第47話




 カウントが2−0となった直後の3球目も、栞の投げたボールはストライクゾーンを目指していた。

 ホームプレートの右隅をかすめ取るスライダー。

「点を取られたぶんは、自分で返さなきゃ……!」

 佳乃の渾身のスイングがボールを右方向に弾き返す。

 一、二塁間に痛烈なライナーが飛んでいくが、しかしそこではすでにセカンドの真琴が捕球体勢を取っていた。

 華音内野陣の鉄壁な守備シフト――――

 栞が安堵の息をついたとき、異変は起こった。

 真琴の手前でボールは急にあらぬ方向へと軌道を変え、前に出していたグローブをするりと抜けていった。

「……あう?」

 ボールが舞によって処理されるが、全力疾走していた佳乃は危なげなくファーストベースを駆け抜けていった。

「……気を引き締めなきゃと思った途端に、これか」

 ぽかんとする真琴とは遠く離れた場所で、祐一は大きくため息をついた。








「……今の、空中イレギュラーですね」

「んに? なにそれ」

 小首をかしげるみちるのしっぽ髪を撫でながら、美凪は答える。

「……外野フライやライナーが不規則な動きをすること」

「内野ゴロではよくありますよね」

 佐祐理が胸の前で両手をぽんとたたく。

「人工芝と土の境目にバウンドして変な方向に跳ね返ったり。これの空中バージョンです」

「にゅう……空中に人工芝なんてないけど」

「ライナーの場合は、稀にですけどフォークボールと同じ原理で急に真下に下降するんですよ」

「……正面で丁寧に打球を受ければ、後ろに逸らすなんてことはしないはず」

 相手のセカンドは守備に自信があるようだったが、その油断が今の結果を招いたのだ。

「それにしても、栞さんはやっぱり勝負を急いでいるみたいですね」

「……無駄球を挟みません」

「ボールと宣告される球も、ストライクでおかしくない際どいコースばかりですし」

「そして栞さまはたとえヒットを打たれても、球数が多くなることはありません」

 裏葉が後ろから割り込んでくる。

「鉄壁な守備シフトで、すぐにアウトカウントを稼ぐことができます」

「言われてみると、佐祐理たちはダブルプレーでチェンジが多いですね」

「ひとえに栞さまの制球力があればこそ」

 塁が埋まれば、それだけ栞の持ち味が発揮できるという仕組み。

「守備シフトも球数の少なさも、すべて栞さまのコントロールに尽きます」

「栞さん――いえ、キャッチャーの香里さんが球数に気を遣いすぎるほど遣っているのは……」

「スタミナ不足だからでございましょう」

「カットバッティングに目くじらを立てていたのはそれが理由か」

 聖が目をすがめて言う。

「ならば、カットバッティングは続行か?」

「いえ、それはおそらく相手も予想済みですし、やめておきましょう」

「予想済み……?」

「そうであればこそ、相手は打開策を持ちえていた。現に栞さまは聖さまのカットバッティングを破っております」

「……ライズボールか」

「ご名答でございます」

 そして裏葉は袖で口元を隠しながら「ほほほ」と笑う。

「つまり、栞さまの要、ひいては華音高校の要はそのライズボール。それをどうにかすれば華音高校は容易く打ち崩せる」

「だったら美凪に任せるー!」

 みちるが美凪に抱きついた。

「それと、往人さまでしょうか。現段階であのボールを確実にヒット――あるいはスタンドに運べる打者は」

 当の往人はコーチャーズボックスで暇そうにあぐらをかいていた。

「ですけど、単発では5点をひっくり返すのは至難ですね」

「はい。だからこそ、往人さまと美凪さま、おふたりの前にいかにランナーを溜められるか。それが我ら絵亜高校の攻撃のカギとなります」

 裏葉は瞳を細めてマウンドに立つ小柄なストール少女を見つめる。

 まるで枯れ木のように細い手足、きっとその身体は空を流れる雲のように軽い。

 栞は、まだ、往人と美凪のふたりにライズボールを投げていなかった。

 あえて勝負をしなかったのか、それともライズボールを投げるにはスタミナの負担が大きいのか。

 どちらにしろ、答えはすぐに出る。

 ひょっとすれば、この回にも。








 佳乃にも言えたことではあったが、栞の投球モーションも通常のそれに比べるとどうしても大きくなりやすい。

 それがサイドスロー、そしてアンダースローの投手の宿命。

 栞がセットポジションから身体を潜水させると、佳乃は右足を蹴った。セカンド目がけて駆け出す。

「……なめないでよ!」

 ボールを受け取ると同時に香里は吠えた。

 盗塁されることなど、試合が始まる何週間も前から予測済み。それを想定した練習こそが、打倒絵亜高校のための香里の必須科目だったと言っても過言ではない。

 絵亜高校で要注意だったのはみちると神奈のふたり。新メンバーの佳乃の足がどれほどのものかはわからない。

 だからこれは小細工抜きの、肩と足の一騎打ち!

 香里の鉄砲肩が火を噴き、セカンドベースを照準に白球が発射された。

 ボールは栞の頭上を抜けてベースカバーに入った真琴のグローブに――――

「……って真琴あんた呑気に蝶々とたわむれてんじゃないわよっ!?」 

 ボールは無人のセカンドベースを抜けてセンター名雪のグローブにおさまった。

「あう〜♪」

「こらっ、真琴っ、ちゃんとお姉ちゃんの言うこと聞かなきゃだめでしょっ」

 名雪がすぐに外野を駆け回る真琴を追いかけていく。

「名雪おまえもボール持ったまま鬼ごっこやってんじゃねーっ!!!」

 祐一が叫んでいる間に佳乃はサードを落としていた。








 佳乃さん、がんばってる。じゃあわたしもがんばらないと。

 観鈴はネクストバッターズサークルに入り、手のひらに「人」と書いて飲み込んだ。

 お母さんは神奈さんにサインを送らなかった。たぶん本当はスクイズのサインを出したかったんじゃないかと思う。だけどやらなかった。

 なぜだろう?

 次の打者はわたしだというのに。

 もし神奈さんがヒットでランナーを返し、ノーアウト1塁にしたとしても、次の打者がアウトではその意義も失われる。

 だったらここは確実にスクイズで点を取るべきなんじゃ……。

 現に、神奈さんはバントがうまいんだから。

 観鈴はバットを肩に乗せてちょこんとしゃがみ込む。

 わたしはみんなの足をひっぱる。それはわたしもわかってる……。

 だから必死に練習したのはファーストの守備。みんなからの返球をこぼさない。

 わたしが試合に出るための、それが最低ラインだった。

 いくら野球が好きだからって、好きに野球ができるわけじゃない――――

 だから、わたしは、あの夕暮れのグラウンドで出会ったあゆちゃんと友達になりたかったんだと思う。

 自分と似た境遇のヒトが身近にいることは自己の再確認、果ては自信につながる。

 佳乃さんがわたしを友達として見てくれるのは、やっぱり呪いという共通部分があったところが大きいんじゃないだろうか。

 似たもの同士は惹かれあう。

 だからわたしが今のこの自分を嫌いになったりしたら、それはあゆちゃんと佳乃さんを嫌いになるのと同じことなのだ。

 友達は、もう失いたくない。

 この気持ちがあるからわたしはがんばれる……。

 観鈴とあゆが試合の中で争うのは、まだ先の話である。








●スコア


◇0死3塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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