第45話




 グラウンドの土でちょっと汚れてしまったバンダナを手首に巻き直して、佳乃はセットポジションに入った。

 さっきはみんなから声援をもらった。がんばれって。4点くらい気にするなって。

 だからぜったい、だいじょうぶ。

 次はきっと抑えられる。

 バンダナが外れたときはびっくりしたけれど、あたしはもうお姉ちゃんからもらった魔法がなければ生きていけなかった昔の自分とは違う。

 あたしはあたしだけの魔法を手に入れていた。

 魔法のクロスファイヤ――――

 佳乃は、どきどき鳴る心臓をおさえて、聖の構えるミットだけを視界に入れる。

 佳乃は一年前の夏を思い出していた。

 みんなが観鈴さんのために甲子園で戦っていたとき、あたしはただ見ているしかできなかった。

 あたしもみんなの役に立ちたかったのだけれど、お姉ちゃんがそれを許さなかった。

 あたしは幼い頃から夢遊病の気があって、夜中にふらふらと外を出歩いたりする。

 大会のために遠征して、宿舎でそんなことがあったらみんなの迷惑になるから、と。

 そうお姉ちゃんは考えたから、あたしを野球部に入れなかったのだと思う。

 だけど、その夢遊病も、観鈴さんの呪いが解けたことによって治ったらしい。

 だから、やっと、あたしはみんなのためにがんばれる。

 あたしと同じように見ているしかできなかった観鈴さんと一緒に、野球ができる。

 ようやくあたしもみんなと一緒に甲子園を目指せる。

 あたしの魔法がみんなの役に立ってくれる。

 だから、あたしは――――








 茜の傘バットが佳乃のクロスファイヤーを完璧に捉えた。

 佳乃が息を呑む。茜は傘バットを投げて打球を目で追った。

 打球はショートの頭上を超え、左中間を真っ二つに割るかのように思えた。

「させませんっ!」

 ジャンプ一番、佐祐理がグローブの先で打球を弾いた。

 ボールは勢いを弱めて中空に放り上げられる。

 佐祐理は倒れこみながら、そのボールの行方を追い、不恰好な体勢ながらグローブを伸ばす。

「……どけ」

 サードの往人が猛ダッシュし、立ち上がれずにいる佐祐理の後ろに向けて頭から突っ込んだ。

「往人さん、取ってーっ!!」

「取るなーっ!!」

 野手、ベンチから声が上がる中、往人は左腕を真っ直ぐに伸ばし、目をきゅぴーんと光らせ――

 打球は、往人のグローブの数センチ先に落ちた。

「往人さんのバカ――っ!!」

「なにしとんねん居候っ!!」

 観鈴の悲鳴と晴子の怒号が重なった(べつに往人に非はない)。

 そのときレフトの美凪が転々と転がるボールを処理し、すぐに返球しようとして。

「……あの、サードに誰もいないんですけど」

「佳乃、ベースカバー!!」

「遅いっ!!」

 ファーストランナーだった祐一がセカンドを蹴って無人のサードを目指していた。

「え、え……っ?」

 打たれたショックで、マウンドに突っ立ったままだった佳乃が、このときようやくサードに視線を送った。

 佳乃の代わりに佐祐理がベースカバーに入ったときには、祐一はすでにベース上に立っていた。

「さすが祐一、抜け目がないね」

「主人公ですし、それくらいしてもらわないと。試合が始まってからどんどん影が薄くなってますので」

「……わたしたちも、他のメンバーの中にけっこう埋もれちゃってるね」

「いくら試合だからって、キャラを出しすぎなんです。いい迷惑です」

 名雪と天野がベンチで勝手に盛り上がっていた。








「みんな……ごめんなさい……」

「佳乃さん。ドンマイです」

 佳乃は意気消沈して佐祐理からボールを受け取った。

「そうそう、あれは往人さんのせい」

「……国崎さん、幻滅です」

「国崎往人が悪い――――っ!!」

「なんでやねん」

 佳乃はボールをきゅっと握りしめて反芻する。

 がんばらないとだめなのに。あたし、がんばらないと……。

 みんなの役に立たないと、あたしは、また昔のあたしに逆戻りしてしまう。

 姉の世話になりっぱなしで、他のみんなに迷惑ばかりかけて、そのくせ見ているしかできない惨めな自分は、もうたくさんだった。

 1アウト1、3塁。絵亜高校のピンチは終わる気配を見せない。

 フィールドを取り巻く勝敗の流れは、確実に華音高校が手にしていた。

 続く詩子の打席。

 佳乃は唇をぐっと引き結んで、人を食ったような笑みを浮かべる相手打者を必ず抑えようと意気込んで、だがしかし、その瞳にはもう聖のミットは映っていなかった。

「どっかーん……わわっ!」

 ボールはバックスイングする詩子めがけて放たれていた。

 詩子は不恰好に前に倒れこんでボールをやり過ごす。

 佳乃の投げた角度あるボールは、必死に伸ばした聖のミットも届かず、遠く離れたところを通過していった。

 祐一がホームに生還し、茜もまたセカンドに進む。

 華音高校にとっては、5点目の得点となるダメ押しのワイルドピッチ。

「あ、あたし……うそ……」

 佳乃は、その一連の状況をただ茫然と見ているだけだった。

 ホームベースカバーすら忘れて。

 まるで一年前の夏のときのように――――

「佳乃……」

 聖もまた、そんな佳乃を眺めているしかできなかった。








●スコア


◇1死2塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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