第42話




 内角高めを通過するはずのボールが、突如、上方へと跳ね上がった。

「ストライク!」

 これで二度目の空振り。立て続けのライズボールで、聖はあっという間に追い込まれていた。

 軽くため息をつく。

 ……驚嘆に値する変化だな。これではキャッチャーも捕るのに苦労するだろうに。

 この二球で、ボールの変化量はだいたい理解した。バットに当てるだけに関して言えば、さほど問題ではないと思う。特にうちの上位打線――自分を含めた1番から6番打者ならば。

 だが、ヒットを打てるかどうかとなると話は別だった。

 ボールの変化もさることながら、相手は自分らにあわせて守備シフトをころころ変えている。

 忙しいことだな、まったく。

 聖は苦笑する。まあ、なんにしても次はバットに当てるさ。スイングアウトの三振だけはごめんだ。

 聖がネクストサークルですべり止めスプレーを手に取ったそのとき、近づいてくる人影に気づいた。

「聖さま、すこしよろしいですか」

 微笑を浮かべた裏葉だった。

「これから先、でき得る限り粘ってください」

「……なんだと」

 一瞬、耳を疑った。

「長打力がウリであるこの私に、カットバッティングをしろと?」

「長打と巧打を併せ持つあなただからこそ、お願いしているのです」

「…………」

「差し出がましいこととは存知ますが……」

「……いや」

 グリップの感触を確かめて、軽く笑む。

「なにか策があるのだろう?」

 裏葉はこくりとうなずく。

「甲子園ではヘッドコーチだった君の頭脳に何度も助けられたからな。だから、今回も従うさ」

「……ありがとうございます」

 さて。

 打席に入り、プレイのコール。

 私の本意ではないが……すこし、付きあってもらうぞ。








 コースの角を突くボールをことごとくカットされ、もういいかげんにしてよねと香里は憤慨する。

 倉田さんといいこの通天閣(聖のこと)といい……王者も案外、小細工が好きね。

 もしかして、栞がスタミナ不足なのを知られてるんだろうか。そうも考えたが、こんな早い回からわざわざ球数を多くさせることもない気がする。

 悩んでもしょうがないか。さっさとケリつけることが最優先ね。

 栞の右腕が伸び、グラウンド上をはらうような速球が迫り来る。

 そしてたしかに、このボールでケリはついた。

 そう、聖は待っていたのだ。

 必ずもう一度来る――三球目のライズボール。

 コースは内角高めだった。

 聖はそのさらに上へと照準を合わせていた。

 直進するボール。しかしこの軌道は必ず変わる。

 タイミング、高さ、コース。

 私の読みに狂いはない!!

 聖は渾身の力でバットを振るった。

 だが、ボールが浮上することはなかった。

 何の変哲もない内角高めの棒球を聖は打たされ、結果はピッチャーゴロ――そして、ボールはセカンド、ファーストへと順に送られ、絵に描いたようなゲッツーに終わっていた。

 香里は安堵する。

 ……ま、打たせて取るピッチングってやつね。

 塁にランナーが溜まれば、それだけ栞の持ち味が発揮できるのだ。香里はキャッチャーマスクを脱いで額の汗を拭い、次の自分らの攻撃に思いを馳せる。

 守りの回、しんどいんだからさ。名雪、天野さん、今度はマジメにやってよね……。








「……ありがとうございます、聖さま」

 ベンチで低くつぶやいた裏葉の声は、絵亜メンツの誰の耳にもまだ届いていない。

「おかげで栞さまの驚異的な制球力、そしてあの厄介な守備シフト……」

 その表情は普段の微笑とはすこし異なり、まるで子供がとっておきのいたずらを思いついたかのような意地の悪さが見られた。

「ふたつをいっぺんに破る方法をひらめきました」

 ほほほ、と笑って裏葉は守備に向かっていった。

「……で、けっきょくあんたは歳いくつなんや」

 晴子がしみじみと言った。








 四回裏の華音高校の攻撃――――

 トップバッターから始まる好打順ではあったが、名雪はすでにツーストライクと追い込まれていた。

 うー。こんな球、打てないよう……。

 名雪は意気消沈して素振りする。

 練習では栞と対戦してもバットに当てるのがやっとだった名雪にとって、クロスファイヤーなんてボールは荷が重すぎる。

 うー。祐一のバカバカバカバカバカ大バカ……。

 不満の行き先が祐一に直行していた。

 そしてそれは祐一のほうも重々承知だった。

 しかし。

「たく。あいつ、完全に忘れてるな……」

「緊張して頭真っ白ってことかしらね」

「名雪に限ってそれはない」

 むしろ寝ぼけていると言ったほうがしっくりくる。

 クリーンヒットなんて期待していないんだ。おまえはおまえの持ち味を生かせ。栞と同じように。

 この一ヶ月、おまえはなにを練習してきた?

 と、ここで名雪と視線がぶつかった。涙目になっていた。今にも泣き出しそうだ。

 ここぞとばかりに祐一は合図を送った。

 その合図とは。

 注)ここから先、すべてブロックサイン。

『名雪、おまえに指令を下す』

『え、う、うん。どんな?』

『デッドボールで出塁しろ』

『そんなのやだよーっ!!』

『冗談だ。セーフティバントしろ』

『え、で、でも今、ツーストライクだよ?』

『ああ。スリーバントでアウトの危険はある』

『じ、じゃあ……』

『だめだ。やれ』

『祐一、鬼だよ……』

『失敗したらおまえはチームからポイだ』

『祐一、悪魔だよ……』

 さらに涙目になって名雪は打席に戻った。

「あんたたち、いつのまにそんな流暢なブロックサインを……」

「この一ヶ月の練習の成果だ」

「もっとほかの練習に時間割きなさいよ……」

 まったくだった。

 名雪は必死になって頭の中で繰り返す。バントを成功させるための、その真髄を。

 ボールを手元までひきつけてしっかりと見定め、バットを引いてボールの勢いを吸収、バットに添えた右手(名雪は左打者なので本当は左手)でボールを優しくキャッチするように、そして転がす。

 打球を殺す。打球を殺す。打球を殺す。打球を殺す。

「コロスコロスコロスコロスコロス……」

 涙目で繰り返す名雪の言葉を、聖は顔を青くして聞いていた。

 ……誰かに恨みでもあるのか、このバッターは。

 本能的に聖は警戒した。一球、外そう。

 名雪はストレート一本に絞っていた。シンカーなんかはとてもじゃないがバントできない。キレる変化球をバットに当てる自信はない。

 チームからあえなくポイされてゴミ箱から顔を出す自分が脳裏に浮かぶ。

 お、お願い、神さまっ。次の球はストレートでよろしく……!

 佳乃のモーションと同時に名雪はバントの構えを取る。

 それを見た内野陣がざわりと色めき立った。観鈴が慌てて、往人がかったるそうに前にダッシュ。

 そして佳乃の右腕から放たれたボールは見事にシンカー、しかも外角に大きく外れていた。

「神さまのばか――っ!!」

 名雪は構えを外して見送ることも頭から放り出し、体ごとバットを外に出して食らいつこうとした。

 だが願い空しく鋭く沈んだ球はバットの下を通り過ぎ――――

 地面をバウンドした。

「……くうっ!」

 聖が悲鳴をあげた。

 強すぎる回転のためだろう、ボールは聖のミットを避けるように跳ね返った。後逸してしまい、聖は急いでバックネットへと転がるボールを追いかける。

「名雪!! 走れ!!」

「名雪さん、はやく〜!!」

 立て続けにベンチから声があがる。

 ……え、え? なに? なんで?

「振り逃げだ!!」

 その言葉で名雪の足にスイッチが入った。圧倒的な瞬発力、土煙を巻く勢いで名雪はファーストめがけ突進した。

 聖がボールを手にふり向いたときには、名雪はすでにファーストベースを過ぎてライトの横まで駆けていた。

「……どうせならセカンドに行ってくれ、頼むから」

 祐一の言葉に一同がうなずいた。








 あの水瀬さんが出塁ですか……。

 世の中なにが起こるかわかりません、おもしろいです、楽しいです、愉快です、ええ実に。

 その感情だけがこの私――天野美汐の行動原理となり、脳内からアドレナリンを発生させ欲と活力を体内に充填させる。

 天野がゆらりとフィールドに登場した。左ではなく、その逆、右バッターボックスに立つ。

「……おいおい、なにやってんだあいつは」

「まあ、天野さんですから」

 その一言で片付けられる天野の行動原理は単純だ。さっきの通り。

 さらに天野は、ボックス内を内角ギリギリに立った。腰を低く屈め、左肩と背中の一部を投手に向けて構えを取る。

 ぶつけるものならぶつけてみろ。そう雄弁に物語るフォームである。

 ……これはまた、強く出たものだな。投手にデッドボールを連想させ、内角球を封じるためだろう。外角球一本に狙いを定めるために。

 右に絶対の強さを誇るその外角クロスファイヤー。

 狙っているというのか? それを?

 舐められたものだな。聖はあえてそのボールを要求した。

「お、お姉ちゃん……」

 佳乃はちょっと戸惑ってから、第一球を放つ。あまりキレないクロスファイヤー。

 カウントがツーストライクとなって、天野の本領が発揮される。

 キンッ

「ファール!」

 コンッ

「ファール!」

 フフ……たかが直球では私のクモの巣からは逃れられませんよ。

 だって、私は、バットの芯で捕らえる必要はないのですから――――

 ――――三振を奪うシンカーとは違う、わずかしか曲がらない変化球ならばなおさら。

 フルカウントになってからも執拗に奏でられるファールボールの演奏。

 それは、栞が佐祐理、聖に粘られた回数の比ではなかった。

「くっくっく……」

 天野の笑みはもはや陰惨。

 佳乃はランナーと打者を交互に見、落ち着きがない。

 シンカーさえもその変化量は著しく落ち込んでいた。

「……あの程度で動揺するとは、経験の浅い証拠ですね」

 ベンチで茜がぼそりとつぶやいた。

 淡々とファールを打ち続ける天野。

 手首のバンダナを撫でたりさすったりを繰り返す、新加入の選手である佳乃。

 落ち着かせるよう、マウンドに駆け寄るキャッチャー聖。

 ふたりはどうやら姉妹らしい。

 そして聖は、超のつくほど妹を溺愛している(絵亜高校ホームページの不正アクセスにより入手したデータ)。

 茜の頭上にぴかっと電球がきらめいた。

「茜、それはちょっとマンガ的……」

「しかも古いな……」

 詩子と祐一を無視して茜は言った。

「みなさん。バンダナ娘の魔法の正体が判明しました」

 それで、ベンチに座る全員の視線がいっせいに茜へと注がれた。

 右打者に絶対の強さを誇る魔法のクロスファイヤー。実は、その正体の目星はついていた。

 おそらくあれは動く速球、『ムービングファストボール』。

 それはスライダーと同じ方向、つまり横方向にストレートとほとんど変わらないスピードでほんのすこしだけ曲がる球であり、そうすることで打者を幻惑し、ギリギリまで変化球であることを明かさない。

 香里、真琴、祐一、自分、それぞれが同じようにバットの芯をわずかに外されていたのは、そのためだ。

 しかも相手は、クロスファイヤーと組み合わせることにより、さらに球筋の見極めを困難にさせていた。

 特に右打者に対する外角クロスファイヤーでは、わずかな変化もさらに外角へと進むのだ。簡単に変化球などとわかるわけがない。

 そして極めつけ。

 左打者にはムービングファストボールを投げない。内角クロスファイヤーでは、見極められる可能性がある。左打者にはシンカーを決め球にしているというスコアブックが、それを語っている。

 天野が右にスイッチしたのも、バットに当てるのが難しいシンカーを極力避けたいがためだった。

「といっても、残念ですが、これを打ち崩すことは不可能です」

 自分ら右打者に速球と変化球の区別がつかなければ(天野さんはついてるみたいですけど……)、けっきょく、正体がわかっていてもどうしようもない。魔法の名たる由縁だった。

「だろうな」

 祐一が口元をゆがめた。

「はい。だからこそ……」

 立ち上がり、茜はネクストバッターズサークル内の香里のもとへと足を進ませる。

 そのとき、フォアボールを告げるコールが響いた。

「魔法を破ることはできません。ですが、魔法を解くことは可能です」








 そして。

 偶然にも互いのチームが相手投手の打開策をほぼ同時に発見し、試合は急展開を迎える。

 その火蓋を切って落とすのは、ほかの誰でもない、このグラウンド上でおそらく最も野球をこよなく愛する選手――――

 美坂香里なのだった。








●スコア


◇0死1,2塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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