第34話




 太陽が燦々と照り輝くフィールドとは裏腹に、ここには蛍光灯の淡い光しか差し込まない。

 北川はベンチ裏のロッカー室で、壁に寄りかかって自分の右手を眺めていた。

 ぐあ……ちょお痛え。なんか人差し指が異様に腫れ上がってるんですけど。

 それは裏葉のバント処理をしてから徐々に、往人の対戦終了と同時にピークに達した痛みだった。

 なんでこんなことになったのかを考えると、みちるのピッチャー返ししか理由が見つからなかった。打球はグローブだけで弾いたと思っていたが、実は右手にも受けていたらしい。

 指の腫れは痛みを超え、代わりに痺れのような感覚が襲ってくる。すでに自分の指じゃないような感じ。

 感覚を取り戻そうと、その人差し指をがしがし噛んでみた。

「ぐおおおおおおおお!!」

 あまりの痛みにその場を転げ回った。

「……何やってるんですか」

 ちょうどそのとき、入り口のほうから呆れたような、冷ややかな声がかけられた。左右に垂らした大きな三つ編みが、どこからともなく流れるそよ風にかすかに揺れている。

「なんだ、茜ちゃんか」

「……人をいきなりちゃん付けで呼ばないでください」

 スポーツバッグを肩に下げた茜が、こちらに歩み寄ってきていた。

「……ピッチャーライナーを受けた時ですね」

「たぶんな」

 茜はスポーツバッグを床に置き、中からコールドスプレーを取って問答無用で北川の指に吹きかけた。

「ぐおおおおおおおお!!」

 しみるような強烈な痛みが指に走り、ふたたび北川は転げ回った。

「男の子なんですから、我慢してください」

 茜が寄り添い、北川の手を取って患部を診る。

「…………」

 茜ちゃんって世話好きなのか? 自分らはほとんど初対面なのに。

 場違いな感想を頭に浮かべながら、北川は何とはなしに(というか気まずかったので)、目の前にぶらさがっている茜の三つ編みをいじくっていた。

「……なにやってるんですか」

「いや、でかい三つ編みだなって」

「……ほっといてください」

 茜が目を上げて、神妙な様子でこちらを見すえてきた。

「突き指ですね。骨に異常はないと思いますけど……」

 しかし、ひどい怪我らしいことは、心配そうに顔を曇らせている茜の態度が語っていた。

「なんか、手馴れてるな」

「……よくやってましたから」

「へえ。なんで」

「……詩子のためです。私がトレーナーの勉強をしたのも……って、なに言わせるんですか」

 勝手に喋ったくせに。

「……あの」

 茜が上目遣いに見つめてくる。

「……く、くすぐったいです。やめてください」

「あ、ああ。ごめん」

 茜の髪に添えられていた北川の指が、それで離れた。

 と、三つ編みを結んでいたヘアゴムを爪でひっかいてしまい、茜の髪の右側がほどかれ、はらりと広がった。

「……なにやってるんですか」

 その声は怒りに震えていた。

「……バランスが悪くなったな」

「誰のせいですか……」

 思いっきり睨まれた。

「じ、じゃあ、これで」

 もう片方のヘアゴムも取ってやった。

 左右非対称だった茜のロングヘアが、ふわりとなびいて腰の先まで広がり、ちょうどよく揃えられた。

「…………」

 無言でこちらを睨み据えたまま、茜の肩がわなわなと震えていた。

「い、いや、その髪型だってなかなかのもんだぜ。かわいいじゃんか」

「…………」

 茜は瞳をぱちくりさせて、すると頬が徐々にうっすらと桜色に染まっていった。

「…………」

 無言でうつむいた。

 ……うーむ。

 彼女は歳不相応に冷静で沈着で、落ち着いた感じの子だと思っていたんだが。このかわいらしい態度はなんなんだろう。

「茜ちゃん。オレと結婚してくれ」

「〜〜〜〜っ!!」

 ボカン、と沸騰したように茜の顔が真っ赤になり、くるっと北川に背を向けた。

「……美坂さんがあなたをスパイクで踏んづけた気持ち、よくわかりました」

 茜がスポーツバッグを持ち上げ、肩にかけ直す。

「……もう勝手にしてください」

 ベンチのほうへ歩いていった。遠ざかる茜の足音がこの静かな空気をしばらく震わせ、やがて途絶えた。

 ……どうも怒らせてしまったらしい。そりゃそうだろうけど。

 さてどうしたものかと北川が頭をひねっていると、今度は近づいてくる足音が耳に触れた。

「…………」

 茜がUターンして戻ってきていた。

 ふたたびスポーツバッグを床に降ろし、言った。

「……すぐ、氷持ってきますから」

「……どうも」

 引き返していく。北川は追おうとして、そのとき遠くから声が聞こえてきた。

「北川くーん、茜ちゃーん、どこー。もう攻撃終わっちゃったよー」

 名雪の声だった。自分らを探しているようだ。

「……投手を交代してもらいましょう」

「このくらい平気だって」

 北川は軽い調子で言って、立ち止まっている茜の横を追い抜いた。

「ほら、もういかないと」

「……で、でも、すぐ病院に」

「平気だって言ったろ」

 にこやかに笑ってみせたが、茜は不安そうな表情を崩さなかった。

「……せめて治療くらいしましょう。すこしの間、試合を中断してもらって」

「だめだ。そんなことしたら、栞ちゃんにバレるだろ」

 北川は小さくため息をつく。

「もしオレが投げられなくなったら、あとは栞ちゃんしかいないんだ。そんなことになったら、栞ちゃん、慌てるだろ? 栞ちゃん、プレッシャーに弱いからなあ」

 それに、と北川は思う。栞は、スタミナがない。こんなに早い回から投げたとして、9回まで持つとは到底考えられない。

「だから、オレが怪我したことは秘密だ」

「で、ですけど……」

「あ、そうだ。じゃあ柚木に投げてもらおうかな」

「……だめです。詩子には投げて欲しくありません」

「なら、決まりだ」

 北川が足を早めると、茜は口をつぐんで肩を強張らせていたが、諦めたのか渋々とついてきた。

 すこし離れた距離のまま、二人はグラウンドに出た。








「あ、あれ? 茜……だよね?」

 ロッカー室から出てきた茜の顔を見て、開口一番、詩子がそんなことを言った。

「……それ以外、誰に見えるんですか」

「え、まあ……だってさ。その髪、どうしたの?」

「……どこかのバカのせいです」

 北川はもうマウンドに向かっていた。

 茜はグローブを手に、マウンドを迂回して、頬にかかる髪を指先ですくいながらサードへと歩いていった。

 そのときちょうど北川と目があって、べつにそれだけなのだけれど、なぜだか心の中でふつふつと湧き上がる怒りのようなものがあって、茜は勢いよく顔を背けた。

 北川はぽりぽりと後ろ頭をかいていた。








●スコア


◇0死0塁

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜  
華  音    

【投手】 佳乃
     北川

【本塁打】




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (捕) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (投) 北川潤
(投) 霧島佳乃  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (遊) 柚木詩子
(一) 神尾観鈴  (左) 美坂栞


柳也 相沢祐一
月宮あゆ




Next