9章  続・波乱の攻防戦




  第49話




 栞がきょろきょろとファーストランナー、サードランナーに視線を振っていると、遠くから大きな声がした。

「ランナーなんか気にするな! 打者にだけ集中しろ! おまえなら討ち取れる!」

 レフトから飛んだ祐一の声だった。

 だが、応援されてうれしがるよりも、栞の頭にはまず不安がよぎった。

 祐一さん、怒ってる? 私がフォアボールなんか出しちゃったから……。

 コントロールにだけは自信があった自分が、どうしてこんなことになったのか、栞自身すでに気づいていた。

 いや、栞だけじゃない。ほかの仲間も知っているはずだ。

 ライズボールは極度の回転を必要とするため、高めに外れやすい。栞にとって、唯一コントロールが定まらないボールなのだ。

 ライズボールを多投した結果が、これなのだ。

 だが、コントロールが定まらないこと自体は、そんなに悲観する事態ではないはずだった。打者がライズボールだけを都合よく見送ることは不可能なのだから。

 ライズボールは、打者の手前で下から上に急激に浮き上がる。球が変化してからストライクかボールかを判断することなどできはしない。

 じゃあ、なんでライズボールばかり見送られるんだろう?

 もしかして、投げる前から知られている?

 それは、つまり……。

 栞はその考えをすぐに打ち消した。祐一に言われたとおり、目の前で不機嫌な顔をする(このヒトなんでこんなに目つきが怖いんですかぁ……)打者だけに集中しようとする。

 栞は額の汗を拭い、キャッチャーミットめがけて初球を放った。

「あっ……」

 栞の口から小さな悲鳴がこぼれた。

 ボールは、狙っていた内角より内に外れていた。

「おわっ!」

 往人はのけぞり、鋭利に食い込んでくる速球をすれすれでかわす。

「ご、ごめんなさい……!」

 栞はぺこぺこ謝った。

 内心、殺される? と思いながら。








「栞、よけいなこと考えるな! 打者に集中しろって言っただろうがっ!」

 栞はレフトに向かってもぺこぺこ謝っていた。

 そんな光景を苦笑して見つめながら、香里は悩んでいた。

 相手がことごとくライズボールを見送るのは偶然だろうか。それとも、どうやってかは知らないが、相手はライズボールが来ることを知っている?

 どれだけ悩んでも、香里にはもう選択の余地がなかった。

 舌打ちしてバッターボックスに入る往人を、香里は険しい目つきで見上げる。

 往人はとにかく何も考えずにバットを振り、来た球を打つというスタンスを貫いている。それはこれまで2回の対戦を経て香里も知っている。

 下手な小細工をしてもどのくらい効果があるかわからない。

 だったらやっぱり、現段階で栞が持つ最良のボール――ライズボールで力の勝負をするしかない。

 なんだかんだで、このウイニングショットには香里も自信を持っていた。栞のライズボールはそう簡単に打たれない。練習のときだって、自分は打球を前に飛ばすことも一苦労だった。

 たとえそのボールが結果的にストライクでなくとも、栞の速球はスピードが遅いぶん、高めの棒球――絶好球だと勘違いし、手が出てしまう。

 打ち気にはやるバッターなら絶対だ。往人はまさしくそのタイプだった。

 次で往人が打ち損じてくれることを祈り、香里はライズボールを要求した。

 栞はもうランナーなど省みず、こくりとうなずいた。

 そして栞はセットポジションをやめ、大きく振りかぶった。

 3人のランナーがざわりと色めき立ち、広くリードを取る。

 鋭く回転するボールが往人の胸元からさらに上へと這い登ったところで、往人のバットが一閃された。

 ズバン!

「ストライク!」

 往人のバットは空を切る。

 ほら、やっぱり振ってきた。香里は安堵する。

 続く低めの変化球を往人はふたつ続けて見送り、カウントは2−2。

 栞の上半身がまるで潜水艦のように真下へ沈む――――

 と、このとき香里はふと気づいた。

 往人の視線が一瞬、サードコーチャーのほうに向き、すぐにまたマウンドに戻った。

 その仕草で往人のタイミングがわずかにズレたが、超微動かつ超高速の体重移動があっという間にズレを補正する。

 往人の両目がきゅぴーんと光った。

「マロンクリームまん食いてえーっ!!」

 往人が吠えた。

 直後、グラウンドに立つすべて者の耳を、高くよく澄んだ金属音が貫いた。

 細長い雲が横に流れる青空を見上げた頃、打球はライトスタンドを超え、その小さな姿を皆の視界から消していった。








 同点の満塁ホームラン――――

 栞のライズボールはキレも伸びも申し分なかった。

 いかな強打者でも簡単には打たれないはずだった。

 ランナーが一掃され、どよーんと落ち込んだ栞のもとに華音ナインが駆け寄っていたとき、香里だけはキャッチャーズボックスから離れなかった。

 栞はよくやっていた。栞は悪くなかった。

 相手は南の怪物。これはただ自分らの力が及ばなかっただけのこと……そう繰り返す。

 プレイが再開され、栞はショックも疲れもなんのその(顔は泣きそうだったけど)、5番・美凪に初球を投げ込んだ。

「いいボール……打つのは大変そう」

 それは、これ以上ないくらいのライズボールだった。

「ですけど、飛ばない打球に意味はないんですよ……」

 とろんとした目つきでやる気なさそうにスイングした美凪のバットが白球を捉えた瞬間、快音を残し、今度はレフトスタンドへ向かって舞い上がった。

 香里は立ち上がってマスクを放り投げた。

 空は、雲が細く長く流れている。グラウンドは空気がほとんど動いていなくても、上空ではけっこうな強さの風が吹いているのだとわかる。

 美凪の打球は梅雨時の湿った風に乗り、さながらシャボン玉のようにふわふわと浮かび、スタンドへと誘われるかのように伸びてゆく。

 レフトの祐一が必死に打球を追いかける。

 ポール際のフェンスによじ登り、グローブを青空に向かってせいいっぱい差し伸ばす。

 だが、しかし――――








 美凪がファーストベースを蹴ったとき、美汐がつぶやいた。

「ライズボールが来ること、知ってるんですね」

「…………」

「ですが、たとえ最初から知っていても、あの球を打つのは困難ですよね」

 美凪はとろんとした瞳をするだけで、答えなかった。

 美汐はかまわず続ける。

「ホームラン打つのって、どんな気分ですか?」

 美凪は答えた。

「……ひみつ」

 そして、立ち尽くす香里の目の前でゆうゆうとホームベースを踏み、のんびりと歩いてベンチに下がっていった。








●スコア


◇2死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】
 佳乃
 北川 → 栞

【本塁打】
 往人 美凪




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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