第46話
「フォアボール!」
審判の久瀬が高らかに宣言する。
けっきょく佳乃は一球もストライクを取れず、詩子を歩かせてしまった。
フィールド全体に重い空気が漂う中、ラストバッターの栞が同じように重い顔で打席に入った。
「……なんであいつまで重いオーラをまとってるんだ」
祐一はあきれたようにつぶやいた。
「敵に感化されてどうする」
「そういうわけじゃないと思うけど」
香里がスッと瞳を細めて言う。
「さっき柚木さんと栞が話してたんだけど。そのとき柚木さん、よけいなことを吹き込んでいたから。そっちのほうの影響じゃないかしら」
「……よけいなこと?」
「ええ。気の弱い栞に、わざわざプレッシャーをかけるようなことよ」
「なんて言ったんだ?」
香里が教えてくれたその言葉に、祐一はなんとも言えない顔をした。
詩子に対しあわやデッドボールという危険球を投げたせいか、佳乃はあきらかに慎重になりすぎていた。
聖が冷や汗を掻くほどの棒球が、ど真ん中にやって来るのだ。
だが、どういうわけか栞はこれまで一度もバットを振っていなかった。
そうこうするうちに、カウントは2−3。
聖はもうタイムを取って佳乃のもとに駆け寄ることはしなかった。
きっと、自分の言葉は逆に佳乃の重みになる。
これまで必要以上に過保護にしてきた私では、今の佳乃は救えない――――
そう思っていたとき、華音ベンチのほうからタイムがかかった。
「……おい、栞」
「は、はい。なんでしょう、祐一さん」
がすっ。
「なっ、なんでいきなり前触れもなくチョップなんですかぁ……」
栞は頭を押さえて涙ぐんだ。
「前触れはあっただろうが。おまえ、なんで振らない?」
「は、はぁ。なんでと言われても……」
「遠慮してるのか? 敵さんのピッチャーが打たれて、点を取られて、かわいそうで、だから同情しておまえはバットを動かさないのか?」
「…………」
バツの悪そうな顔をする栞に、祐一はさらに続ける。
「ピッチャーは重い責任を背負ってるから、だから相手ピッチャーも、自分も、他のみんなと比べてかわいそうだと思ってるのか?」
「…………」
「おまえひとりの感傷で俺たちにまで迷惑かけるな」
祐一の険しい目つきに、栞はたじろいだ。
「今、おまえのやってることはな、俺たちへの冒涜だ。マジメに野球をやっている俺たちのな」
祐一はちらっと視線をベンチに送る。
「わからないか? けど、このことを一番わかっているのは、おまえの姉――香里だと思うがな」
腕を組んでベンチに座っていた香里が、すっと立ってブロックサインを出す。
『栞を泣かせたらあんたは月宮さんと交代させる』
「いや、俺かよ!?」
「あの……祐一さん」
栞は肩にかかっているストール(打撃のときも身につけている)の端をきゅっと握った。
「私、考えてみたんです。ピッチャーの責任は8割――それってよく聞く言葉ですよね。詩子さんから教えてもらうより前にも、何度か聞いたことありました」
栞はうつむかせていた顔をちょこっと上げて、上目遣いで祐一を見る。
「ピッチャーの責任って、何なのかなって。私、改めて考えてみたんです。そうしたら、それは簡単でした。相手の打者を抑えること。0点に抑えること。それに尽きますよね」
だけど、と栞は言い添えて。
「なにか違和感がありました。打者を抑えるのが、点を取らせないのがピッチャーの責任――私の責任だって、それが、なんだかしっくりこないんです」
栞はヘルメットの先にバットをコツンと当てた。
「で、さっき、打席に入ってわかったんです……私が考えていたピッチャーの責任は、プロの話だったって。おこがましいですよね、私なんてぜんぜんなのに。高校生はプロじゃないのに――だから、ピッチャーの責任は、投げることだけじゃなくて、バッティングのほうにも含まれてるんだって。点を取らせないだけじゃなくて、取ることも含まれてるんだって、そう思ったんです……」
栞の恐々した、けれどまっすぐな眼差しを受けて、祐一はぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
「……そうか」
「はい」
「おまえは、ピッチャーの責任をそう考えているわけだ」
「はい」
「じゃあ、もう一回聞くぞ。おまえは、なんで振らない?」
栞は、ぐっと唇を引き結んで、言った。
「相手の球筋を見極めるためです……!」
なあ、香里。
おまえが思っているほど、栞は気が弱くなんかないぞ。
祐一はもう栞に対し、何も言わなかった。
もしかしたら、この試合で一番成長するのは、栞かもな……。
「というわけで、おまえもがんばれ」
「なにが、というわけで、なのかぜんぜんわからないよぉ……」
マウンドでは、この世の終わりみたいな顔をする佳乃と、あいかわらずの仏頂面をくずさない往人とのふたりが立っていた。
「あのチビに負けるなって言いたかったんだ。おまえと同じド素人のピッチャーにな」
「……あのストールの子が、あたしと同じ?」
「あの倉田ってお嬢さまの話だと、野球経験はむしろおまえより浅いらしいな」
「…………」
「同じ変則投法だしな。それにストールとバンダナ。似た者同士ってわけだ」
「……そうなんだ」
「ああ。だが、チーム全体で考えれば、やつらと俺たちとで決定的に違うところがある」
往人はふんと鼻を鳴らす。
「俺たちは甲子園を制覇した王者だ。やつら無名の高校とは年季の入りようが違う」
「年季って言っても、あたしたちの野球部も去年にできたばっかりだけど……」
「5点はちょうどいいハンデだ。少し点を取られたくらいでおまえが自己嫌悪するのは100万光年早い」
「光年は距離の単位だけどぉ……」
「それと、おまえの責任は8割もない。むしろ8分くらいだ」
「少なすぎるよぉ……」
「じゃあな」
「……往人君、あたしを励ましに来たんだよね?」
「そろそろベンチに座って休憩したいと思っただけだ。だからさっさと守りの回を終わらせろ」
「……往人君、冷たいよぉ」
「最後にひとつ、いいか」
往人の声は、普段と変わらず、やはり淡々としている。
「ピッチャーの責任が重かろうがなんだろうが、試合に負けたらそれはチームのせいだ。試合をやっているのは俺たち9人なんだからな」
往人は、よく見ないとわからないほどかすかに、小さく笑う。
「そして試合に勝ったら、それもまた……」
「……チームの責任」
みんなのおかげ――――
「いや、俺のおかげだ」
「往人君……」
「じゃあな」
「うぅ……」
そんなふたりを聖は遠くで見守っていた。
フフッ、国崎君。今日はいやに饒舌じゃないか。
肩に力が入りすぎていた佳乃に、往人はワザと冷たい物言いをしてよけいな重荷を取っ払ってくれた……いや、本人は何も考えていないだけだろうが。
プレイの合図がかかり、佳乃は不満顔のまま投球動作に入る。
栞がぐっと腕を引いてタイミングを計る。
佳乃の投げたクロスファイヤーは、キレが戻ったとはまだすこし言い難かったけれど。
非力な栞を球威で負かすにはじゅうぶんなボールだった。
打球はボテボテのサードゴロ、ボールは往人からセカンド、ファーストに送球され、ダブルプレーでチェンジという華音高校にとっては最悪な結果に終わっていた。
「す、すみません〜」
ぺこぺこと謝り倒す栞を責める者は、華音ナインには誰もいなかった。
ただ、やっぱり振るなってアドバイスしたほうがよかったんじゃ……という非難が祐一のほうに集中した。
打者一巡の猛攻で、華音高校はこの回一挙5点を奪い――――
華音ナインはなんだかんだで皆、喜び浮かれている。顔に出さない者は多いが、それは確かだと祐一は思う。
ビッグイニングの次の回、油断せず気を引き締めていかないと。
そんなことを思いながら守備につく際、茜と北川のこんな会話が聞こえてきた。
「実際問題、ピッチャーの責任は8割が妥当だと思います。その8割をどう取るかは、人それぞれですけど。ただ、これだけは言えますね」
茜は、暇そうにスコアをつける北川に冷たい視線を送る。
「ピッチャーは、バックを信頼するという責任を背負っている……って、北川さん、聞いているんですか?」
「あー、はいはい」
「あなたが次に登板するときは、もっとバックを信頼してくださいね」
「言われなくてもわかってますよー」
「…………」
茜は、もう言うことはないとばかりに顔を背けて歩き出そうとして。
「いってらっしゃい」
北川の何気ない一言に、振り返った。
「いってらっしゃーい」
「がんばってください、皆さん」
あゆと秋子も手を振りながらみんなを見送る。
いってきまーすと名雪が真っ先に返して、他の皆もそれぞれ好き勝手にあいさつして守備に向かった。
微妙な表情を浮かべる茜に、北川はにやっと笑って言った。
「茜ちゃんだって、出かけるときはこう言うだろ?」
「……いってきます」
茜は照れながら守備についた。
「北川、おまえいつの間に香里から鞍替えした?」
「……相沢、おまえは自分のことには超ド級に鈍感なのに、なんでヒトのことには敏感なんだ」
「うちの野球部の規則では恋愛はご法度なんだが」
「そんなデタラメ言ってると、栞ちゃんが本気にして悲しむぞ」
「栞が?」
「あー、その先は言わなくていい。ほら、さっさと行けって。みんな待ってるぞ」
けっきょく、みんなに遅れて祐一も守備についた。
●スコア
◇0死0塁
|
【投手】 佳乃
北川 → 栞
【本塁打】
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (捕) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (左) | 相沢祐一 | |
(投) | 霧島佳乃 | (三) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (遊) | 柚木詩子 | |
(一) | 神尾観鈴 | (投) | 美坂栞 | |
柳也 | 月宮あゆ |