかなぁって、そんなことあるわけないって強く思っても、どうしても不安は拭いきれなかった。

 だから今回、相沢君が補習授業で試合に出られないと決まったとき、内心ホッとしたのも事実だったんだ。

 香里はベンチに入ったところで、さっきの天野の言葉に後押しされるように、こう叫んだ。

「みんな、聞いて!」

 チームの面々――前回の大量失点でどんより落ち込む栞、慰めるあゆと秋子、エロサイトを見ていた北川、そんな北川に平手を食らわす茜、バッターボックスに向かっていた舞とネクストサークルでバットを振り回していた真琴、鳴らない口笛を吹いていた一塁コーチャーの詩子も、その大きな声で振り向いた。

「栞のライズボールは、見破られたわ。相手のコーチャーが打者に指示を出してる」

 一同がしんとなる。

 香里は言った。

「だから……」

 捕手を交代しよう、と続けようとしたところで、どこからか声がかかった。

「だから、逆にそれを利用してやろう、だろ?」

 三塁コーチャーだった祐一が、不敵な笑みを浮かべて――猛然とこちらにダッシュしながらだったのでそれはとてつもなく怖かったが、とにかく香里は二の句が告げなくなった。

「栞のライズボールは、まだ死んでない。ていうか俺抜きで勝手に何か決めようとすんなよ」

 膝に手を当ててはあはあと肩で荒い息をつく祐一を見て、仲間はみんなきょとんとしていた。

「今のままでいい。栞は俺たちを信頼して投げろ。それだけだ」

 祐一が今かばっているのは、自分なのか栞なのか、香里にはちょっとわからなかったけれど。

「……うん」

 こう、素直にうなずいていた。

「あたしも、そう言おうとしたのよ」








 次の打者――四番打者である舞に対し、聖が取った作戦は敬遠だった。

 この次の五番はクロスファイヤーが有効な右打者、しかも大降りで何も考えていないバッターだからな、というのが聖の談だが、真琴にとっては不満もいいところだった。

「真琴がまだヒット一本も打ってないからって、ムカつくー!! ぜったい後悔させてやるんだからー!!」

 これが真琴の談である。

「……剣バットをさび付かせるわけにはいかない」

 これは舞の談である。

 自分らのチームは逆転されたとはいえ、その差は一点。香里がゲッツーで倒れても、三塁には名雪がいる。まだ一打同点のチャンスなのだ。

 さっきまで沈みきっていたベンチのムードも、祐一のおかげで盛り返してきたのだ。

 この流れを絶つわけにはいかない。

 試合ももはや終盤、向こうにまた流れを渡してこれ以上点差が開いたら、追いつくことは困難だ。

 だから、せめて一点。

 この回で必ず一点を取り、同点とする。

 勝ちに向かう流れをつかむ――――

 聖がキャッチャーズボックスから立ち上がり、外に大きく外れたボールがグローブに入る前に、舞は動いた。

 腕を大きく伸ばし、不恰好の体勢ながらボールに食らいつき、バットの先でぼてぼてのファールを打った。

「何のつもりだ?」

 フォアボールのはずがカウントは1−3となり、聖は厳しい口調で問い詰める。

「……あなたたちが勝負してくれないから」

「私たちが腰抜けとでも言いたいのか? だとしたらお門違いだ。敬遠は勝つためのれっきとした戦術のひとつだ」

「……だとしても、これはつまらない」

「私情を持ち込むキミのほうが、つまらない人間に思えるがね」

 舞は憮然として答えなかった。

 ボールが佳乃に渡されると、舞はやっぱり憮然として、どういうわけか右バッターボックスに入った。

「……何のつもりだ?」

「あなたたちが勝負してくれないから」

 まさか佳乃を挑発しているわけじゃあるまいな、と聖はマウンドに立つ妹の様子をうかがう。

「あのぅ……投げちゃっていいの?」

 佳乃は困惑気味だった。

「かまわない。私は右で打ったことなんかないけど、かまわない」

 どうも本格的に挑発らしい。

 だからといってそれに乗る義務があるわけじゃないし、なにより聖は一度相手の挑発に乗って佳乃の調子をくずしてしまった前科がある。

 聖はもう決して相手のペースにはハマらないと固く心に誓って、佳乃にボールを要求する。

 敬遠続行である。

 それも、もうバットにはどうがんばっても当てられないくらい外側に向けて、佳乃にボールを投げさせた。

 大きな放物線を描いて、ボールは右打者になった舞のはるか前方――ホームベースからずっと遠い地点へと流れていく。

「残念だったな、華音高校の四番バッターさん。おとなしく一塁でチェンジを待っていてくれ」

「……それはちがう」

 そして舞はいつもの仏頂面をほんのすこしくずし、にやっと笑んだ。

「チェンジになるのは、一点を取ってから」

 舞は、バットを突き出しボールに向かうどころか、逆に身を引いた。

 このときになってようやく聖は知る――舞が身体を外にどかしたおかげで、これまで視界に入り辛かった三塁側を見通すことができたのだ。

 聖は目を見張る。

「おい、なんか知らんがランナーが走ってるぞ」

 あまりに遅すぎる往人の声は、怒涛の勢いでホームに突っ込む名雪の足音でかき消された。

 これは――敬遠のスローボール、そして右打者を盾に取ったホームスチール!!

「お姉ちゃん!」

 佳乃が悲鳴のように叫んだ。

 すでに名雪は本塁間近に迫り、頭からスライディングの体勢に入っていた。

 その奥、三塁コーチャーの祐一が不遜に笑い、舞に向かって親指を立てていた。

 これか、敵は最初からこれを狙っていたのか、打者の挑発はこのための布石、完全に目をランナーから逸らすための作戦か――――

「―――させるかぁ!!」

 聖はようやく届いたボールをグローブにたたきこみ、斧でも振り下ろすように身体ごとホームベースにかぶさった。

 名雪のヘッドスライディングが砂塵を巻き上げ、聖のキャッチャーマスクを覆った。

 敬遠のためただでさえボールが届いたのは遅いというのに、相手が右打者だったため捕球位置がランナーと逆側になり、遠くからタッチをするはめになっていた。

 タイミング的にはセーフでもおかしくない。

 私はけっきょく敵の挑発に乗っていたのか…。これで要らぬ失点をしてしまったら佳乃をふたたび落ち込ませることになる。

 流れが、華音高校へとかたむく。

 佳乃が悲しい顔をする。

 私のせいで。二度も。

 それだけは許されない。

 それだけは嫌だった。

 砂塵が晴れ、ホームベース上でからみあう聖と名雪の視線が、主審久瀬に向く。

 ふたりだけではない、野手もコーチャーもベンチもすべての視線が、久瀬に注がれていた。

「まさか……これが、僕の最初で最後の見せ場なのか?」

 久瀬の言葉は哀愁を帯びていた。

 ジャッジはまだ出ない。

 その間、聖は佳乃のことだけを思い巡らせていた。

 私は、おまえの笑顔を守りたい。

 守りたいんだ。

 やっと野球を楽しんでプレイできるようになった佳乃に、もっと野球の楽しさを――――

「―――アウト!」

 久瀬の声が高らかに上がると、聖は脱力して後ろ向きに倒れた。

「やったぁ! さすがお姉ちゃんだよぉ〜♪」

 マウンドできゃっきゃとはしゃぐ佳乃の声を、聖は遥か高みに広がる青空を眺めながら聞いていた。

 そこでは細長い雲が流れている。

 チェンジとなり、名雪は土だらけになったユニフォーム姿で、彼女にしてはめずらしく悔しそうな顔をしながらベンチに下がる。

 祐一も舞も、このときばかりは「ドンマイ」と声をかけることができなかった。

 盛り上がる絵亜高校とは対照的に、皆が皆、悔しさでいっぱいだった。

「……あと一点、か」

 祐一はつぶやいた。

「その一点が、いやに遠く感じるな……」

 試合のペースは、あの空の雲のように、絵亜高校のベンチ側へと流れていた。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】
 佳乃
 北川 → 栞

【本塁打】
 往人 美凪




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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