7章  精密機械VS魔法




  第37話




 秋子の講義――進化論において遺伝するのは生殖細胞における変異のみで獲得形質は遺伝せず進化は自然選択で起こるといういわゆるワイズマンの新ダーウィン説(だから保体じゃないだろうこれは)を覚え込まされていた祐一の耳に、突然その声は聞こえてきた。

「水瀬先生。お電話が入っておりますが」

 教室の入り口に誰か立っていた。どうやら学校の事務員らしいその女の人に振り向いた秋子は、握っていたチョークを置いてやんわりと首をかしげた。

「どなたからですか?」

「はあ……なんでも華音野球同好会の監督兼ヘッドコーチの方らしいんですけど」

 祐一は椅子からひっくり返った。

「わかりました。では祐一さん、あゆちゃん、すこし講義は休憩にしますね」

 秋子は事務員と連れ立って廊下に消えていった。

「ねえ、お兄ちゃん。監督って誰?」

「うちのチームに監督なんかいないだろ……」

 しかしその監督らしき人物が誰なのかは簡単に予想できた。試合そっちのけでなにやってるんだろう、あいつは。

「なんで秋子さんを呼んだのかな?」

「さあな。暇だったんじゃないか」

「うぐぅ……余裕だね」

 余裕というか、あいつのやることはいつもいつも意味がわからん。

「じゃあ試合に勝ってるってことだね」

「逆に負けてるからヤケになってるようにも思うが……」

 むしろすでに試合が終わっているという可能性も否定できない。

「なんにしても、俺たちがここでじたばたしてても始まらないってことだ」

「うぐぅ……ボク、はやく試合行きたい」

「俺だってそうだ」

「お兄ちゃん、最近めっきり影が薄いもんね」

 どーでもいい扱いのあゆに言われたくない。

「じゃあいっそこのまま逃げ出すか?」

 すると、あゆの顔がぱあっと輝いた。

「でもあとで秋子さんになにを言われるかわからんがな。下手したら今日の夕飯はジャム尽くしだ」

 輝いていたあゆの顔が瞬く間に青くなった。

「そんなわけであゆ、おまえに任務を与える」

「……なに?」

「授業の代返を頼む」

 祐一は席から立ち上がった。

「ついでにジャムの代返も頼んだ」

 机にかかっていたカバンをひったくって一目散に教室を駆け抜けた。

「う、うぐぅ――――っ!!!」

 そっこーであゆにしがみつかれていた。

「二人しかいないんだから代返やってもバレバレだよっ!!」

「がんばれ」

「がんばっても無理だよっ!!」

「任務成功の暁には二階級特進させてやる」

「やだやだやだっ、それ縁起悪いっ!!」

「わがままなやつめ」

「わがままなのはお兄ちゃんでしょ!?」

「違う。俺は自分に正直なだけだ」

「同じ同じ!! 同じ意味っ!!」

「屁理屈なやつめ」

「屁理屈なのはお兄ちゃんでしょ!?」

「違う。俺は自分に正直なだけだ」

「同じ同じ!! 同じ意味っ!!」

 会話がループしていた。

 けっきょく、秋子が電話を終えて帰ってくるまで二人して騒いでいた。








「どうする、栞?」

 香里は目の前で不安な顔をしている栞に、なるべく明るい調子で声を投げかけた。

「歩かせて満塁策って手もあるけど」

 神奈を歩かせたとして、次は9番打者なのだ。なら、1アウト2、3塁でわざわざ無理に勝負をすることもない。

「勝負しましょう」

 茜が、ネクストバッターズサークルで慣れない手つきで素振りしている観鈴を見ながら割り込んだ。

 マウンド上には天野を除いた内野陣すべてが集まっていた。ちなみに北川はすでに止血を終えていて、ぶつぶつ文句を言いながらさっきまで栞が守っていたレフトについている。

 茜はそんな北川に一度だけ視線をやり、すぐにマウンドに顔を戻した。

「満塁策を取ってうまくタブルプレーに討ち取ったとして、次の回の攻撃はトップバッターからになりますし……」

 内野陣をぐるっと見回し、強く提案する。

「栞さんはスタミナがありませんから。あまりバッターには打席を多く回したくありません」

「ていうか里村さん、なんでそんなにあたしたちのチーム事情に詳しいのよ」

「……どこかのバカが言っていたのを思い出しただけです」

「それに祐一君からあらかた聞いてたからね」

 詩子が軽い調子で補足説明した。

「だから打たれてもまったく問題なーし。ゴロでもフライでも、あたしたちにまっかせなさーい☆」

「真琴にかかればなんでもアウトだもんね〜♪」

「そういうわけです。私たち守備陣を信じてください、栞さん」

 茜の声で、栞のうつむき気味だった顔がちょっとばかし上向いた。

「……わかった。信じるわ」

 香里は言って、ぽんっと栞の肩を叩き、しばらく栞の様子を窺っていたけれどそのまま何も声をかけずにキャッチャーズボックスに戻っていった。

 みんなの守りに賭けてみよう。守備陣との打ち合わせは、もう済ませておいたのだ。それは練習中に何度も行ったことであり、北川が治療を受けていた間(それは簡単な治療だったけれど)のことでもあった。

 あとは、今日チームの一員になったばかりの茜、詩子のふたりを信じるしかない。

 と、そのときベンチからちょうど天野が姿を現し、マウンドに歩み寄ってきた。

「あなたの持ち味を存分に発揮してください」

 それだけ言って、天野もまたファーストに、他の皆もまちまちの足取りでそれぞれの守備についた。

 ……私の持ち味。

 栞はその言葉を幾度か反芻しながら、久瀬からかけられたプレイのコールを耳にした。

 香里から送られたサインにうなずき、投球動作に移行する。

 柔らかいフォーム。

 ムチのようにしなる腕。

 沈む上体に合わせ、肩にかかったストール(もちろんユニフォームの上からかけている)が、ふわりと優雅に蝶のごとく宙を舞う。

 超本格的アンダースローから放たれた初球が、内角低めのやや甘いコースを突き進んだ。

 ……所詮は110キロ台のストレートじゃな。

 打席に立つ神奈に迷いはなかった。栞の投球練習を眺めていた神奈にはストレートの球速にだいたいの予測はついていた。

 まさに打ち頃の棒球。

 いくら変則投法だろうと、この程度のスピードなら簡単にタイミングを合わせられる!!

 その思い通り、神奈はまさに会心のタイミングでその球を打ち返した。

 神奈のバットは快音を響かせ、打球は鋭いライナーでサード茜の横を抜いた。

 神奈は走りながらその三遊間を真っ二つに割る打球の行方を追い――――

 我が目を疑った。

「ほいほーい☆」

 その三遊間真っ二つのライナーを、なぜかショートの詩子が真正面からキャッチしていた。

「アウト!」

 驚いたのはサードランナーの美凪も同じだった。詩子は捕球と同時にすぐさまサードへと(なぜか側転しながら)向かっていった。

「10点満点〜☆」

 バンザイのおまけつきでベースを踏み、ベースから飛び出していた美凪もこれでアウト。

 満塁策など関係なく、しかも栞はたった一球でアウトを二つもぎ取り、絵亜高校の攻撃をあっという間に終了させていた。

 マウンド上でホッと安堵する栞のところに、華音ナインが集まっていく。

 その頃には、絵亜ベンチは完全に静まっていた。








「……これが、華音高校の戦術というわけですか」

 ベンチに深く腰かけながら佐祐理は感嘆の息をついた。

 華音内野陣は、栞の投げたコースに合わせてあらかじめ左寄りに守備位置をシフトしていたのだ。三遊間を抜けるはずのライナーがショートの真正面になったのも、そのためだ。

 このシフトはキャッチャーの香里の指示――いや、試合前の祐一の作戦だったのだろう。おそらく祐一の頭脳には、絵亜高校の各打者のクセが全て入っており、どこに投げればどう打ち返してくるかを完全に把握していたのだ。それを香里に教えていたのだ。

 そして栞には、香里の要求に百発百中で応えるコントロールがある。

「……まさしく精密機械ですね」

 投げたボールがキャッチャーの構えるミットに寸分の狂いもなく吸い込まれる、驚異的なコントロール。つまるところこの技術こそが、絵亜高校を討ち破るための唯一無二の武器であり、それを祐一は最良のかたちで利用したのだ。

 ……伊達に去年の甲子園の決勝で、絵亜高校と戦ってはいませんね。

 だからこそ、祐一は研究していた。一戦を交えていた絵亜高校打線の全容を把握しようと努めた。打ち負かすための打開策を練っていたのだ。今年こそ夏の甲子園を制覇するために。

 ……ですけど、祐一さん。感嘆しつつ、佐祐理は満面の笑みをまったく絶やさない。絵亜高校だって去年と同じままというわけではありませんよ。

 事実、メンバーは去年と比べいくぶん異なっていた。今年チームに加入した佳乃、裏葉、観鈴はもちろん、他面々の新しいデータだって祐一の頭には入っていないはずだ。

 そして今日に限っていえば、この私――佐祐理のデータだって、手にはできていないだろう。一時期はチームメイトだった舞だって、佐祐理のすべてを知っているわけじゃない。華音高校に入学し、同じ野球部に所属していた期間は三ヶ月もなかったのだから。

「精密機械、か」

 聖が、佐祐理の隣に腰かけてぽつりとつぶやいた。

「おもしろい組み合わせだ。そう、実にな」

 くっくっく、とプロテクターをつけながら口元をゆがめた。

「佳乃さん、ですか」

「ああ」聖は瞳を細めてベンチに引き上げていく華音高校の面々を眺める。「なんといっても、佳乃は『魔法』が使えるのだからな」

「機械対魔法、ですか」

「だからこそ興味深いというわけさ」

 聖は立ち上がった。すると佳乃が寄ってきて「お姉ちゃん行こう」と目配せしてきたので、聖はそれに頬擦りもしくは抱擁で応える――ことは皆の手前さすがに自重して単にうなずくに留まった。

 佳乃の右手首に巻かれたバンダナが、六月の湿った風に吹かれて揺れた。

 佐祐理は頭上を仰いだ。天気は快晴、雲もなく雨が降る様子はない。

「……ここからが本当の勝負ですね」

 二人を追うかたちで、佐祐理もまたフィールドに足を進ませていった。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 北川潤
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 相沢祐一
月宮あゆ




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