第40話




「ち、ちょっと、相沢君」

「? なんだよ」

「グローブ持ってどこ行くのよ」

「守備に決まってるだろ」

「……どこの守備よ」

「レフトだよ。俺は北川と交代したんだから」

「…………」

「そういうわけだ。じゃあな」

「ちょっ、ま、待ちなさいよ!」

「栞のこと、よろしくな」

「…………」

「助けてやってくれよな」

「……言われるまでもないわ」

「そうだったな」

 祐一は肩をすくめてレフトに向かっていった。

 途中、名雪と目が合って、

「名雪、俺の足ひっぱるなよ」

「うん。善処するよ」

「もしエラーなんぞしやがったら、すぐに俺と守備交代だ」

「祐一こそエラーなんかしたら、すぐにあゆちゃんと交代だよ」

「ほほう、生意気なこと言う口はこの口か? ええ?」

「ゆ、ゆふいひ、やめへよー!」

 二人の背中が遠ざかっていくのを眺めていると、隣に誰か立っている気配を感じた。

「……栞」

 栞もまた、祐一と名雪の背中をぼんやりと眺めていた。

「栞、いいの?」

「なにが?」

「なにがって……」

「お姉ちゃん」

 くるんとこちらに振り向いて、

「もし試合に勝ったら、なにかご褒美欲しいな」

「…………」

「がんばろうねっ」

 ぱたぱたと駆け去った。

 ……なんなのよ、いったい。これじゃあたしひとりがバカみたいじゃないの。

「親の気持ち、子知らず……」

 天野が隣を通り過ぎながらそんなことをつぶやいた。

「むしろ親バカ……」

 よけいなお世話だった。








 観鈴はたった二球であえなくピッチャーゴロに仕留められ(が、がお……)、そして打順は一回りして次はトップバッターのみちる。

「みちるちゃん、今から投げるからね〜。行くよ〜」

「子供扱いするな――っ!!」

 子供並の身長のみちるだが、栞のコントロールの前ではそれも効果ナシだった。狭く見えるストライクゾーンを針の穴に糸を通すようにして、次々とボールを放っていく。

「みちるちゃん、これで最後だからね〜」

「おまえムカツク――っ!!」

 けっきょくみちるは高めのボール球に手を出し、センターに高々とフライを打ち上げた。

「名雪、前にダッシュだ!」

 レフトからすぐさま祐一の指示が出る。

「うん、わかったよ〜」

「ばかっ、行き過ぎだ!! 戻って来い!!」

「う、うんっ」

「ああっ、急に風向きが変わりやがった!! 名雪、違うっ、そっちじゃない!!」

「え、ど、どこ〜!」

「もっと左舷四十五度方向に回り込め!!」

「どこだよ〜!!」

 それでも名雪はしっかりと打球をキャッチした。

 そして次打者の裏葉に至っては、なんと三球三振に終わっていた。

「わ、私、三振取ったの真琴ちゃん以来です……(第6話参照)」

 栞が感極まっていた。

 絵亜高校の攻撃はこれで終了。あまりに短い攻撃時間だった。

「……裏葉さん」

 ベンチに引き返してきた裏葉とすれ違い様、佐祐理が声を低くして呼びかけた。

「どうして振らなかったんですか?」

 事実、裏葉はただ黙々とボールを見送り、一度もバットを動かしていなかった。

「単に振ることができなかったからですよ」

「あなたらしくありませんね」

「あらあらまあまあ」

 裏葉がきょとんと目を丸くした。

「倉田さまはわたくしを買いかぶっておられるようですね」

「茶化さないでください」

「茶化してなどおりません」

 一呼吸置いて、裏葉は微笑を崩さずに続ける。

「甘い球は投げない、際どいコースにしかボールは来ない。あの投手、栞さまは素晴らしい制球力を持っておられますね」

「コントロールは群を抜いているといっても、バットに当てることは容易なはずですよ。あの球速なら」

「相手の守備陣も実に良い動きをしておりました。コースと球種の組み合わせ、そして2番打者であるわたくしのバッティングスタイルを考察して、あらかじめ打球の方向を推測する。当てたとしても、ヒットゾーンに運ぶのは困難でしょうね」

「…………」

「好球必打という言葉がございますが、好球が望めなければ必打も叶わぬということですよ」

 ふふ、と裏葉は微笑して。

「ですけど、気になった点がひとつございました」

「……なんです?」

「栞さまは――いえ、捕手のほうでしょうか。なにか勝負を急いでいる観がありますね」

「…………」

「佐祐理さま、次の回のあなたの打席、なるべく時間を引き伸ばしてくださいませんか」

「ボールをたくさん投げさせろ、ということですか?」

「はい」

「なぜです?」

 ふふ、と裏葉はもう一度微笑して。

「すこし、調べてみたいことがあるんです」








「北川さん、ちゃんとスコア取ってますか」

「キーを押すだけだからな、楽勝だ。それよりこのフォルダなんだけどさ」

「開いたら傘で刺しますよ」

「じゃあこのフォルダ――」

「殺しますよ」

 ふたりが言い合う中、祐一は「今日は三つ編みじゃないんだな」となんとなく疑問を浮かべながら茜を呼び止めた。

「ボールをよく見ろ。特にあのクロスファイヤー」

「…………」

「頼んだ」

「…………」

 茜は無表情のままうなずきもせず、バッターボックス内で構えを取った。

 綺麗な構えだった。

 バッティングにおいて、スタンスは肩幅よりやや広め、軸足6踏み出し足4の割合で体重をかけるというのが基本である。

 そしてグリップは、長時間傘を差しても疲れない位置が理想なのだ。バットを傘と同じような感覚で力を入れずに持つことで、自然体の構えが取れるというわけだ。

 だが、しかし……。

「いくらなんでもあれはないだろ……」

 祐一は頭を抱えた。

 バッターボックス内の茜は、まさしく傘を差していた。バットはバットなのだが、グリップの部分が傘の柄のようにJ字型に曲がっていた。

「茜専用、傘バットだよん☆」

「舞の剣バットに勝るとも劣らないな……」

 鍔付きよりさらに打ち辛そうだった。

「まさかボタンを押すとバットの先が傘みたいに開くんじゃないだろうな……」

「あっはは、それいいね〜おもしろーい☆」

 おもしろいどころか即退場だろう。

「……素敵」

 舞がありありと親近感を出していた。

「いちおうこの物語はリアル志向のはずなんだが……」

「巷で溢れている野球マンガに比べればかわいいものです」

 天野がしれっと言う。クレームが来そうなことを言わないで欲しい。

「なんにしろ、ちゃんと常識を持って野球をやってくれれば問題ないわ」

「ねえ、祐一。すごい大きなバット使えばボールに当てやすいんじゃない? テニスのラケットとか」

「おまえは今の話のどこを聞いてたんだ。思いっきり反則だ」

「バカばっか〜♪」

「一番のバカはおまえだ」

「なんでよーっ!!」

「……皆さん、ちゃんと応援しましょうよう」

「あゆちゃん、私たちはコーチャーをやりましょうか」

「うぐぅ……なにそれ」

「私もよくは知らないんですけど、見たところどうも特等席で試合が観戦できるらしいです」

「秋子さん、それは激しく間違ってます」

「……ほんと、バカばっかりだわ」

 しかも誰がどのセリフを喋っているか収拾がつかなくなってきた。

 一方打席では、私はチーム内で一番の常識人だと自負していますが……と頭で繰り返しながら常識からはちょっとズレたバットを持った茜が、佳乃の投げるクロスファイヤーにてこずっていた。

 ボールをよく見ろと言われても、見ること自体が困難ですね、これは。

 内角に来た角度のある直球を見送り、これは外れてカウントは2−1。

 茜はどれも手を出していなかった。

 ……不気味だな、このバッター。

 聖がそう思うのも当然だった。茜はバットどころか構えさえもぴくりとも動かさず、地にかかとをべったりとつけたまま棒立ちしていたのだ。あたかも石像のように。

 すこしはタイミングを計るなりするのが普通だろう?

 だが、無人の空き地で雨にも負けず風にも負けず傘を差し続けていた茜にとっては、この構えは至極普通だった。

 茜は、タイミングを計る代わりに、まったく違う方法でボールを捕捉しようとしていたのだった。

 北川のスコアブックを思い起こす。これまでの相手ピッチャーの配球は、実にわかりやすいものだった。

 いや、正確には、右打者に対する配球に限っては読みやすかった。

 右打者にはこの直球――クロスファイヤーを主体にして投げている。いずれも外角を中心としたコース取り。内角球、そしてシンカーは見せ球でしか使っていない。

 たぶん。

 たぶんとしか言えないところが、まだデータの少ないことを語っていますけど……。新加入の選手であればそれも仕方ない。

 なんにしろ、相手は自分のクロスファイヤーが右打者には打たれないと、絶対の自信を持っているらしい。ですから、まあ、試してみる価値はあります。

 状況を正確に分析、高確率の予測を弾き出して的確に回答、これが私のバッティングです。

 内角に一球外した次の球、狙いは外角クロスファイヤー!

「えいっ!!」

 ちょうどそのとき佳乃のボールが外角を目指して迫り来た。

 待ってましたとばかりにスイングした茜は、結果、ファーストゴロに終わっていた。

 茜はバットに残ったボールの感触に首をかしげた。

 真芯を完全に外された。狙い通りにちゃんと振ったのに?

 茜が狙っていたそのボールは、やはりこの上なく見辛かった。それは打者の死角から飛び出す上に、さらに打者の目から逃げるように外角へ向かうのだ。球筋を見切ることは困難、それは右打者全てに言えること。

「…………」

 だから私は打ち損じた? 私の技術が足りなかった?

 いくらボールの軌道を目で追うことが難しいとはいえ、コースと球種は完璧に予測できたというのに。

「どうだった、相手の魔法は」

 すぐに祐一が寄ってきた。茜は答えなかった。

「その傘バット、打ち辛くないか?」

 やはり茜は答えなかった。代わりに詩子のほうに視線を振り、

「……とりあえず、次はあなたに任せます」

「任されましょー☆」

 詩子の打席。左打者に対し、佳乃は初球にシンカーを持ってきた。

 ホームプレートの角を掠め去るその難しいボールを、詩子は見送ることはせず不恰好に腕を伸ばしてどうにかバットの先に当て、

「どっかーん☆」

 言葉とは裏腹に、打った打球はふらふらと三遊間に上がった。

 往人と佐祐理が肩越しに打球を追う。レフトからは美凪も懸命に突っ込んだが、彼女は実はかなりの鈍足。

 打球は三者の視線に挟まれながら、グラウンドの上にぽとりと落ちた。

「ま、こんなもんでしょ☆」

 詩子がファーストベース上でVサインしていた。

「……ラッキーなやつ」

 絵に描いたようなテキサスヒット(ポテンヒット)だった。祐一は呆れた。これが華音高校、初めてのヒットだったのだ。

「あいつらしいとも言うがな」

 性格同様、まさしく人を食った打撃だった。

「そうですね。詩子らしいです」茜の言葉はいつもながら感情に乏しい。「すくなくとも並の芸当ではありません」

「…………」

 おいおい、あれを狙ってやったって言うのか?

 まさかな。

 続く栞は平凡な内野ゴロ、しかも詩子のヒットを無にするゲッツー(うわーん、すみませぇん!!)であっさりとイニング終了。

 ここにきて試合はテンポよく進んでいき、投手戦の様相を呈してきた。

 だが、その実それは嵐の前の静けさ――打撃戦への伏線であることを、この時点ではまだ誰も知らなかった。

 佐祐理にも、裏葉にも、茜にも。

 もちろん祐一でさえも。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




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