第27話
やっと授業が終わった。疲れた。保健体育って、あんまり好きじゃない。人間の身体のことを知るのって、なんか怖い。
なんで怖いのか、自分の身体のことを知るのをなんでボクは恐れるのか、それはちょっとよくわからなくて、こんなことを悩んでいること自体が怖いような気もするのだけど。
とにもかくにも、月宮あゆは疲労困憊だった。「はうぅ〜」といった顔をして、土手の道をとぼとぼ歩いている。
自分と一緒に秋子の授業を受けたはずの祐一の姿は、なかった。帰り支度をしていたら、いつの間にかいなくなっていた。
要するに、置いてけぼりを食らっていた。
祐一君のいじわる……。思考の中では祐一をお兄ちゃんと呼ばないあたり、あゆもいちおう今の祐一との関係に疑問を持っているのだった。
まあ、毎日祐一君の顔が見れるからこのままでもいいかな、とも思ったりして。しかもひとつ屋根の下、果ては共同部屋……。あゆはひとり照れて手をぱたぱたやる。その姿はなんか間抜け。
そのとき、お腹の虫が鳴った。
「……うぐぅ。はやく帰ろ」
ぴこぴこ。ぴこぴこ。
ほら、また。お腹の虫もこんなに騒ぎ始めて……。
ぴこぴこ。ぴっこり。
「…………」
それはあまり虫っぽくない腹の虫の音だった、わけではなく、その音はどうやら違うところから聞こえてくるようだった。
あゆは瞳をきょときょと動かして、それをすぐに発見した。
「……なんだろ、これ」
足元に白い毛玉が座っていた。あゆのふくらはぎの部分にすりすりと擦り寄っている。
「……生き物?」
つぶらな瞳に、べろんと垂れた舌。けれど疑問系になるほど、その物体はなんの動物なのか形容しがたかった。
「あ! いた!!」
突然、土手の下から声が響いてきた。あゆがそちらに振り向くよりも先に、人影が土手を駆け上がってあゆの目の前に飛び込んでくる。
「もう、だめだよ勝手にどっかいっちゃ。迷子になったら佳乃さんが心配しちゃうよ」
腰よりも長いポニーテールをした女の子が、あゆの足首にまとわりついていた白い毛玉をひょいと抱えあげた。
その間、あゆはただただ首をひねるばかりだ。
「にはは。ありがと、ポテトのこと見つけてくれて」
女の子がこちらを見、軽くお辞儀した。あゆはすこし戸惑って、
「……ぽてと?」
「うん。この犬の名前。ポテトっていうの」
「犬……」
どういう種類の犬なのか、とても気になった。尋ねなかったけど。
そのポテトと呼ばれた犬は、ぴこぴこ鳴きながら女の子の首にぶら下がっている十字架のアクセサリーを前足でひっかいている。制服のオプションみたいなそれは、彼女がこのあたりの学校の生徒じゃないことを示していた(ていっても、ボクはこの地域に詳しいわけじゃないけど)。
「あっ、だめ……きゃっ!」
ポテトが女の子の胸からぴょんと脱出して、土手の斜面をころころ転がってグラウンドに降り立った。近くに転がっていたボールでじゃれはじめる。
その向こう、でこぼこした街並みの地平線には、すでに夕闇がかかっていた。
「はやく帰らないとみんなが心配しちゃうよ〜」
女の子が慌てて土手をくだり、つまずきそうになりながらもポテトを追いかけていく。あゆも、なんとなく女の子についていった。
女の子がグラウンドに近づくと、ポテトはマウンドを縦断して外野まで逃げていった。
「ふえーん、待ってよ〜」
女の子が泣きべそをかいて追いかける。ポテトはフィールドを大きく回り、ファールエリアのほうまであっという間に駆けていく。
「あ、ボクも手伝うよ……うぐぅ!?」
ポテトが弾丸のように突っこんできて、ホームのところに立っていたあゆに体当たりをかました。
屍のように倒れこんだあゆの背中にポテトは乗っかり、リュックの羽根とたわむれ始めていた。
「が、がお……疲れた」
女の子がようやく戻ってきた。あゆの横でへなへなと土の上に腰を落とした。
それで、ちょうど女の子と目があった。
「ご、ごめんね……えっと」
「月宮あゆです」
転入してからここ一ヶ月、たくさんの人に自己紹介をしていたせいか、丁寧な口調で名前を告げていた。寝転がっているせいで、お辞儀はうまくいかなかったけど。
「わたし、神尾観鈴」
女の子はニッと笑って、それから、神妙な顔でじーっと見つめてきた。ポテトを見ているわけではなく、あゆのぽかんとした顔をじっくりと、その瞳に焼き付けるように。
「……えいっ」
なにを思ったのか、観鈴が覆い被さるようにいきなりあゆに抱きついてきた。あゆの体勢が、むぎゅっと潰れたカエルみたいになる。一緒に潰されそうになったポテトが、すんでのところで身を引いた。
「あの、変なこと訊くけど……。あゆちゃんとわたし、似てないかな?」
観鈴が、あゆの耳元で囁いた。
「なんていうか……物語のヒロインを張るにふさわしい気品を備えてるっていうか……」
言ってから観鈴は、ぎゅう〜とあゆの背中を抱きしめ、恥ずかしそうに笑いながらようやくあゆから離れた。
あゆはもう、なにがなんだかさっぱりだ。
「にはは……ごめんね。わたし、人に抱きつくの好きなんだ。癖みたいなものなの。みんなからやめろってよく言われるんだけど……」
「う、うん。気にしてないよ」
「……ありがと」
観鈴がまた照れ笑いした。あゆはすこしの間黙ってそんな彼女を見ていたけれど、さっき気になったことを思いきって尋ねてみた。
「……ボ、ボク、ヒロインなのかな?」
観鈴がぶいっと指を突き出した。
「わたしの目に狂いはないよ」
自信満々に言われた。だけどやっぱり、あゆの顔はまだ疑心に満ちていた。
「ヒロインのわりにボク、扱いが適当だと思うんだけど……」
祐一の妹という設定なのが良い例だった。
「ね、あゆちゃん」観鈴はあゆに顔を寄せ、ささやくように言う。「野球って知ってる?」
「う、うん」
というよりボク、野球同好会のメンバーなんだけど。いちおう。
「この物語でヒロイン張るにはね、野球が上手くなきゃいけないんだよ」
「…………」
観鈴は自分に言い聞かせでもするみたいに、うんうんと何度も首を縦に振る。
あゆはといえば、完全に今の状況から置いてけぼりを食っていた。
うぐぅ……この人、よくわかんない。ボク、変な人にかかわっちゃった? そう考えたとたん、止め処ない後悔が押し寄せていた。
そうだ。彼女は、危険だ。あゆの頭の中で、『知らない人=天野美汐=近づくと危険』という図式が成り立った。
ついでにお腹の虫も鳴った。
「にはは。あゆちゃん、お腹減ってる?」
女の子がまたぎゅうっとあゆの身体を抱きしめ、あゆは「あわわわ……」となぜか頬を赤らめながら逃げようとして、するとようやく観鈴が身を離した。
観鈴がるんるんな感じで、紙パックのジュースを押しつけてきた。
しかしあゆの頭にはこのとき、『知らない人から物をもらう=天野美汐=クレープ屋に追いかけられる』という図式が成り立っているので、頭をぶんぶん振って断った。
「が、がお……。どろり濃厚でおいしいのに」
もらわなくてよかったと神に感謝した。
「あ、あの……観鈴さん」
「観鈴ちんでいいよ」
「え、えと、じゃあ観鈴ちんさん」
「が、がお……」
観鈴が涙ぐんだ。
「それで、さっきの話の続きなんだけど。観鈴さんは、野球上手なの?」
「うん。わたしね、実はエースピッチャーなんだよ」
えっへんとふんぞり返った。あゆは「うわあ……」と驚き、羨望の眼差しを送る。ボクも野球うまくなりたいなあ……なんて考えて、そんな自分にちょっぴり嫌気がさした。
野球を始めてから一ヶ月。それはとても短い期間で、だけどボクはがんばって練習してきたんだから。そして、レギュラーの座を勝ち取ったんだから。
といっても、部員は九人しかいないわけだけど。
ボク……やっぱり足手まといなのかな。それはあゆの心にずっとわだかまっていたことだった。ボク、野球ぜんぜん上手にならないし。みんなに迷惑かけてばっかりだし。
ボクが特別授業で試合に出られなくなって、本当はみんな喜んでるんじゃないかな……。
「わたしね、野球始めてからまだそんなに日にちが経ってないの。ずっとベッドで寝たきりだったから。起き上がれるようになってから、まだ一年も経ってないの」
観鈴があゆの手を取って、にこっとほほえんだ。
あゆは驚いてしまう。
彼女は、なんていうか、無防備な子だと思った。他人に対して恐れとか、警戒心とか、そういったものを微塵も感じていないようだった。
「ね、あゆちゃん。わたしの魔球、見せてあげよっか」
観鈴はそう言って、マウンドほうに駆けていった。これまでおとなしくお座りしていたポテトが、ぴこぴこ鳴いて観鈴を追いかけていく。
だからあゆも、観鈴を追うようにホームベースまで走っていった。
ドキドキする。呼吸が早くなっていた。
あゆは、はしゃぐ観鈴の姿を紅潮した顔で眺める。
こんな無防備な彼女が、なんだか羨ましくて、そして、すこし怖かった。
「いくよー」
プレートに立った観鈴が右手を高く掲げて、その手に握られているボールをあゆに見せた。
水色のボール、ゴムボールのようだった。
それを持ったまま観鈴はいきなりサード方向へ走り出し、ベースを踏んで、両腕を伸ばしながら飛行機のようにUターンして、またプレートに戻ってきた。
そして、そのままプレートを走り抜けながらジャンプし、身体をひねり、ボールを投げ、ふわりとスカートをはためかせて着地し、
転んだ。
ゴムボールはころころ転がってあゆのもとに届く前に止まった。
「が、がお……」
パンツ丸出しでうずくまる観鈴の姿はなにか哀れだった。
「うわわ……っ!!」
観鈴が大慌てでめくれ上がっていたスカートを直し、パッと立ち上がって大声であゆに訊いた。
「ねえ、あゆちゃん。どうだった?」
どうだったと言われても。
「ぎゅーんって飛行機みたいに変化しなかった?」
それどころかボールは地面に墜落していたと思う。
「おかしいなあ……遠野さんから教えてもらった魔球なのに」
観鈴の頭の上にはハテナマークがたくさん浮かんでいた。
実は、この観鈴の投げたボールは、転向力という地球上に存在する見せかけの力を利用した変化球であり、見せかけであるので当然、投げた本人には変化しているように見えても、打者にとっては単なる直球なのだった。
元天文部、現野球部の遠野美凪から教わったこの魔球を前に、観鈴とあゆ、ふたりは首をかしげるばかりだった。
そんな二人は、たしかに似たもの同士のように見えた。
あゆが家路につこうとするとポテトが追いかけていって、それを留めるのには苦労したけれど、観鈴はようやく自分の胸にポテトを抱え上げることに成功した。
……あゆちゃんって言ったっけ。また、会えるかな。ポテトも気に入ったみたいだし(どうもリュックの羽が気になるみたいだけど)、うん、きっと会えるよね。
そしたら、今度はちゃんとお友達になろうね。
そろそろ自分もみんなが泊まっているホテルに戻ろうと、観鈴が踵を返したとき、入れ代わるようにもう一人の人物がやって来た。
「あ……往人さん」
国崎往人が、ずかずかとグラウンドに踏み入ってくるところだった。それを見たポテトが盛り時のような勢いで飛んでいって、往人に無下に蹴飛ばされた。
「わああ!? 往人さんなにやってるの!?」
「打撃練習」
「違う違う、それサッカーの練習!!」
ポテトが涙目で舞い戻ってきたので、ひしっと抱きとめてあげた。
「で、いつからおまえはエースピッチャーになったんだ?」
「……にはは。往人さん、聞いてたんだ」
「おまえがバンザイしながらコケた姿もばっちり見た」
「ゆ、往人さんのエッチ〜!」
「おまえが勝手に見せたんだろうが。自業自得だ」
往人がさっさと土手を登っていくので、急いであとに続く。
腕を取り、ぴとっと頬をくっつけた。
「……なにする」
「えへへ……」
往人は寄り添ってくる観鈴をうっとうしそうに見ていたが、やがて諦めたのかため息をつくに留まった。
観鈴は思い巡らせる。
一年前まではひとりで歩けもしなかった自分。そして、他人と接し、親しい仲になる度に癇癪を起こしていた。
その頃のわたしは、きっとこんなふうに笑えてはいなかった。
しばらく無言のまま土手の道を歩いた。そんな二人の後ろを、ポテトが静かについてくる。
往人が口を開いた。
「……まさか、おまえの呪いを解く方法が甲子園で優勝を飾ることだったとはな」
千年もの間、呪いが解けなかったのもうなずける話だった。
「にはは。観鈴ちんもびっくり」
「大会前にそれを知って一番びっくりしてたのは、柳也だったな。傷心の武者修行に出たくらいだし」
「修行から帰ってきたら、超高校級の豪腕投手に生まれ変わってたよね」
しかも大会中にデッドボールは一球もなかったので、コロサズの誓いはちゃんと守っていた。
「あいつ、大会が終わったら終わったでまた修行にいっちまったな。俺の役目は終わったとか言って」
往人が嘆息した。
「柳也さんのおかげで、わたしの呪いと、それに佳乃さんの夢遊病も治ったから……」
観鈴は困ったような、申し訳ないような、そんな顔をする。
「ううん……柳也さんだけじゃない。みんな、がんばったよね」
「ああ」
「一から野球部作って、グラウンドなんてないから砂浜で練習して……」
「部員集めも苦労したな。集まった奴らの大半が高校生じゃなかったが」
それでよく甲子園に出られたと思う。
「みちるちゃんと神奈ちゃんなんか、まだ子供なのに……」
「あいつらはまだいい。飛び級したと言っておけばとりあえず高校生として通る。問題は、聖だ。あいつが一番厄介だった」
ちなみに霧島聖は二十歳を完璧に越えている。
「聖さんも、佳乃さんのために必死だったんだよ……」
「まあ、ヤツの制服姿を拝まなかっただけマシか」
もし本人の前で言おうものなら、メスで八つ裂きにされるだろう。
「裏葉さんは生徒じゃないのを自重して大会に出場しなかったけど……」
「というか、あいつはいったい何歳なんだ?」
「にはは……。でも、今は部員が足りないから」
神奈の説得(わがまま?)で、裏葉も今はユニフォームに袖を通していた。
「一時期はポテトも部員だったくらいだからな」
「お母さんもなんだかんだで監督続けてるよね。最初はあんなに嫌がってたのに」
「まあ、それも済んだことだ」
「……うん」
「…………」
「……ごめんね、往人さん」観鈴はすこし迷って、ぽつりと言う。「わたしなんかのために」
「違う。俺は野球少年なんだ。だから甲子園を目指しただけだ」
「……うん、ありがと」
ポテトがぴこっと鳴いた。往人の足に擦り寄ってきて、たちまち蹴飛ばされた。
観鈴の非難の視線に気づいたのか、往人は「あー」やら「そのー」やらよくわからない言葉をいくつか吐いて、
「……おまえ、今、楽しいか?」
「うん」
「おまえ、野球、やりたいか?」
「うん!」
「……そうか」
観鈴は往人の腕にしがみつく。ぎゅうっと強く胸に抱きしめ、そして――思う。
自分のこの抱きつき癖は、これまで人と接することが許されなかった反動だろうか。これまで抑えていた感情が、湧き水のようにあふれ出た結果だろうか。
きっと、そうなのだろう。
往人さんは、もうやらなくたっていい野球をまだ続けている。旅に出ないで、わたしたちの町に留まってくれている。
わたしが往人さんの側にいられるようになったのは、きっと、そういうことなんだと思う。
観鈴は、往人の苦虫を噛み潰したような仏頂面を見あげる。往人はちらと自分に横目をやって、すぐに前に戻した。
しがみついていた往人の左腕が、急に持ち上がった。観鈴の両足が地面から離れ、鉄棒みたいにぶら下がる格好になった。
「にはは、おもしろーい……って走っちゃダメ往人さんっ!?」
観鈴の身体が旗のように横に煽られた。ばたばた暴れるとようやくつま先が地面についたが、ずるずるとひきずられる形になっただけだった。
そうして二人の姿は、街並みの向こうに広がる夕焼けの中に溶け込んでいった。
●現時点でのオーダー表 | ||
・スターティングメンバー | ||
ピッチャー | 美坂栞 | |
キャッチャー | ?? | |
ファースト | 天野美汐 | |
セカンド | 沢渡真琴 | |
サード | 北川潤 | |
ショート | 美坂香里 | |
レフト | ?? | |
センター | 水瀬名雪(キャプテン) | |
ライト | 川澄舞 | |
・ベンチ | ||
相沢祐一 | ||
月宮あゆ |