第48話
栞の投球において、もっともやらせてはいけないこと。それは球数を増やすことである。
「フォアボール!」
久瀬からあがった宣告に、香里は唇を噛んだ。
くっ…こうもたやすく歩かせるなんて。
神奈に粘られ、フルカウントになって、最後に投げた球はライズボールだった。
だが神奈に見送られた。渾身のライズボールは、わずかに高めに外れていたのだ。
栞にとっては初めてのフォアボール。これでノーアウト1、3塁。
「はあっ、はあっ……」
肩で息をする栞の額に、大粒の汗が光りだした。
香里が想定していた球数の限界には、まだ達していない。
だがプレッシャーに弱い栞にとって、ランナーを置くことは重圧そのものだ。
体力的疲労に精神的疲労が上乗せされれば、スタミナが尽きるのも早くなる。
香里は、もうフォアボールは決して出さないと誓った。
よろしくお願いします、と挨拶してバッターボックスに入ったのは観鈴だった。
栞はあっという間に2ストライクに追い込んだ。徹底的なストライク先行。
三振を奪うためではない。打者をカウント的、かつ心理的に追い詰めて、打ち損じを狙う手段だ。
三塁ベース上で佳乃は思う。立て続けにストライクを、それも際どいコースに投げ続けることが、どれほどすごいことなのかを。
それは、投手なら誰もが理想とし、現実的には不可能に近い、完璧な投球の組み立てだった。
あたしたち、こんなピッチャー相手に勝てるのかな……。不安がよぎる。
観鈴はタイムを取った。バットを短く持って、素振りをする。
そして厳しいコースを、どうにか食らいつこうとする。
1球ファールのあと、香里はライズボールを要求した。
「ボール!」
観鈴は見送り、カウントは2−1。
その次の外角をついたボールに、短く持った観鈴のバットは届かず、けっきょく三振に終わった。
シュンとして戻ってきた観鈴に、往人は言った。
「心配しなくても、すぐに追いついてやる」
打順はトップに戻って、みちる。
「ライズボール投げてみろ――っ!!」
吠えるように言って打席に入ったみちるは、グリップの位置を自分の額まで上げていた。
「……大根切り?」
香里は眉をひそめた。
ライズボールはホップする球だ。だからホップにあわせて叩きつけるように振りぬけば、きれいに真芯で捉えられる――そう考えたのだろう。
「そう簡単にうまくいくかしらね……」
ホップすると言っても、実際にホップしているわけじゃない。それは目の錯覚でしかない。
ボールはどんなに速く投げようが、徐々に減速し、緩やかな放物線を描く。
栞のライズボールは、強烈なバックスピンをかけることによって、ボールに揚力を生み出す。揚力が生まれると、ボールの減速や放物線を抑える効果が出る。すると打者はホップしたと錯覚するのだ。
みちるの大根切りの構えは、気休めにしかならないはずだ。
1球、2球と低めをついたボールをみちるは見逃して、2ストライク。
低めにボールを集めれば、大根切りの構えではどうしてもバットとの距離が離れてしまう。打つのは困難だ。
小柄なみちるに不釣合いな大きなバットは、まだ高く掲げられたままだった。
「あの……みちるちゃん、疲れない?」
「わかってるなら早く投げろ――っ!!」
みちるはふらふらしていた。
3球目。香里は一気に勝負を決めようと、ライズボールを要求した。
みちるはあっさり見送った。判定はボール。
「ちょっと……ライズボールを待ってたんじゃないの?」
「そんなのみちるの勝手だ――っ!!」
いちいち叫ばないで欲しい。
4球目、ふたたび低めをつくシンカー。
「もらった――――っ!!」
みちるは高い位置にあったバットを瞬時に横に寝かせ、腰を捻って駒のように回転した。
遠心力を存分に発揮するみちるの打法である。
ボールは外角に外れていたぶん、バットの先に当たって三塁側ファールエリアに転がった。
「……あなた、もしかして、ハナからライズボールなんか狙ってないんじゃないの?」
「そっ、そんなことない――っ!!」
ドモったな。
ライズボールはバックスピンをかける手前、どうしても高めに浮いてしまう。
みちるは構えとは裏腹に、高めのコースを最初から捨てているのだ。
栞が投げた今度のボールは真ん中高め、それはさっきのライズボールとうりふたつのコースだった。
みちるは見送るだろう。
だがこれはライズボールではなく、高めいっぱいをついた速球――これならみちるを討ち取れる!
「これを待ってた――――っ!!」
みちるの瞳がギランと輝き、大きなバットを斧のように振り下ろした。
――――読まれていた!?
地面にたたきつけられた打球は栞の目の前でポーンと跳ね返り、頭上を超えた。
サードランナーの佳乃が還って、絵亜高校に1点目が入る。
「うわっ、すっごい高いバウンド〜まだ落ちてこないよ〜」
ようやく詩子が打球をさばいてセカンドに振り向くが、ファーストランナーの神奈はゆうゆうセーフ。
「詩子、ファーストです!」
茜の指示で、詩子はすぐに送球した。
「アウト!」
「うにゅう……手が痺れた……」
ボールだけでなくバットまで地面にたたきつけてしまったみちるは、打席の中でうずくまっていたのだった。
「あいつは……戻ってきたらセッカンやな」
晴子がハリセンで素振りする。打点をあげたにも関わらず、みちるの評価はマイナスだった。
「ですが、これではっきりしました。栞さまの驚異的な制球力、厄介な守備シフト。ふたつをいっぺんに破る方法を実践してみましょう」
裏葉は「ほほほ」と笑ってベンチから降り立った。
「……そんな方法があるんか?」
「はい。実は何話か前に思いついたのですが、時間が開きすぎてしまって誰も覚えていそうにないのが心配の種なのですが」
「どんな方法や?」
「カット打法でございます」
「……それはやめておくんじゃなかったんかい」
「はい。前の話ではそう申し上げたのですが、少々言葉が足りなかったようです。わたくしは、すべてのボールをカットする必要はない、と申し上げたかったのです」
「……もったいぶるのがあんたの悪い癖やな」
「それで、どんなふうにカットするんですか?」
佐祐理が尋ねると、裏葉はますます楽しそうな顔をする。
「簡単でございます。カット打法とはそもそも好球必打のためにある戦法。自分の打ちやすいボールをひたすら待つために、他のボールをカットする」
「栞さんのスタミナを浪費させるためにやるわけじゃない、というわけですね」
「まあ、そんな消極的な戦法じゃ、大量点差をひっくり返すのは至難やからな」
「ですけど、裏葉さん。栞さんのコントロールでは好球は望めませんよ」
「じゃあ、どないするんや」
「ライズボールを待ちます」
晴子と佐祐理がギョッとする。
「相手はライズボールでカット打法を封じるつもりだった――ならば、それを打ち破るだけ」
そうして裏葉はベンチをぐるっと見回した。
「これはコーチャーの聖さま、美凪さまにお教えしたサインです。佳乃さま、神奈さま、観鈴さま、みちるさまにはすでに進言してありますので、他の皆さんも覚えておいてください。そして栞さまが投球に入ったときは、必ずコーチャーが出すサインを確認するようにしてくださいますよう」
審判の久瀬から次の打者は早く打席に入るようにと催促が来る。
裏葉は慌てず焦らず、ベンチから出た。
「……香里、ちょっと過敏になり過ぎてると思うよ。もっと栞ちゃんを信頼しよう」
センターから駆け寄って来た名雪が言った。
だが栞を前にした香里の顔は沈痛だった。
「1点くらいべつにいいじゃん〜♪」
「そうそう、かおりんはちょっと心配性☆」
「かおりんって呼ばないでっ」
「ランナーが溜まれば、それだけ栞ちゃんの持ち味を発揮できるって、香里も言ってたじゃない」
名雪の言葉に、香里はかすかにうなずく。
「お姉ちゃん。スタミナなら、まだまだ平気だから」
栞がにこっとほほえんだのを見て、香里はもう何も言わずに戻ることにした。
なにか嫌な予感がする……。
神奈、観鈴、みちるの打席を思い返し、香里はマスクをかぶり直した。
嫌な予感が現実にならぬよう、祈りながら。
「おまえも大変だな。センターからマウンドまで走って」
名雪がマウンドから守備位置に戻ると、祐一から声が飛ぶ。
「だってわたし、キャプテンだから」
「守備シフトで動き回って疲れてるんだから、すこしは休め」
「栞ちゃんに比べれば、ぜんぜん平気だよ」
まあ、そうだけどな。祐一は意識をマウンドに向けた。
栞――我らがエースは、9回まで投げきることができるか。華音高校にとっての一番の課題である。
だから、自分らの守備シフトは、栞にできるだけ楽をさせるためという意味合いもあった。
だが――――
「フォアボール!」
栞は裏葉、佐祐理と続けて歩かせた。
……マジか。
祐一の想定していた華音高校の野球では、ありえない事態だった。
打球は飛ばず、塁だけが埋まる。
野手たちは状況をただ見ているだけ。
こうなってしまったら、華音高校の鉄壁な守備シフトは意味を失う。
「野球はチームワーク。けれど勝負は時として個人対個人になりうる……」
天野がぼそりとつぶやいた。
ツーアウト満塁。
南の怪物が、ゆらりと打席に入った。
●スコア
◇2死満塁
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【投手】 佳乃
北川 → 栞
【本塁打】
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (捕) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (左) | 相沢祐一 | |
(投) | 霧島佳乃 | (三) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (遊) | 柚木詩子 | |
(一) | 神尾観鈴 | (投) | 美坂栞 | |
柳也 | 月宮あゆ |