第50話




 聖が打った打球は痛烈だったが、レフトの正面だった。

 祐一のグローブにボールが納まり、これでチェンジ。

 絵亜高校にあっさりと逆転を許してしまったことで、ベンチに座る栞の周囲には重い空気がどんよりと垂れ込めていた。

 名雪や茜が励ましても、あまり効果はないようだった。

 いつも過保護的に叱咤する香里が何も言わない(それどころか栞と同じくらい落ち込んでいる)のも、ベンチを暗くする一役を買っていた。

 祐一は軽いため息をつく。

 栞の悪い癖が出なきゃいいけど……。

 それはつまり、超ネガティブ思考。

 ライズボールという決め球を打たれたことより、副産物的なその思考のほうが問題になりそうだった。

「名雪っ、打順はおまえからだろ。気合入れていけっ」

 まだ栞に話しかけていた名雪の背中をばしっとたたく。

「わあっ。い、痛いよ祐一〜」

「いいか、ぜったい出塁しろよ」

「う、うんっ。努力するよ」

「で、俺に満塁で回せ」

「う、うん……」

「そして俺に逆転満塁ホームランを打たせろ」

「でも、満塁にするにはみんなの助けが……」

「他人に頼るな。おまえはキャプテンだろう?」

「そうだけど……。わたしだけじゃ満塁は……」

「もし満塁にできなかったらおまえはゴミ箱にポイだ」

「……ゴミ箱にポイって、それ、前にも言われたよ」

「おまえの打順のたびに言ってやろう」

「ひどいよ……」

「それが嫌なら満塁、もしくはランニングホームラン、もしくは2盗、3盗、ホームスチールを決めて同点だ」

「なんでわたしばっかり……」

 栞の隣で名雪もどよーんと落ち込んだ。

「せっかくのムードメーカーをつぶしてどうするんですかっ」

 茜が怒っていた。

「気合を入れようとしたんだ」

「やることが裏目に出るのが相沢さん足るゆえんです」

 天野がつぶやいた。

「名雪。今のは半分冗談だが、半分本気だ」

「全部冗談がいいよう……」

 祐一はコーチャーズボックスに歩いていった。








 名雪は初球からセーフティバントを敢行し、運良くファーストとピッチャーの間に転がり、観鈴が打球の処理にもたついた。

「セーフ!」

 やったよ祐一〜! とガッツポーズを取る名雪に、祐一はぐっと親指を立てる。

「ごめんなさい、佳乃さん……」

「ドンマイ。気にしないで」

 続く天野は佳乃のクロスファイヤーをカットし、カウントが1−1となったところでファーストランナーの名雪が走った。

 結果はゆうゆうセーフ。サードコーチャーの祐一が名雪の代わりに佳乃のモーションを見破り、盗塁のサインを送ったのだ。

 名雪と祐一の盗塁策(23話参照)である。

 佳乃は空を仰ぎ、ふうっと大きく息をつく。

 冷静に、冷静に。前の回のようにランナーを背負ったとたんに慌てて、周囲が見えなくなって、くずれるなんてそれはダメ。

 あたしはもう大丈夫。やれる。

 だって、往人君が打ってくれた。そしてみんなが逆転してくれたんだから。

 佳乃は手首のバンダナをほどいた。それを見た聖が立ち上がりかけたが、けっきょくすぐに腰を落とした。

 佳乃がバンダナのない腕で投球モーションに入った瞬間、名雪はふたたび盗塁を仕掛けた。

 向かう先は3塁。

 ……相沢さん、名雪さんに本気で本塁まで来させる気ですか。天野は頭の中でつぶやく。

 だったら私はこのボールを見送るのがベストですね。名雪さんの盗塁の邪魔はできませんし。振らなくて済んで楽ですし(本音)。あ、ですけど、今は2ストライクだからもしこのボールがストライクだったら振ってヒットエンドランにしたほうがいいんでしょうか。どっちでもいいですけど(思考時間、0.2秒)。

 佳乃の投げたボールは速かった。

 いくら名雪の足でも速球では3盗は難しい。そう判断してしまった天野は渋々とカットしようとして、次に脳内で疑問符が浮かんだ。

 この速球は角度がない――――今まで佳乃が投げた速球で、クロスファイヤーでなかったことがあっただろうか?

 あるとしたら、それは変化球を投げたときだけ。

 このボールは速いのに?

 天野がカットできたのは奇跡だった。というか、適当に振ったらバットに当たってくれた。

「ファール!」

 手首に走る痺れ。速球だったはずのボールが、バットの根元に食い込んできたのだ。

 今回、両打ちの天野は右打席に立っている。天野は知っていた。速球のような軌道から、打者の手元で内角に沈む変化球の存在を。

 高速シンカー――――

 取って置きのボールをまだ残していたわけですか。実はあの外したバンダナは重いリストバンドで、これからが本気モードだったり?

 セットポジションから、佳乃の腕が後方に大きく反られる。

 祐一はサインを送る――――名雪、走れ。本気ですか、相沢さん。

 次はなに? また高速シンカー? またカット? 奇跡を信じて? 無理ですね。二度は続かないから奇跡って言うんです。

 そして天野の取った策は。

「……スリーバント!?」

 ファーストの観鈴があたふたとホームへダッシュする。

 佳乃の渾身の一球はやはり高速シンカー、天野にはバントをうまく転がす自信はなかった。

 なので、途中でバットを引いた。

 ストライクじゃないことを祈って。

 判定はボールだった。

 名雪のスタートにもちろん気づいていた聖は、サードにボールを送ろうとして、だができなかった。

 無人のサードベースに、聖は愕然とした。

 ショートのベースカバーも間に合っていない。

 天野のバントの構えによって、サードの往人もまた観鈴と一緒にホームに突っ込んでいたのだった。

「やったよ、祐一〜」

 名雪、二度目のガッツポーズ。それから祐一とタッチを交わした。








 天野はフォアボールを選び、ノーアウト1、3塁のチャンス。華音ベンチも活気が戻ってきた。

 だが打席に入った香里は元気がなかった。

 かおりんバットに刻まれた『祝・阪神優勝夜露死苦ごっつぁんです』の文字が泣いて見えるようだった。

 香里は最悪のダブルプレーに終わり、ツーアウト3塁。

「栞……ごめん……」

 香里は悟っていたのだった。

 栞のライズボールが打たれたのは自分のせいだということ。

 なぜ栞のライズボールがことごとく読まれるのか。最初は栞のモーションに癖でもあるのかと思った。だがその考えはすぐに打ち消した。

 答えは試合前の練習の段階から知っていた。

 香里は、栞のライズボールを受け取るときに必ず、わずかだが腰を浮かせるのだ。

 絵亜高校はそれに気づいたのだろう。

 だったら腰を浮かせなければいいのだが、そういうわけにもいかない。

 凶悪無比な回転速度を持つライズボールは常に高めへと投げ込まれる。そんなボールを確実に捕球するには、あらかじめ高く構えておく必要があった。

 だって、あたしは、栞のライズボールを簡単に取れるほどうまくはないから……。

 それほど栞のボールはすごい。

 甲子園覇者の絵亜高校にだってきっと通じる。

 なのに、あたしが足をひっぱってる。

 香里はコーチャーズボックスで名雪と話している祐一の姿を目に入れ、すぐに顔を逸らした。

 相沢君なら、栞のボールを完璧に捕球できる。

 栞のパートナーになれる……。

 あたしとは、違って。








●スコア


◇2死3塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】
 佳乃
 北川 → 栞

【本塁打】
 往人 美凪




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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