第38話




 北川がベンチに戻った途端、その声は聞こえてきた。

「北川さん、右手を見せてください」

 水瀬秋子だった。

「すみません、皆さん。ちょっと北川さんをお借りします。北川さん、こちらに来てください」

 保健医よろしく白衣姿の秋子はやんわり微笑んで、しかし反論を許さない口調でそう言い、ベンチ裏のほうへ踵を返していく。

 その間、北川はずっとぽかんとしていた。

「なにぼーっとしてんだ、さっさと行け」

 横から蹴りを入れられた。

 呆れた調子で腕組みをして立つ男がひとり、そこにいた。

「え……」

 栞があんぐり開けた口に手をあてがい、瞳を真ん丸くした。一瞬ためらって、それから勢い込んでぱたぱたと近寄っていく。

「祐一、大遅刻だよ」

 名雪が口をとがらせて言った。

「いつも遅刻してるおまえに言われたくない」

「遅刻じゃないよ、寝坊だよ」

「同じだろ……」

 紛れもない、その男は相沢祐一だった。

「……おまえ、なんで」

 ここにいるんだ、と北川が問うよりも先に祐一がにやりと笑う。

「天野が教えてくれたんだよ。おまえがグロッキーになったって」

 この言葉を聞いているのか聞いていないのか、当の天野は素知らぬ顔でベンチに腰かけ、手をうちわ代わりにぱたぱたやっていた。

「おかげで秋子さんの特別授業が中止になった」

「…………」

「だから今度はおまえが特別授業を受けろ」

「……まさか」

「ああ。俺とおまえ、今から選手交代な」

 北川の顔がみるみる青くなっていった。口を「ふ」の形にして息を数回吐き出し、

「……ふざけんな」

 これだけ言うのにけっこうな時間を費やしていた。

「俺は到って本気だ」

「ふざけんなっつってんだろ!?」

 キレていた。

「本気だと言ってる。おまえはもう必要ない」

「北川さん、ぐずぐずしないで早く来てください」

 秋子が寄ってきて北川の二の腕をつかんで奥のほうにひきずっていく。

「ち、ちょっ、待ってくださいよ!! オレはまだ試合に――」

「北川さん、安心してください。気を楽にして、すべて私に任せてください。痛くしませんから、優しくしてあげますから」

 北川はイヤイヤをしながらベンチ裏にひきずり込まれていった。

 祐一はハンカチをひらひらさせて北川を見送った。

 その横で、茜もまたなんとも言えない表情をして北川を見送っていたのだが、

「…………」

 ガツン!! と祐一のすねをつま先で蹴り上げた。

「ぐおおおおおおお!!」

 あまりの痛みに地べたを転げ回った。

「…………」

 ふいっと茜は顔をあさってのほうに向けて、北川と秋子の後を追っていった。

「……なんだ、あいつ」

 祐一は首をかしげるばかりだった。

「……祐一、最低」

「祐一さん、幻滅です……」

 名雪と栞のそんな言葉にも、やっぱり祐一は首をかしげるばかりだった。

「過程はともあれ、結果オーライかしら」

 香里は嘆息交じりに言って、心配げな瞳で北川と茜の姿がベンチから消えるまでその背中を眺めていたのだが、吹っ切るようにフィールドへと視線を振り向けた。

 そこではちょうど、舞が無表情で打席に入るところだった。

「うぐぅ……ボクのこと忘れないで」

 あゆがどよーんと落ち込んでいた。








 秋子の個別レッスン……もとい、怪我の治療を終えた北川は、綺麗に包帯が巻かれた自分の人差し指をなんとなくぼーっと眺めながら壁に背をつけて放心していた。

 ……なんだかなぁ。

 いきなり先発やらされて、あっという間に怪我なんかして、気がついたときには降板させられていて。ほんとう、なにがなんだか。

「やってらんね……」

 ずるずると腰を落とし、ぺたんと床に座り込む。この薄暗いロッカー室には誰の姿もない。秋子はすでにベンチに戻ってチームの応援に向かっていた。

 自分も応援に足を運ぶという気はさらさらなかった。大きな倦怠感が身体にのしかかっていて動くのも億劫だった。

 もう家に帰ろうかな……。

「……なにやってるんですか」

 北川が帰り支度を考えていたとき、足音に付随して小さく声が聞こえてきた。

「……こんなところで、いったいなにやってるんですか」

 茜が、いつもの素っ気ない態度とは違って、珍しく怒ったような顔をして歩み寄っていた。

 いや――珍しくもないか。北川は苦笑する。

 何度も拝んだ顔だったじゃないか。試合が始まってからは、ずっとこんな調子で怒った顔をさせていたなあ。なんでか知らんけど。

「……はやく戻りましょう。みんな待ってます」

 そして腹立たしかった。北川の苦笑した顔が見る間に歪んでいく。どうしようもない憤りが湧いてくる。自分もまた茜と同じように怒った顔をしていることを、北川は自覚していた。

「茜ちゃんこそ戻れよ。オレはあとで行くから」

「……だめです」

「なんで」

「ちゃんと試合が終わるまでベンチにいてください」

「だから、あとから行くって」

「だめです」

「なんなんだ、いったい……」

 北川は大きく息を吐き出した。勘弁してくれ。あっちいってくれ。オレに構うな、はやく消えろ。そんな文句が脳裏を渦巻いた。

 ああ、イラつく。これはきっとオレの人生TOP3に入るイラつきだ。

「……もっと自信を持っていいと思います。あの絵亜高校を無失点に抑えたんですから」

 これ以上ないくらいの気休めだと北川は思う。1回と1/3しか投げないで、対戦した打者は8人。その中で、オレがまともに討ち取った打者は何人いただろうか?

 あまりにもバックの守備に助けられた、惨めな結果だった。

「だから、早くみんなのところに戻りましょう」

「もうほっといてくれ」

「嫌です」

「あのなあ」いいかげんにしてくれと心の底から思う。「オレがいてもいなくても、もう関係ないだろ」

「……そんなことないです」

 と、茜はいつものスポーツバッグからノートを一冊、取り出した。

「仕事、あげます」

 茜はうつむいて、しばらくそうやって、おずおずとした感じで。

「……あなたにしかできないことです」

「……なんだそれ」

「スコアブックです」

「…………」

 はは、と北川は力なく笑う。

「でもオレ、左じゃ上手く書けないぜ?」

「……だいじょうぶです」

 そう言って、またスポーツバッグからノートの形をしたもの――ノートパソコンを手に持った。

「左手だけでも、キーボードは打てるでしょう?」

 北川の左手を取り、ノートパソコンを強引に押しつけ、北川がそれを握ったところで茜は大きく息を吸った。

 ばしん!! と北川の背中に平手打ちをかました。北川は飛び上がり、取りこぼしそうになったノートパソコンを慌てて持ち直す。

「な、なにすんだ!?」

「……知りません」

 茜がくるりと身をひるがえす。

「……なんで私がこんなことしなきゃならないんですか」

 茜は不機嫌に言って、さっさと向こうに歩いていった。

 ……なんでって、それはオレが聞きたいんだが。

 ひりひり痛む背中をさすりながら、北川は頭をひねり、それから手元のノートパソコンに視線が落ちた。

 オレの仕事ねえ……。北川はようやく動いた。腰を上げ、足を出した。

 足取りは重くはなかった。軽くもなかったけれど。

 言いたい文句はたくさんあったが、さっきの張り手で全部消し飛んだ。そう思うことにした。とりあえずどんな顔してみんなの前に現れてやろうか、代わりにそんな考えが北川の頭を支配した。

 まずは相沢に蹴りの報復か。あいつは一回シメないと気が済まん。

 ブツブツ言いながら北川は、歩調の緩かった茜を追い越してひとりでとっとと歩いていった。

「……バカ」

 茜もまたためらいつつもマイペースな歩調でロッカー室をあとにした。やっぱり二人はちょっと離れた距離で、ベンチに姿を現した。

 ……あ、そうだ。髪、結び直さないと。茜はそんなことを思って、だけど半ばでやめた。やめざるを得なかった。

「おおっ、茜ちゃんって意外と頭悪いんだなあ。赤点のテストがこんなに――」

 パソコンのデータを片っ端から覗いていた北川に、茜はもう一度平手打ちをかましていた。

 今度は頬に。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 相沢祐一
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 月宮あゆ




Next