第26話




 香里がグラウンドを訪れてから、小一時間くらい経ったろうか。一向に現れない華音野球同好会と絵亜野球部にいいかげんキレかけていたとき、頭の上からその声は聞こえてきた。

「なにやってんだ、香里?」

 祐一が土手に立っていた。格好は制服姿、通学カバンを手にしているところを見ると、これから特別授業とやらに向かうのだろう。

「おおっ、それ俺らのユニフォームだよな。野球同好会もようやく部活らしくなってきたなあ」

 感慨深げに瞳を細めていた。

「……あんた、よくもまあのこのこと顔を出せたわね」

「試合のことか? 悪かったって」

 そのわりにあまり悪びれていない声で祐一は言って、生い茂る雑草を踏み分けてこちらに近づいてくる。

「……あんた、なんでそんな平気なの?」

「なにが?」

 そ知らぬ顔で答える祐一に、苛立ちが増していく。

「絵亜高校との練習試合、一番楽しみにしてたのはあんたでしょうが」

「ああ、そうだったな」

「…………」

 香里は、祐一の不敵に満ちた横顔を「こいつ正気か?」という目つきで見つめた。

 なんなのよ、こいつは。わけわかんない。あきれを通り越して感心すらしてしまう。

 いきなり絵亜高校との試合を取り付けて、無理やりみんなのやる気を喚起させたかと思ったら、今度はさっさと自分だけボイコット。あたしたちを引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、本人はハイサヨナラ。

 ほんと、なんなのよこいつは。

「そんなに怒るなって」

 祐一がにやにや笑いでこちらを見る。

「怒るわよ。あんたがいなかったら試合できないじゃないの」

「できるさ。しかも俺がいなくなれば、晴れてキャッチャーの座はおまえのものだろ?」

「……あんた、あたしを本気で怒らせたいの?」

 祐一の頬がひくっと引きつった。

「い、いや、だから俺は――」

 常備していたバットの先っぽを祐一の首筋に当てると、祐一はうっとうめいて押し黙る。

 まあこれは、お約束。

 だけど、自分はといえば、肩で息をするくらいに苛立っていた。

 まったく、ムカつくったらありゃしない。

 そして、こんな自分にも腹が立つ。

 思えばこの野球同好会に祐一が入部してからというもの、自分はなぜこんなふうになってしまったのだろう。こいつと夫婦漫才みたいなことやって。こんなのはあたしじゃない、断じて違う。

 あたしはクールなキャラだったはずなのに。

「……冗談だって。俺だってショック受けてんだよ。秋子さんの授業が終わったら、すぐ駆けつけるからさ」

 その祐一の声で、香里はバットをひっこめる。祐一がホッと息を吐き出し、そして、香里も同じように安堵していた。

 ……なんなのよ、これは。なにやってんのよ、あたしは。

 あたしはなにを安心しているんだろう?

 ここで、唐突に香里は思い出した。

 自分が華音高校に入学したとき、野球部は部員数ゼロの廃部同然の状態だった。だからあたしは生徒会に頼みこんで、野球同好会を新たに発足させたのだ。

 べつに、ひとりきりでもいいと思っていた。だけど、頼みもしないのに北川君が入部を希望した。だからとりあえず北川君とふたりで活動を開始しようと思った。

 けっこうな期間、部員はふたりだけだった。面白いとか楽しいとか、つまらないとか、そういうのはなかった。淡々と部活動は続いていた。北川君は、文句も言わずそんなあたしにつきあっていた。

 ――――そう。

 部員を集める気がなかったわけじゃなかったんだ。でも、どうしても集めたいというわけでもなかった。あたしはただ、野球がやりたかった。その環境が欲しかっただけだ。

 そして香里は、ふいに苦笑する。

 まあ、それは、要するに、自分が華音高校に入学した一年後に、同じように入学するはずのあの子のためであって―――

「あ、そうだ」

 祐一がぽんっと手を打った。それで香里の意識が現実にひっぱり戻された。

「俺だけじゃなかった。実はさ、あゆも秋子さんの逆鱗に触れたんだ。授業中にタイヤキ3匹踊り食いしてたらしくて」

「……まさか」

「ああ。あゆも俺と同じ、手取り足取りマンツーマン行きだ」

「…………」

 もう言葉も出なかった。

「まあ、そういうわけだから。俺たちがいない間、みんなのことよろしくな」

「……そういうことはキャプテンに言いなさいよ」

「なら名雪のサポートでも頼むわ」

 軽い口調、だけど、今回はあまり苛立ちはなかった。

「だいたい、7人でどうやって試合しろっていうのよ」

「そいつに関しては、俺に任せとけ。まだ時間はある。9人そろえてやるさ」

「だから、それが信じられないから……」

「信じろ」

「…………」

 くっ、この男は。なんなのよこの態度は。意味もなく自信過剰で、そのくせここぞというときに情けないこの男を、なんであの子――栞は気にかけているのか。

 まったくもって理解不能だ。

「おまえさ、前に言ったよな。詩子と対戦したときだっけか。勝ち負けなんかどうでもいいって。楽しければ後はどうでもいいって」

「…………」

「俺は野球やるのも好きだけど、勝つことも好きなんだ。だから、絵亜高校には必ず勝つ」

「……わがまま」

「なんとでも言え。で、おまえ、なんでここにいるんだ?」

 不意に尋ねてきたそのセリフは、祐一がここを訪れて最初に言ったのと同じような言葉だった。

「今日はしっかり休んどけって言ったろ?」

「……は?」

 なにを言っているんだろう、こいつは。

「今日は試合の日でしょうが」

「……おまえ、寝ぼけてんのか?」

「名雪と一緒にしないでっ」

 と、このとき祐一の表情がいやらしく歪んだ。合点がいったように、うんうんと何度も頷いている。

「いや、おまえも名雪と一緒だ。今朝、名雪が慌ててたんだよな。試合遅れる〜って情けない声出して。しばらく見物してたけど、あれは傑作だったな」

 祐一が横目でこちらを見、にやっと笑って。

「たしかに今日は休日だけどな。でも、休日はもう一日あるだろ?」

「…………」

「おまえ、ちゃんと栞から連絡受けたんじゃないのか?」

「…………」

 そうだ。あたしは栞から練習試合の日取りを聞いたのだ。一週間くらい前だったろうか、詳しい日時が決まったとか嬉しそうに言いながら、次にはたちまち不安そうな顔に変わって、泣きつくようにあの子はあたしに告げたのだ。

 試合は一週間後の土曜日――

「お姉ちゃーんごめーん。試合、明日の日曜だった〜」

 ちょうどよく土手の向こうから栞がぱたぱたと駆けてきた。

 この後、香里の手によって栞がこっぴどく制裁されたのは言うまでもない。








 ところ変わって――――

 休日の学校というのは、夜の学校とうりふたつだと舞は思う。耳に鈍痛を伴うくらいのこの静けさ、心急き立てる閑寂さ。

 川澄舞は華音高校を訪れていた。

 かつかつと響く足音を耳に入れながら長い廊下を歩き進み、ノックもせずに生徒会室に入ると、そこでは倉田佐祐理がソファに座って優雅にお茶していた。

「ひさしぶり、舞」

 視線をこちらに向けるよりも先に、佐祐理が挨拶した。テーブルにことんと湯飲みを置いて、それからようやく顔をあげて自分を見た。

「調子はどう? 練習がんばってるみたいだけど。あまり無理しちゃダメだよ。前みたいに夜更かししないで、今日は早めに寝るんだよ」

「……佐祐理、怒ってないの?」

 つい、尋ねてしまった。だって佐祐理は、自分が野球同好会に入部したのを快く思っていないはずだから。

 自分が野球部を辞めると言ったとき、一番に怒ったのは佐祐理だったから。

 佐祐理の笑顔は、けれどまったく崩れていなかった。

「怒るわけないよ。だって、舞はきっと野球部に戻るって思ってたから」

「……佐祐理は、まだ戻らないの?」

「…………」

「私は、佐祐理にも戻って欲しい」

「あははーっ。ね、舞。そんな話をするために来たんじゃないでしょ?」

 佐祐理はスッと目を伏せて、

「佐祐理に頼みたいことがあるって聞いたけど」

「……ちょっと、祐一に」

「祐一さん? 祐一さんの頼み事なの?」

「……うん」

 短いやり取り、舞は片言しか話していないのだけれど、勘の良い佐祐理はそれだけで自分の言葉を察してくれる。

 今日、佐祐理とこの場所で会う約束をしたのは、大事な用件があったからだ。それは、ぜったいに承諾させなければならない用件なのだ。

 ……なんで口下手の私がこんなこと。

 理不尽ではあったが、佐祐理と事を荒立てないで話し合いができるのも自分だけだと舞は知っていたので、祐一の頼みは特に断りはしなかった。

 でも、やっぱり納得いかない。

「祐一さんとあゆさんの件、だよね?」

「……知ってたの」

「うん、ちょっと小耳に」

 なら話は早い。舞は佐祐理の側まで寄って、ぐっと唇を引き結び、言った。

「二人の代わりに、助っ人を使うことを許可して欲しい。助っ人は同好会の者じゃない。部外者だけど、許して欲しい」

「いいよ」

 佐祐理が柔らかくほほえんだ。あまりに速い承諾だったので、ちょっと驚いた。

「実はね、佐祐理も祐一さんたちにお願いがあったんだよ。ちょうどよかった、これでおあいこだね」

「……おあいこ?」

「うん。佐祐理ね、絵亜野球部にも助っ人を加入させようと思ってたの」

「……?」

 舞が首をかしげると、佐祐理はぽんっと両手を胸の前に合わせて、

「ね、舞。絵亜野球部の部員が今、何人いるか知ってる?」

「……知らない」

「8人だよ」

「……え?」

「絵亜野球部は、試合するのに人数が足りないの」

 佐祐理はやっぱりにこにこと微笑んでいる。楽しそうな感じ。それ以外、佐祐理からは他の感情が窺い知れない。

 舞はどう応じていいかわからなかった。

 そのうちに佐祐理は立ったままだった舞にソファを勧めて、舞はすこし迷った末に従った。舞が腰かけたのを見てから佐祐理がお茶を出してくれた。

 一息ついて、佐祐理の話が再開される。

「ええと、厳密に言うとね。あの夏の甲子園を勝ち抜いた絵亜高校の選手は、今は6人しか残っていないんだよ。南の怪物と呼ばれる国崎往人さん、シャボン玉職人の遠野美凪さん、そして霧島聖さん、みちるさん、神奈さん。最後にキャプテンの柳也さん。ほか三年生は卒業しちゃったんだ」

 舞は納得する。新年度に変わったのだから、それは当然と言えるだろう。

 でも、それなら新入部員だっているはずだ。

 そんな舞の疑問を解したのだろう、佐祐理がすぐに補足をする。

「一時期は9人ちゃんと揃ったらしいんだけどね。でも、ある日突然、キャプテンの柳也さんが音信不通になったの。聞くところによると、柳也さんは飛天御剣流を会得するために武者修行に出たらしいんだけど」

「……は?」

「だから、武者修行に出たの」

「…………」

「あははーっ、舞と剣を交えたらどっちが勝つか見物だったんだけどね」

 佐祐理はころころと楽しげに笑って、

「だから、絵亜野球部の部員は全部で8人。それで、行方不明の柳也さんの代わりとして、強力な助っ人を用意したんだよ」

 佐祐理はソファから立った。舞はゆっくりしてていいよ、と立ち上がりかけた舞を制して、佐祐理は廊下のほうに足を向ける。

「もうそろそろ、この街に絵亜野球部の皆さんが到着する頃だから。佐祐理、ちょっとお迎えにいってくるね」

 ばいばい、と小さく手を振って佐祐理は歩いていく。その姿がこの部屋から消える前に、舞は言葉を投げた。

「……助っ人って、誰なの?」

 訊くと、佐祐理が肩越しに振り向いて舞の顔を眺めた。

 じっと、そのまま、何かを思い巡らせるように佐祐理はそうしていた。

 ふたりの視線はおたがいを絡み取るようにして離れない。

 ふいに佐祐理が言った。

「舞。それは、明日のお楽しみだよ」

 佐祐理は今度こそ舞の前から姿を消した。








●現時点でのオーダー表


・スターティングメンバー

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー ??
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード 北川潤
ショート 美坂香里
レフト ??
センター 水瀬名雪(キャプテン)
ライト 川澄舞

・ベンチ

相沢祐一
月宮あゆ




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