第28話




「祐一とあゆちゃん、今頃どうしてるかな……」

 名雪は襟のリボンを解き、制服を脱ぎながら、隣で着替えている栞に話しかけた。

「……はい」

 栞が不安げに応じた。ブラウスのボタンをもどかしいくらい丁寧に外していく。小ぶりだが形の整った白いブラのカップが、はだけたブラウスの隙間からちらりと顔を覗かせた。

「二人とも、のほほんと特別授業とやらを受けてるんでしょうよ」

 栞とは対照的に大雑把に制服を脱いだ香里が、苛立たしく脇に折りたたんであったユニフォームを手に取った。

 ここは華音高校のクラブハウスの一画、野球同好会の部室である。名雪たち女子一同は、いったんこの場所に集まってユニフォームに着替えてから、試合場である河川敷のグラウンドに向かう予定だった。

 そう、今日は日曜日。今度は間違いなく、絵亜高校との練習試合の日だ。

 だというのに、名雪たちは約束の時間を大幅に遅らせていた。すでに準備を済ませた北川と舞を先に行かせてはいるが、今の自分たちには急ぐやら慌てるやら、そんな気持ちはまったく湧いてこない。

 部室の中には、さきほどからずっと重い空気が垂れ込めている。

「……祐一さん、来ますよね」

 栞が脱いだ制服をのろのろと折りたたんでいた。連日の練習にもかかわらず、その雪のような肌の白さは、腕や首すじ、うなじにいたるまでまったく損なわれていない。

「来るとしても、だいぶ先でしょうね。授業は昼までらしいですから」

 天野がアンダーシャツに腕を通し、白いユニフォームを羽織った。胸のふくらみにそって刺繍された『華音』の二文字が、鮮やかなマリンブルーに輝いている。

「祐一さん……なんで……」

 栞の横顔が青ざめて見えた。元来の肌の白さとあいまって、それは怖いほどだと名雪は思う。

 お願い、祐一。はやく来てよ……

「……って、真琴!! そんな格好のまま走っちゃだめっ!!」

 真琴がユニフォームをぶんぶん振り回しながら下着姿で部室内を駆けていた。

「フフ……捕まえた」

 天野が真琴を押し倒すように抱きしめて、真琴は「あぅーっ離せー!!」としばらく暴れていたが、やがてクタッとなって動かなくなった。

 名雪は頬を赤らめながら二人から視線をそらした。

「……名雪。髪、まとめるんでしょ」

「あ、う、うん」

「手伝ってあげる」

 香里が名雪の髪をクシでとかしつつ、広がっていた長い髪を後ろで一本にまとめた。名雪は鏡の前でちょこんと椅子に座り、されるがままになる。

「今さらジタバタしてもしょうがないし、あたしたちだけでやるしかないでしょ」

「……うん」

「相沢君が来るまで、ピッチャーは北川君かしらね」

 香里がちらと栞を見やった。栞は、他のみんなと違ってまだ着替え終わっていない(真琴もまだだけど)。その動きはとても遅くて、緩慢で、心ここにあらずといった様子だ。

 髪をまとめ終わると、名雪は細いふくらはぎに真っ白いソックスを通した。香里が名雪の頭にKのイニシャルが刺繍された帽子をかぶせ、にっと微笑んで、それから栞のほうにまた瞳を動かした。

 香里が大きく息をつく。

「昨日までは平気そうに見えたから、大丈夫だと思ったんだけど……」

 ……平気なわけない。ソックスをはき終わり、でも、名雪は椅子から立ち上がれないでいた。

 名雪には、栞がこうなるんじゃないかと予想がついていた。

 初めての試合、初めてのマウンド。相手は強豪と名高い絵亜高校。負けたら最後、華音野球同好会は廃部。

 しかも自分らは、部員数が九人に足りていない体たらく。

 七人でどうやって試合するんだよ。

 わたしだって怖いよ。緊張してるんだよ。

 バカ。大バカ。

 祐一の大大大バカ……!!

「あったあった、ここじゃない?」

「……たぶん」

 と、部室の外から小さく声が聞こえてきた。足音と一緒にその声はだんだんと近づいてきて、そして扉がばんっと勢いよく開け放たれた。

 そこに立つ二人の人物を見て、名雪たち女子一同は瞳を真ん丸くした。

「やっほーみんな、おっひさしぶり〜☆」

「と言えるほど、まだ話数は進んでいませんですけど」








 一方、河川敷のグラウンドでは――――

「華音高校の皆さん、遅いですね」

 手持ち無沙汰になってスプーンをティーカップの中でくるくる回し、佐祐理はベンチの背もたれに寄りかかって居住まいを正した。

 ティーカップを唇まで運び、香りを楽しんでから一口すすって、ほうっと一息つく。

 そんな具合に、佐祐理は優雅にティータイムを満喫していた。

 華音高校側のベンチには、まだ舞と北川の二人しか到着していない。二人だけだと、たいして広くはないベンチもがらんがらんに見える。スタンドのほうにもギャラリーの姿は見当たらなかった。

 ちょっと寂しい感じ。

 だがこの場所――寂れているくせに設備だけは整っている野球練習場が、観衆5万人を収容できるさゆスタとなって生まれ変われば、もっと活気ある場所に変わるはずだ――なんちゃって。

 佐祐理はあははーっと笑いながらフィールドで練習を行っている面々を眺めた。各々ノックを受けたりキャッチボールをしたり談笑をしたり、和やかムードが広がっている。

 絵亜高校のメンバーはすでに全員が揃っていた。

「……不思議なもの発見」

 佐祐理の横では、遠野美凪が拡声器に似た機器を持って、つんつんと指で突付いたり斜めに傾けてみたりしていた。

「みちる……ハイチーズ」

 美凪の隣に座っていたみちるに、その機器をずいっと突き出した。

「美凪さん、それカメラじゃありませんよ」

「はあ……ではなんなのでしょう」

「スピードガンです。ピッチャーの投げるボールの速度を計測するんです」

 佐祐理が機器についたデジタル表示のカウンターを示すと、みちるが「おお〜」と身を乗り出してくる。すると今度は神奈が「なんじゃなんじゃ」と近づいてきた。

「みちるさんと神奈さん、球速測ってみますか?」

「やるやる!!」

「おもしろそうじゃのう」

「ええと……では私も僭越ながら」

「それじゃ、みんなでブルペン行きましょうか」

「なんでやねん」

 佐祐理が三人を連れてベンチから立ったところで、自分らの側で仁王立ちしている人物に気づいた。

 さっきまでノッカーをやっていた絵亜高校の鬼監督、神尾晴子である。

「外野勢、なに遊んどんねん。さっさと守備につき……て、美凪。なにしとるん」

 美凪が自分の荷物をせっせと漁っていた。

「グローブの準備を……」

「はよせんかいっ」

「ついでに日焼け防止の準備……」

「そんなもんいるかいっ!!」

「余もお手玉の準備をせねば」

「みちるもシャボン玉セット持ってく……にょわっ!!」

 スパーン、と晴子がハリセンを振り下ろし、みちるが撃沈した。

「……日焼け防止はまた今度」

「……野球にはグローブだけで十分だったのう」

 美凪と神奈がいそいそと外野に向かっていった。そのあとを晴子が「にゅう……」と目を回しているみちるの足をつかんでひきずりながら追っていく。

「倉田さん、あんたもや」

 晴子が振り向き、目配せしてくる。

 はやく自分のポジションにつけ、と。

「あの……ありがとうございます。部外者の佐祐理も混ぜてもらって」

「そんなもん関係あるかい。野球は九人いなきゃできひんもんや。そうやろ?」

「……はい」

 晴子が口元を歪ませる。

「だったら、あんたはもう絵亜野球部の一員や。うちの命令には従ってもらうで」

「はい、よろしくお願いします」

 ぺこんとお辞儀すると、晴子が「うちのメンバーもこのくらい素直やったらなあ……」と遠い目をした。

「じゃ、行くで。うちに続きや」

「はい」

「まずはあの夕陽に向かってダッシュやっ!!」

 晴子が前方を指差しながらいきなり駆け出した(まだ午前だから夕陽なんかないですけど)。その後ろ姿は熱血野球少年そのものだった(みちるさんがずるずるとひきずられてはいますけど)。

「くう〜久々の試合やから燃えるわ〜」

 その晴子の目つきは酔っ払いみたくすわっていた。

「あ、晴子さん。ノックの前に、華音高校の皆さんにメンバー表渡してきますね」

 ポケットから絵亜高校のメンバー表を取り出した。晴子は「はよ戻ってきいや〜」とバットを回して答える。

 佐祐理はそっと感謝する。晴子のあっけらかんとした振る舞いのおかげで、自分が早々とチームに馴染めたことに。自分のわがままで絵亜野球部を振り回しているという罪悪感も、次第に薄らいでいた。

 絵亜高校のスターティング・ラインナップは、次の通りである。




●絵亜高校 スターティング・ラインナップ

打順



1番 ライト みちる
右投げ左打ち
2番 セカンド 裏葉
右投げ右打ち
3番 ショート 倉田佐祐理
右投げ左打ち
4番 サード 国崎往人
右投げ左打ち
5番 レフト 遠野美凪
右投げ左打ち
6番 キャッチャー 霧島聖
右投げ右打ち
7番 ピッチャー 霧島佳乃
右投げ右打ち
8番 センター 神奈備命
右投げ右打ち
9番 ファースト 神尾観鈴
左投げ左打ち




「居候!! なんであんたがマウンドにいんねんっ!!」

「主役の俺にサードは似合わん」

「じゃあ、あたしがキャッチャーやるよぉ。お姉ちゃんこうたーい」

「フッ、喜んで交代しよう」

「裏葉。余もそろそろ外野は飽きた」

「ではわたくしめの隣にお出でくださいまし」

「観鈴ちんもピッチャーやりたいなあ……」

「みちるもみちるも!!」

「……三人くらい投手がいても問題ないかと」

 瞬く間にスターティング・ラインナップが変化し、とんでもない守備体形ができあがった。

「おい晴子。さっさとノックしろ」

「できるかボケェ!!」

 ボールの代わりにフィールドにハリセンが飛び交った。

 佐祐理はそんな光景にくすくす笑いながら華音高校側ベンチへと歩いていく。

 佐祐理が近づいてくるのに気づいたのか、北川とキャッチボールをしていた舞がこちらに視線をよこした。いつもの無表情、すこし複雑な感じの顔をしていると佐祐理は思う。

「舞。これ」

「…………」

「そっちのは?」

「……はい」

 メンバー表を交換した。絵亜高校のラインナップに目を通した舞は、一瞬驚き、何か言いたそうにしていたけれど、佐祐理はくるりと背を向けて絵亜高校側ベンチに戻ろうとする。

 小さな声で、言った。

「いい試合、しようね」

「……うん」

 佐祐理もまた、華音高校のメンバー表を見た。




●華音高校 スターティング・ラインナップ

打順



1番 センター 水瀬名雪
右投げ左打ち
2番 ファースト 天野美汐
右投げ両打ち
3番 キャッチャー 美坂香里
右投げ右打ち
4番 ライト 川澄舞
右投げ左打ち
5番 セカンド 沢渡真琴
右投げ右打ち
6番 ピッチャー 北川潤
右投げ右打ち
7番 サード 里村茜
右投げ右打ち
8番 ショート 柚木詩子
左投げ左打ち
9番 レフト 美坂栞
右投げ右打ち




 その中に紛れている柚木詩子と里村茜の名前に気づき、佐祐理は後ろに振り返った。だが、舞はもう北川とのキャッチ−ボールに戻っていた。

 そっか。舞は本当に過去を克服したんだ。

 二年前。野球部の部員がみんないなくなって、舞と佐祐理の二人だけになって。そのときの舞はなんだか寂しそうで……。

 佐祐理はベンチに戻り、そこに置いてあるグローブを撫でるように手に取り、晴子の怒鳴り声が響いているところへと歩いていく。

 ひさしぶりにはめるグローブの感触は、まだちょっとだけひんやりとしていた。








●現時点でのオーダー表


・華音高校 ・絵亜高校

     スターティングメンバー

ピッチャー
 北川潤  霧島佳乃
キャッチャー  美坂香里  霧島聖
ファースト  天野美汐  神尾観鈴
セカンド  沢渡真琴  裏葉
サード  里村茜  国崎往人
ショート  柚木詩子  倉田佐祐理
レフト  美坂栞  遠野美凪
センター  水瀬名雪(キャプテン)  神奈備命
ライト  川澄舞  みちる


         ベンチ

 相沢祐一  神尾晴子(監督)
 月宮あゆ  柳也(キャプテン)




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