第32話
北川は何度もグローブの中のボールを握りなおしていた。それはあまりに長い時間だったので、不審に思った香里が立ち上がると、北川は手を振って制した。
往人が左打席に入る。北川の手からロウジンバッグの白い粉がゆるやかに流れた。
……さて、南の怪物とやらはどんなものなのかしらね。香里はマスクの奥で、往人の不機嫌そうな面構えを見る。
北川がボールの縫い目に指をかけ、ファーストランナーの佐祐理を一瞥だけして、第一球を投じた。
風を切り、ボールはホームベースの角を縦に掠め去っていく。香里のサイン通りの、外角低めへのゆるいカーブ。
往人は思いきり空振った。
二球目は外角に大きく外れるカーブ。往人は見送り、カウントは1ストライク1ボール。
続く三球目、今度は内角高めを突く速球。これもまた完全にボール球だったが、往人は手を出し、一塁ラインを大きく割るファールを打ち上げた。
さらに四球目も内角高めの速球、しかし今度は打者の胸元に迫るボール球。それでも往人はスイングし、豪快にひっぱってファール。
五球目の内角速球もまた一塁側、華音高校の無人のベンチに叩き込まれていた。
香里は確信した。
こいつ……典型的なプルヒッター(ひっぱり専門)ね。香里は思い出す。去年の夏の甲子園、往人が放った三本のホームランは、すべて右翼スタンドに放り込んでいたのだ。
香里がサインを出すと、北川はうなずいて投球動作に入った。
そして、六球目。
またしても内角高めを強襲する直球だった。
往人は迷いもせずスイングを開始しようとする。これだけ同じコースに同じ球種が続けば、当然目も慣れているだろう。往人の顔がにやりと歪んだように香里には見えた。
どうせ先制アーチでも頭に描いているんでしょうけどね……。
往人の顔がしかめっ面に変わり、チッと小さく舌打ちした。
球は、まだ、ホームベースに辿り着いてはいない。直球は直球、しかし北川が投げたのは速球ではなかった。
これは、腕の振りは速球と同様に鋭く、それによって打者の目に速球と勘違いさせる超スローボール――チェンジアップ!
このボールは北川が以前、初めて祐一に投球を見せたときに「おまえの球は腕の振りの違いで的を絞りやすい」と言われて(第3話参照)、必死に練習した成果――『北川ボール1号』だった(命名、祐一。チームの賛成多数により決定)。
香里はほくそ笑んだ。打者が投手の投げたボールを判断するのに与えられる時間は、たったの0.2秒。この一瞬の間に、打者は球種とコース、ボールかストライクかの判断を下さなければならない。
だからこそ、打者というのはある程度投手の投げる球種に当たりをつけ、またはキャッチャーの配球を読むものなのだ。
香里は執拗に速球で攻めることで、往人の頭に北川が速球を投げるときの腕の振り、モーションを植え付けた。そして往人は、香里の狙い通りに、北川ボール1号が速球だと簡単に判断したのだ。
往人は、だからチェンジアップに対応できないでいる。
たとえ甲子園を暴れ回った南の怪物さんだって、これはもうどうにもならないでしょ?
――――ならないはずなのだ、が。
香里の脳裏に疑問がかすめた。往人の足はたしかに打撃動作の途中にあるのに、スイングはまだ開始されていなかったのだ。
……なんで? 速球のタイミングで振ったなら、もうとっくにバットが前に出ていてもおかしくないのに。
空振っていて当然なのに――――
往人は、今、しょうがないのでボールを手元まで引きつけているところだった。
たく……チェンジアップかよ。嫌いなんだよな、この球。なんていうか、人を小バカにしたところがとてつもなく腹立たしいというか。
そう。往人はべつに、速球とスローボールを勘違いしたわけではなかった。そもそも往人は、配球を読んだり狙い球を絞ったり、相手のモーションを見破ったり、そんな小難しいことをしたことがなかった。
直球? 変化球? そんなもんどっちだっていい。
よけいな先入観など俺には必要ない。
ただ単純に、来た球を打つ。
それだけでじゅうぶんだ。
往人はボールをじゅうぶん過ぎるほど引きつけた上で、ようやくバットを動かした。超微動かつ超高速の体重移動と圧倒的スイングスピードが、遅れ気味だった振り出しのタイミングを瞬く間に補正する。
来た球を打つ――それはつまりピッチャーが投げた球種を、安全に、確実に見切ってから振り出すわけで、しかも、以前に天野が香里と対戦したときに使ったようなカット打法(第9話参照)ではなくフルスイングともなれば、打者はどうしても振り遅れることになる。
にもかかわらず往人の打球が右方向へ飛ぶことが多いのは、ひとえにこの体重移動とスイングの素早さにあった。
香里は大きな過ちを犯していた。往人は決してひっぱり専門ではないのだ。
これは、投球にヤマを張らず、来た球に対して柔軟に対応し、そしてどの方向へも鋭い打球を弾き返せる打法――広角打法!!
往人のスイングが、今、手打ちではないしっかりと力の乗ったバットで北川のボールを捉えていた。
ひっぱった打球はセカンドの頭、斜め上方を飛びすさり――
「マロンクリームまんーっ!!」
真琴がダイビングキャッチした。勢い余ってフィールドを転がり、がっちりと天野の胸に抱きとめられていた。
「……チッ」
往人はもう一度舌打ちする。だからチェンジアップは嫌いなんだ。ボールが手元でわずかに沈んだせいだろう、思ったよりも打球が上がらなかった(チェンジアップの握りはストレートとは異なるので、ボールが変化したりしなかったりする)。
往人は頭上でバットをくるくる回しながら(法力ってやつだ。試合で使うと観鈴がうるさいから使わないが……)ベンチに引き下がった。
その背中は億劫そうで、かったるそうで、
「……マロンクリームまん、食いてえ」
そんな言葉が往人の口から漏れていた。
「……生きた心地がしないわ、ほんと」
3アウトを奪い、初回0点で抑えたにもかかわらず、香里の顔は疲労でいっぱいだった。
北川はといえば、「真琴ちゃんブラボ〜!!」とベンチに下がっていく真琴の元へと走り去っていき、ばしばしと頭を叩いて「なにすんのよバカアンテナ!!」とドロップキック(スパイク付き)の報復を食らっていた。香里は嘆息交じりでその光景を眺めていた。
そして、もうひとり、そんな北川に気遣うような瞳を向けている人物がいた。
「あーあ、結局あたしのところにボール飛んでこなかったな〜つまんないのー」
「…………」
「? どしたの茜」
「……いえ」
茜は短く答えて、北川の右手を遠目に見て――なにかを紛らわそうと無理にはしゃぎ回る北川を追うように、ベンチへと引き上げていった。
●スコア
◇0死0塁
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【投手】 佳乃
北川
【本塁打】
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (捕) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (投) | 北川潤 | |
(投) | 霧島佳乃 | (三) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (遊) | 柚木詩子 | |
(一) | 神尾観鈴 | (左) | 美坂栞 | |
柳也 | 相沢祐一 | |||
月宮あゆ |