第30話




「ま、しっかりやんなさいよ。大量点取られたっていいから」

「それじゃ勝てないだろ……」

「あまり意気込むなってことよ。とにかく、楽にやんなさい。いいわね」

 マウンドを降りていく香里の背中を見ながら、北川は「おまえ本当に同好会を部にする気があるのか……」と疑問に思ってしまう。

 膝の震えを感じ、がしがしとマウンドの土を蹴った。

 先攻は絵亜高校。一回表の攻撃。後攻である華音野球同好会のナインは、それぞれのポジションについている。

 まさかこのオレが先発とはね……。まったく、予想外の展開だ。

 心躍るとはいえ、緊張しないわけがない。なんと言っても相手は強豪校、それも甲子園で優勝を飾ったチームなのだ。

 ひとつもアウトが取れなかったらどうしよう。そんな不安すら湧いてくる。

 北川は首だけ回してレフトを見た。栞が、不安そうな表情でこちらに視線を送っている。自分と同様、いや、それ以上に緊張しているのがわかる。

「北川くーん、ふぁいと、だよーっ!!」

 この声は水瀬か。センターを守ってるってのに、よくもまあ声援を送ってくれるものだ。

 北川は滲んでくる額の汗を指先でこすり、したたかに息を吐き出した。

 まあ、栞ちゃんの調子が戻るまで、なんとかふんばってみますか。

 ワインドアップポジションから、第一球――自己最速138キロのストレートが北川の指先から放たれた。

「ボール!」

 審判の久瀬が低い声でジャッジした。

 北川の速球は、けっして遅くない。それどころか並の高校なら完封できるスピードである。

 それに加え、北川はコントロールに難があるわけではない。

「ボール!」

 だが、二球目の渾身の速球もストライクにはならなかった。

 原因は緊張のせいもあるが、なにより絵亜高校の先頭打者、みちるの身長にあった。

「ち、小せえ……」

 みちるの身長は145センチ。この小柄すぎる打者に、北川は戸惑っていた(小学生並じゃねえかよ……反則だろこれは)。

 今時の高校球児で150センチを割るレギュラーは皆無に等しいのだから、これは仕方がないと言える。

 しかも、みちるは腰を低く屈ませているため、さらにストライクゾーンが狭く見えていた。いくら打者が低く構えてもストライクの高低は変わらないのだが、コントロールに難はないが自信があるわけでもない北川にはじゅうぶん効果的だった。

「嫌なトップバッターね……」

 みちるの狙いはズバリ四球での出塁だと、香里は簡単に予想できた。その出塁率の高さがあるからこそ、みちるはトップバッターに座っているのだろう。

 しかし、みちるがトップバッターである理由は、実はもうひとつあった。

「ふふん。こんなクソボールじゃなくて、ちゃんとストライク投げてよねー」

 みちるがバットのヘッドをぐりんぐりん回して挑発した。途端、バットに振り回されてオットットとよろけた。

 小柄な身体には不釣合いな大きなバットが、みちるの手には握られている。おそらく重量も相当なものだろう。

 北川は眉をひそめる。あんなバット使って、ちゃんとスイングできるのか?

「こら――――っ!! 今チビとか思っただろ――――っ!!」

 思ってないが、半分当たってる。

「よけいなお世話だコノヤロ――――っ!!」

 耳がキンキン鳴る。うるさいことこの上ない。

 しかしここで相手のペースに乗ってしまっては自分のリズムを乱すことにもなるので、北川は冷静になろうと努めた。

「さっさと投げろクソアンテナ――――っ!!」

「クソアンテナ言うなっ!!」

 あっさり頭に血が昇っていた。

 ちくしょう、今度こそストライクを奪ってやる!! 北川は膝をあげ、つま先を小さく踏み出した。制球を気にしすぎ、腕の振りは弱々しく手投げになっていた。

 ストライク欲しさの完全な棒球が、ど真ん中めがけて放り出された。

「バカ……!」

 ミットを構える香里が顔をしかめた。

 みちるの両目がぎらんと輝いた。

「もらった――――――っ!!!!」

 みちるの身体が軸足を中心に駒のように回転し、じゅうぶん過ぎる遠心力を利かせた大きなバットが、弧を描いて前に突き出された。

 これが、もうひとつの理由だった。相手の不用意な球を誘い、それを見逃さず、確実にヒットにできる打撃力こそ、みちるがトップバッターである本当の所以!!

 ボールを巻き込むように捕らえたバットが甲高い金属音を鳴り響かせ、痛烈なピッチャー返しが飛び――――

 ――――え?

 北川は目を見開くだけでその打球に反応できなかった。

 がちん、と鈍い音が上がり、直後に北川の首が仰け反った。帽子が宙を跳ね、折り曲がった身体が後ろに倒れていく。

 跳ね返ったボールはサード方向に転がっていた。前進した茜がそれを拾ってただちにファーストへ送球するが、みちるは悠々とベースを駆け抜けていた。

「……北川君!」

 香里が、キャッチャーマスクを放り捨ててマウンドに駆け登っていった。








「どうかしました、祐一さん?」

 秋子の講義――メンデルの法則による基本的パターンのひとつである不完全優性の基礎となる対立遺伝子の優劣とヘテロの個体の関係(これは本当に保体の授業か?)を覚え込まされていた祐一は、不意に黒板の上にかかっている時計を見た。

「いえ、ちょっと胸騒ぎが……」

 もし試合が順調に進んでいたとしたら、もう3イニングくらい消化しているだろうな。

 実は香里たちが大幅な遅刻をしたため、いまだに1回表の絵亜高校の攻撃中なのだが、そんなことを知る由もない祐一はさすがに焦り始めていた。

「勝ってるよね、みんな」

 隣の席に座っているあゆが、不安そうに訊いてきた。祐一は「もちろん」とも「さあな」とも答えられなかったが、ただ一言、

「あいつらなら心配ないさ」

 その言葉で、あゆの顔がほんのすこしだけど明るくなった。

「それでは、授業を再開しますね」

 祐一とあゆは、ふたたび秋子の難解な講義を子守唄のように聞きはじめた。








●現時点でのオーダー表


・華音高校 ・絵亜高校

     スターティングメンバー

ピッチャー
 北川潤  霧島佳乃
キャッチャー  美坂香里  霧島聖
ファースト  天野美汐  神尾観鈴
セカンド  沢渡真琴  裏葉
サード  里村茜  国崎往人
ショート  柚木詩子  倉田佐祐理
レフト  美坂栞  遠野美凪
センター  水瀬名雪(キャプテン)  神奈備命
ライト  川澄舞  みちる


         ベンチ

 相沢祐一  神尾晴子(監督)
 月宮あゆ  柳也(キャプテン)




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