第35話




 両肩が荒く上下していた。指先から鋭い痛みが突き上げてくる。

 北川は顎からぽたぽたと流れ落ちる大粒の汗を拭いもせず、7番打者の佳乃へ次のボールを投げた。

「ボール!」

 腰の重心バランスを欠いた、バラバラの投球フォーム。球威もコントロールも完全に欠いている。

 2回表、絵亜高校の攻撃。この回トップバッターの美凪にレフト前ヒット、次の聖にはセンター前に運ばれ、華音高校はノーアウト1、2塁のピンチを迎えていた。

 北川の様子は明らかにおかしかった。投球数はまだまだ少ないのに、横顔にはくっきりと疲労のあとが見える。内野陣もそろそろ北川の異変に気がついているだろう。

 それでも茜は、平常心を顔に貼りつけて北川のピッチングを見守っていた。

 北川さんが平気だって言ったんですから。だったら、それに従うしかない。部外者の私が口出しする筋合いなんてないんですから。

 しかし、北川の次の投球を見て、茜はもう我慢できずにマウンドから瞳を背けた。

「……ボ、ボーク」

 審判の久瀬が、驚いた声でそう告げた。

 投球モーションの途中で、北川の右手からボールがぽろっとこぼれ、地面に転がったのだ。プレートに足が触れている投手がボールを落とした場合、それは故意か偶然かによらず、ボークとなる。

 そして、走者には一個の進塁が認められ、これでノーアウト2、3塁――――

「タイム!」

 たまらず香里がマウンドに駆け寄り、すこし遅れて他の内野陣も集まった。

「ちょっと……いったいどうしたのよ」

「すまん。ちょっと手がすべった」

「……ほんとにそれだけなの?」

「他になにがあるんだよ」

 北川は強く言うが、香里の表情は疑心に満ちていた。とても納得できないと。

「……ああ、あれだ。昨日食べた秋子さんお手製ジャムのせいだ、きっと」

「あんたいつの間にそんな危険なものを……ていうか、それだったら今頃あんたは病院よ」

 北川が、もういいから、とぞんざいにグローブを振ってみんなを守備に戻らせようとする。

 そんな北川の横から、茜は遠慮がちに足を前に出した。

「……あの、実は」

「とにかく」茜が言いかけた言葉を北川が強引に塞いだ。「次はぜったい抑えるから」

「……でも、あんたの様子、この回が始まってからずっとおかしいわよ」

「オレはいつもこんなんだ」

「そっかな〜なんか顔色悪いよアンテナ君☆」

「アンテナ君言うなっ!!」

「アンテナアンテナ〜♪」

「いいかげんにしろよおまえら!?」

「うわわっ、怒った、皆のもの散れー☆」

「散れ〜散れ〜♪」

 逃げるように詩子と真琴が定位置に戻っていった。それで、香里もやれやれとマウンドを降りていく。

 茜はもう泣いてしまいたい気持ちになった。詩子と真琴の場違いな振る舞いのせいで、北川の怪我をみんなに知らせるタイミングを逸してしまったのだ。

 恨みますよ……詩子、沢渡さん。

 二遊間バカコンビという単語が思い浮かんだ。いえ、北川さんを合わせて3バカトリオでしょうか……。

「まあ、何事もほどほどに。無理はしないことです」

 天野がファーストに戻り際、そんなことを呟いたが、その言葉が届いたのは北川本人だけだった。








 ……ほどほどに、か。

 腫れ上がった人差し指にボールを添え、北川はセットポジションを取った。香里のサインにうなずき、速球を外角高めに叩き込む。

 ストライクの判定と同時に、香里は立ち上がってサードへ矢のような送球を放った。

「……わ。びっくり」

 大きくリードを取っていたサードランナーの美凪が、とぼけた声を上げてベースに戻っていった。

 ……つーか、オレもびっくりした。

 バッターボックスに立つ佳乃は下位打線の打者、ならスクイズはじゅうぶん考えられるケースである。なにより内野ゴロを打たれただけで得点されることもあるので、内野陣もすぐにバックホームできるように前進守備を敷いている。

 まあ、天下の絵亜高校がスクイズをしてくるとも思えないけどな……。

 香里のほうも同意見のようで、ベンチの指示を仰ごうともしない佳乃の様子を確認しながら肩をすくめていた。

 とりあえず簡単にはゴロを打たれないよう、続く北川の投球も高めの速いボールでストライクを奪い、カウントは2−1。

 球威も球のキレも、これまでが嘘だったかのように普段の調子に戻っていた。

 ……平気平気。まだ投げられる。指の痛みもまだ我慢できる。

 しかし次の香里のサインで、北川は顔を青くした。

 ……フォークかよ。こんな腫れた指で投げられるのか、オレ?

 とはいえ、ここでサインを無視しようものなら、香里の拳骨、さらに運が悪ければケガがバレてピッチャー交代の運命が待っているので、北川は観念して生唾を飲みこんだ。

 おっかなびっくりにボールを指で挟み、どうにか成功したのでフォークを放ってみた。

 振りの弱い腕から放たれたボールは、スローボールの軌道を描いてホームへと到達し、とりあえず落ちる変化をして香里のミットに納まった。

「ボール!」

 あれぇ、なんかバレバレの変化球だったねぇ。腕の振りなんかすごく鈍かったし。

 打席の中で、佳乃は不思議そうに首をかしげ、それから合点がいったように何度もうなずいた。

 うんうん、同じピッチャーとしてわかるよぉ、その気持ち。サードにランナーいるんだもん、もしキャッチャーが取れなかったらって思うと尻込みしちゃうよねぇ。フォークなんか怖くて投げにくいよねぇ。

 北川は、ちらちらと執拗にサードランナーを気にしている。佳乃の頭の中で、もうフォークは来ないと確信が走った。

 続いて佳乃は、北川の持ち上がった右腕に注目した。

 腕の振りが先ほどとは違って格段に速い、佳乃の頭の中にもう一度確信が走る、これはストレート!!

 自信を持ってその速球を当てにいった佳乃のバットは、しかしボールを真芯で捕らえることは叶わなかった。

 北川のボールは速球と言うにはすこしスピードが遅かった。ボールは打者の手元でわずかに沈み、佳乃のバットはボールの上っ面を叩いていた。

 うそぉ……これ、フォークなの!?

 打球はサード方向にゆるく転がっていた。すかさず北川が捕ろうとしたところで、

「……邪魔です」

 前進守備をしていた茜がすぐグローブを伸ばしてボールをかっさらい、サードランナーを一瞥してからファーストに送球した。

 ふえーん、ぜったいストレートだと思ったのにぃ。佳乃はけっきょく、ランナーを還すことなくアウトに討ち取られた。

 北川の目の前を、茜が不機嫌そうな態度で通り過ぎていく。

「……サンキュ」

「…………」

 茜は何も答えず、それどころかあからさまに顔を背けてサードに戻っていった(まだ髪のことで怒ってるのか?)。

「上手くいったじゃない、北川君」

 困った顔をする北川に、香里が明るい声をかけてきた。

「今度はもっと効果的な場面で使ってみようかしら、北川ボール2号」

「その名前はやめろっ!!」

「でも満場一致で可決してるし」

「ぜったい八百長だろそれは!?」

 遅いフォークのあとに投げる速いフォーク。どちらもフォークと言うにはおこがましいくらいの変化しかしないボールだったが、北川は結構まんざらでもない顔をしていた。








●スコア


◇1死2,3塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (投) 北川潤
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (左) 美坂栞


柳也 相沢祐一
月宮あゆ




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