第36話




 スカートの端をぎゅっと握ろうと思って、でもそういえば今の自分はユニフォーム姿だったことを思い出して栞は代わりに自分の両腕を強く抱きしめた。

 ……私はいったい、こんなところで何をやっているんだろう。

 うつむいた栞の顔は前髪に隠れてよくは見えない。

 本当は私が投げなくちゃだったのに。それなのに、私はいとも簡単に北川さんと先発を交代してしまった。いっぱいいっぱい迷惑かけたはずなのに、だけど北川さんは私を責めることはしなかった。

 北川さん、今日は調子悪そうで、なんだかひどく辛そうで……。

 レフトの位置から北川の投球を眺めつつ、栞はもういたたまれなくなっていた。

 アンダーシャツ越しに肌へと爪が食い込んで、次第に腕が痺れてきたけれどそんなことはひとかけらの問題にもならなかった。

 情けなくて情けなくて、もう、本当に泣いてしまいたいくらいで――――

 こんな気持ちのままもしボールが飛んできたらエラーさえしそうだった。そんなことになったら、今度こそ自分は北川さんに会わせる顔がなくなる。チームのみんなはぜったいにこんな私を許してはくれない。

 きっと、今の自分には、みんなで築き上げたこの華音野球同好会に所属する資格なんかない。

 ――――そう。

 栞は一度だけ顔を頭上に振り仰がせる。

 祐一さんが今日来られないことは、最初からわかっていたことだったんだ。

 ほんとなら、今日はお姉ちゃんとバッテリー組むんだって私も楽しみにしていたはずだったんだ。

 お姉ちゃんはやっぱりいつものぶっきらぼうの調子を崩していないけど、それでもお姉ちゃんは私と違ってキャッチャーをしっかりとこなしているんだ。

 栞はそろそろ気づきはじめていた。

 この試合はただの練習試合などではなく、一回負ければそれで終わりの地区予選トーナメントに匹敵する本気試合であることに。

 トーナメントを勝ち進むということは、毎試合このプレッシャーと戦っていかなければならないのだ。

 たとえフルメンバーで戦えないからといって、試合の日程は変更されるはずもなく、相手チームは自分たちチームに襲いかかってくるのだ。

 どんなときでもみんながみんな、自分の仕事をこなさなきゃいけないんだ。

 私だって投げなきゃいけないんだ。

 今からでも遅くない、北川さんと交代しよう!

 しかし元来、もぐら叩きゲームで無得点を叩き出すほど勝負事にはからっきし弱い栞の耳に、どこからともなく悪魔の声が聞こえてきた。

栞悪魔『ケッ、そんなこと言って本当は先発外されてラッキーとか思ってんだろうがこの卑怯者がYO』

 エセ外国人風味だった。

栞天使『お待ちなさ〜い』

 天使まで出てきた。

栞天使『真のヒロインとは決まって最後に登場するもの、今は黙って脇役に活躍の場を譲るのデース』

 こっちも外国人風味だった。

栞悪魔『だいたい相手は天下の絵亜高校だZE? ぼこぼこに打たれるのが目に見えてんだYO』

栞天使『終盤になったら颯爽と登場して九者連続三振に討ち取るのが理想的デース』

栞悪魔『どうせマウンドに登ったってまともに投げられやしねえんだからYO』

栞天使『今はあえて気力と体力を養い最高の舞台を整えるのデース』

栞悪魔『だからおまえはおとなしく外野を守って楽してりゃいいんだYO』

栞天使『だからあなたはおとなしく外野を守って来たるべき時を待つのデース』

 天使も悪魔もけっきょく意味的には同じことを言っていた。

 栞は頭の上で必死に手をぱたぱたやって天使と悪魔を消し飛ばそうとした。

 ……うぅ、なんだか両肩がとっても重いです。

 背後霊のようにとりつかれている気がしてならなかった。

 ……私を某格闘ゲームのボスキャラみたいにしないでください。

 本気試合そっちのけで、そんなことを悩んでいた。








 栞が涙ぐみながら頭上で手をぱたぱた振っていた頃、8番打者の神奈はぶすっとした顔を隠そうともせず打席に立っていた。

 ……なぜ余がこのような姑息な手を使わねばならないのだ。

 さきほどベンチから晴子のサインが出され、神奈は渋々と許諾した。反抗すればハリセンでぶっ叩かれるのは考えるまでもなかった。

 北川がセットポジションから第一球を投じ、神奈はやっぱりぶすっとした顔でその作戦に移行する。

 キャッチャーの香里が息を呑んだ。

 ――――初球スクイズ!

 無警戒だった。

 前打者の佳乃のときにスクイズはないと勝手に確信していたこともあり、なによりその佳乃をうまい具合に討ち取った直後で気が緩んでいたこともあった。そのため内野陣のほうも完全に対処に出遅れていた。

 サードの茜が慌ててダッシュするのを尻目に、すでにランナーの美凪はホームに向かって走っている。

「油断大敵ってやつやな」

 慌しくなったフィールドを、晴子は愉快げに見渡した。

 絵亜高校ベンチにとっては意表でもなんでもない作戦だった。チームの中で神奈は裏葉に次いでバントの名手だったし(去年から個別に裏葉の手ほどきを受けていた)、なにより次の打者はヒッティングもバントも両方ままならない観鈴なのだ。

 たとえ相手が弱小だろうとなんだろうと、うちらはうちらでベストを尽くす。だいいち、一度負ければすべてが無に帰す高校野球において、スクイズは姑息どころか勝ち上がるための常套手段なのだ。

 晴子は、失敗したらコロスとばかりにハリセンで素振りしながら先取点を確信した。

 しかしそれは意外な形で誤算に終わった。

「……な、なんじゃ?」

「なにこれ!?」

 神奈と香里が同時に目を剥いた。

 北川の投げたボールが突然、ふらふら揺れたかと思うとホームベース付近に到着したところで急激にすとーんと落下を始めたのだ。

 要求通りのフォークボール――――なんてレベルじゃない!?

 とんでもない軌道だった。ボールは、神奈が食らいつこうとして押し下げたバットのさらにその下をくぐり抜け、地面にワンバウンドした。

「……くっ!」

 香里はどうにかプロテクターにボールをぶつけて後逸を防ぎ、手前に落ちたボールをすぐさま拾ってサードへと目を振り向けた。

「……わっ」

 美凪は脚に急ブレーキをかけて、よろめきながら回れ右する。続いて香里がサードベースカバーに入っている詩子にボールを渡そうとする。

 ぬるり

「……っ!」

 ボールから伝わる異様な感触に、手元からボールがこぼれ落ちそうになった。

 慌てて送球を止め、香里は手の中のボールを凝視した。

「…………」

 美凪が無事にサードに帰還した頃、香里の視線はマウンドへと注がれていた。








 香里の視線の先、スクイズを敢行されたにもかかわらずマウンド上で突っ立っていた北川は、しきりに首をかしげていた。

 なんだろう。神奈に初球を投げた時、指先にビリッとした痛みが走ったのだ。

 おそるおそる自分の右手を見て、ギョッとした。

 なんだこの赤いの?

 ぬるりとしたそれは、どうも指先から流れ出す『血』らしかった。

 ……なぜに?

 突き指ってこんなふうになるんだっけか、と悩んでから、人差し指の脇に傷口らしきものが広がっていたことにようやく気づいた。

 そこには綺麗に整列された小さな凹凸が浮かんでいた。まるで歯形のような傷――これ、ひょっとして、ロッカー室で指を噛んだときのやつ?

 北川はぽんっと手を打った。

 たぶん、あれだ。さっき投げたとき、この歯形にボールの縫い目をひっかけてしまったんだ。だから傷口が広がったんだ。

「一件落着。問題なし」

 そんなわけはなかった。

 出血はすでに結構な量で、このままボールを握ればきっとそれは赤白帽子のようになるはずで、小学校時代の運動会を思い出すなあ……とうんうん頷く北川の頭に場違いな感想まで浮かんできた。

 冷や汗がだらだら流れた。

「……どういうことかきっちり説明してもらいましょうか、北川君」

 ひとりで焦っていると、さらに追い討ちをかける冷たい声が正面から聞こえた。

「なんなのよ、このボールは」

 香里がずいっと手の中のものを押しつけてくる。

 それは紛れもなく北川がさっき思い浮かべていた赤白ボールだった。

「……これは、あれだ」

「なによ」

「北川ボール3号だ」

 殴られた。

 さっきの異常なボールの軌道の正体はこれだった。出血によって通常よりも滑りやすい指先から投げられたフォークボールは、回転数が極端に少なくなり、だからナックルのように揺れるながら落ちる。

 だからこそ神奈はスクイズに失敗し、どうにか点をやらずに済んだわけだが……

 香里は心配そうに眉をひそめていた。

「……ねえ。いつからなの?」

「なにが?」

「怪我よ。あんた、いつからそんな指で投げてたの?」

 右手首をぐいっと握られ、とたんに痛みが込み上げてきて北川は顔をしかめた。

「あ……ご、ごめん」

「…………」

「……北川君」

「なんだよ」

 香里は大きく息をついて、

「こんな無茶はもう二度としないで」

「……いや、でもな」

「二度としないで」

 強く言われて、北川は二の句が告げなくなった。あさってのほうを向いて「あーあ、バレちゃしょうがねーよなあ」とぶつぶつ文句を垂れ流した。

「……もう、潮時じゃないですか?」

 茜がおずおずと寄ってきて、そんなことを言った。

「潮時?」北川は忌々しく吐き捨てる。「まだ始まったばかりだぜ? 交代なんかできるかよ」

「で、ですけど……」

「はやく守備に戻ってくれ。邪魔だ」

 しっしっと犬でも追っ払うようにグローブを振った。なにか言いかけた茜は、しかしけっきょくなにも言わずにシュンとなってうつむいてしまった。

「なによその偉そうな態度は」

 香里が憤然としていた。

「すぐ医務室に行くわよ。具合を見てみないと」

「必要ない」

「必要あるわよ」

「オレが大丈夫だって言ったら大丈夫なんだよ」

「あたしがだめって言ったらだめなのよ」

「あのなあ。心配性なんだよ、美坂は。栞ちゃんに対してもそうだし」

「栞は関係ないでしょ」

「あるんだよ」やれやれといった調子で言った。「栞ちゃんの気持ちがよくわかるぜ」

「あんた……いいかげんにしなさいよ」

 香里の声に苛立ちが混じる。

「そんな状態で投げられてもこっちが迷惑なのよ。あんたひとりのわがままで私たちまで振り回さないで」

「迷惑かけなきゃいいんだろが。ちゃんと投げてやるよ」

「あ、あの……」

「部外者はひっこんでろ」

「…………」

 それで茜は、やっぱり何も言えずにうつむくしかできなくなった。

「北川君、あんた最低ね」

「最低けっこう、わかったら守備に戻ってくれ」

「できないわね」

「なんで」

「なんでも」

「しつこいぞ美坂……」

「文句なら医務室で聞いてあげるわ」

「だから投げるって言ってんだろ!?」

「だめだって言ってんでしょうが!!」

「ふ、二人ともやめてください……」

「「部外者はひっこんでろ(なさい)!!!」」

 二人から一喝され、茜はますますシュンとなって後ろに下がった。

 ……誰か、助けてください。

 もうどうにもならなくなって他の内野陣に助けを請おうと、茜は周囲を見渡した。

 が、詩子と真琴は他人の振りをしていて天野は傍観者を決め込んでいた。厄介事が嫌いな三人にとっては当然の態度だった。

 なんて頼りない内野陣なんだろう……。これじゃあピッチャーがかわいそう。

 と、茜はぶんぶん首を横に振った。そうすると乱れた長髪が頬にかかってこそばゆい。

 なんで私が北川さんを弁護しなきゃいけないんですか……。私は部外者なんだから。相沢さんに頼まれてやって来ただけなんですから。

 だったらそれらしく、よけいな口出しなんてしなくてもべつに……。

 このとき茜の頭に、そういえば自分の所属していた野球部――中学時代に詩子とバッテリーを組んでいたときも、こんな具合の内野陣だったなあと過去の光景が蘇った。

 だからこそ詩子は肩を壊したわけで、だからこそ今の自分たちは高校の野球部で――――

「こうなったら腹部に一発当てて気絶させてから運ぶしかないようね……」

 ――と、香里の声で茜の意識が現実に戻ってきた。

「お、おい!? オレは怪我人だぞ!!」

「なら怪我人らしくさっさと医務室行きなさいよ」

「い、いや、オレは怪我人であって怪我人じゃなかった」

「だったら今ここで怪我させて連れていくしかないようね」

「暴力反対!! 横暴反対!!」

「横暴なのはそっちでしょ!!」

 このときセンターから名雪が駆け寄ってきていることに気づき、茜はホッと安堵した。

「お姉ちゃん、北川さん……」

 茜はきょとんした。

 名雪が到着するよりも前に、そのか細い声は聞こえてきた。

「お、お願い……喧嘩しないで……」

 三人の視線がいっせいにそちらに向いた。

「私が悪いんです……。全部私が……」

 栞が、肩を強張らせながらすぐ側に立っていた。

「北川さん、心配かけてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい……」

 なにかをこらえるように何度も頭を下げていた。

 それから必死になって頭の上で手をぱたぱたやりはじめた。

「……栞、なにやってるの?」

「ち、ちょっと、外国人風味の天使と悪魔がね……」

 そう告げる栞の顔は疲労でいっぱいだった。

「……栞。投げられる?」

「う、うん!」

「決まりね」

 香里がピッチャー交代を告げに久瀬のところに向かおうとする。

「……やめろ」

 北川はすかさず香里の二の腕をつかんで引きとめた。

「久瀬さーん。ピッチャー交代するね〜」

 すでに名雪が告げていた。

「待てって水瀬!!」

「北川君」名雪がにっこりほほえんだ。「これはキャプテン命令だよ」

「…………」

 北川はぐっと押し黙り、へなへなと脱力した。

「……あ、安心してください。北川さんのカタキ、取りますから」

「人を死人みたいに扱うなよ……」

 がくりとうな垂れた。

 そんな北川を取り囲むように立つ香里、茜、栞が、お互いに顔を見合わせて、それからほんのちょっぴり頬をゆるませた。

「まあなるべくしてなったということでしょうか」

 けっきょく最後まで傍観者を貫き通した天野が、このときになってようやく行動を起こしたことを、現時点では誰も知らなかった。

 華音ベンチへと天野が足を向けているとき、

「あぅ……なんでもいいから試合再開しようよー」

「つまんないつまんないつまんな〜い」

 真琴と詩子が味方とは思えない言葉を繰り返していた。

 一方、舞はライトから一歩も動かず「……がんばって」と一言だけ声援を送っていて、もちろんそれは誰の耳にも届かなかったが、本人は気にした素振りもなかった。

 チームメイトがそうして見守る中、栞はついにマウンドに登ることになった。

 震える膝を叱咤しながら。

栞悪魔『ケッ、無理すんじゃねえよまったくYO』

栞天使『これではヒロインの名が廃りマース」

栞本体『お願いだから消えてよぅ……』

 頭の上で手をぱたぱたやりながら。








●スコア


◇1死2,3塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川 → 栞

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (左) 北川潤
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞


柳也 相沢祐一
月宮あゆ




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