5章  それぞれの明日、交差する時




  第25話




 六月某日――――

 今日は土曜日、学校の授業はない。完全週休二日制を謳歌している学生にとって、土曜は休日と同じである。

 だが、そんな休日に心浮かれることもなく、美坂香里はイライラと腕組みをしながら踵で地面を蹴っていた。

 まったく。今日はいよいよ絵亜高校との練習試合だっていうのに、グラウンドにはまだ誰も到着していないじゃない。ここにはあたしの姿だけ。敵チームの姿すら見当たらない。

 時間を間違った? ううん、そんなはずはない。家を出るときたしかに部屋の時計を確認してきたし、寝坊した栞が寝癖のついた髪を泣きそうな顔で整えていたし(まあ、あたしは栞を置いてさっさと家を出たわけだ)。

 じゃあ場所を間違った? ううん、そんなわけはない。試合場はここ、あたしたちがこれまで何度も練習で使用した、河川敷のグラウンドなのだから。聞き間違いなんか、ましてや場所を誤るわけがない。

 香里は盛大にため息をつく。現地集合って話じゃなかったの、みんな? このあたしを待たせるなんていい度胸してるじゃないの。

 こんなふうにぶつぶつ文句を呟く香里の姿は、汚れひとつ無い真っ白な野球のユニフォームで覆われていた。発注したものが昨日、ようやく届いたのだ。

 初めて着るユニフォーム、卸したての匂いがする。この匂い、いい感じ。

 香里は待ちきれず、土手をくだっていった。生い茂った雑草にユニフォームを汚されないよう注意しながら(試合すればすぐに汚れるだろうが、これは気分の問題だ)。そして、まっさらなグラウンドに足を踏み入れる。

 見上げれば、梅雨の時期も何のその、見事に晴れ渡った水色の空が伸び伸びと両腕を広げていた。

 静かだった。休日の午前にはふさわしい空気、修学旅行の前みたいな期待と焦燥が入り混じった、そんな雰囲気がここにはある。

 嵐の前の静けさが、自分らのグラウンドに霜のように降りていた。

 そんな空気を胸いっぱいに吸い込み、香里は思う。

 このユニフォームの胸の部分に施されている『華音』という刺繍を、今日、れっきとした『華音』に変えてみせる。同好会としてではなく、部としての『華音』に。

 この一ヶ月、死に物狂いで練習してきたのだ。その練習を思い浮かべるだけで、身体の奥底から力が漲ってくる。

 だから、大丈夫だ。

 たとえ相手が甲子園の優勝校であろうと、それだけの自信が今の香里には――

「――あるわけないでしょ!!」

 なにものにも遮断されないその大声が、無人のグラウンドに木霊した。

 ……空しい。

 漲ったはずの力がへなへなとしぼんでいく。

 まったく、なんでこんなことになってしまったのか。

 そして香里は、三日前に起こった悪夢の出来事を思い起こしていく。








 授業中、うららかな午後の時間。自分の斜め前に座っている祐一が、隣の席の名雪とひそひそ話をしているのに香里は気づいた。

(もうすぐ試合だね、祐一)

(ああ。ようやくだ。今週末には、あの忌々しい絵亜高校をぶっ潰せるんだ)

 くっくっく、と祐一が低く笑う。

(……祐一、去年のこと思い出してるでしょ)

 去年? 香里は二人の会話に聞き耳を立てながら首をひねる。なんだろう、去年って。

(でも、絵亜高校って強いんだよね)

(そりゃ甲子園で優勝を飾ったチームだからな)

(そんなとこに勝てるのかなあ、わたしたち)

(勝てるのかなあ、じゃない。勝つんだ。これは決定事項だ)

(祐一、自信満々だね)

(どこからその自信がくるんだか)

 と、北川が祐一の後ろからいきなり割り込んだ。

(たく、オレたち弱小野球同好会がどうやったら名門野球部に勝てるんだよ)

(もちろん実力でだ)

(だからどうしてそんなに自信があるんだよ……)

(フッ、北川。そんな弱気なおまえに朗報がある)

 北川の机にだらしなく腕をかけながら、祐一が口の端を吊り上げる。

(おまえ、絵亜高校の去年のメンバーって知ってるか?)

(大会の出場選手か? 知らんけど)

(なら教えてやる。ここだけの話だが、去年の夏の甲子園では、やつらには控えの選手がいなかったんだ)

(ぜんぜんここだけの話じゃないでしょ。全国区で放送されてるんだから)

 たまらず香里も口を出した。

(……香里、授業は?)

(あんたたちがうるさくて集中できないのよっ)

 教壇では先生が何事か話しているが、すでに四人の耳には届いていない。

 まったく、あとで人からノートコピーさせてもらわなくちゃ。そういうの、あたしの本意じゃないのに。

(なあ相沢。控えがいなかったって、じゃあ絵亜高校はスタメン(先発出場選手)だけで試合してたってことか?)

 北川が胡散臭そうな目つきで祐一に詰め寄った。

(ああ。絵亜野球部の部員数は全部で9人だ)

(……マジ?)

(ほぼマジだ。正確には10人だったんだが、遠野美凪って選手は決勝で初めてベンチ入りだったから、実質は9人。つまり今の俺たちと同じだったんだ)

 北川と名雪が、あんぐりと口を開けた。

(よくそれで優勝なんかできたな……)

(テレビでも話題になってたわよ。過疎化の進んだ田舎町の高校が、一躍有名校にのし上がったのもそのせいね)

(そりゃ前代未聞だろうしな……)

(みんな、ケガしないくらい丈夫だったんだね)

(それでも限度があるだろ……)

(まあ、それはいいとして。重要なのはここからだ)

 祐一が改まって他三人をぐるっと見回す。

(部員数が9人きっかりだったのは、去年の夏の時点だ。その中には三年生もいた。その三年生は、今年卒業している。もちろん今は部員であるはずがない。そして、やつらの高校は人口が限りなく少ない田舎町に建っている)

(と、いうことは……)

(ああ。絵亜野球部は部員数が足りていない可能性が高い)

 北川が渋面を作った。

(……さすがにそれはないだろ)

(北川。ついでにもうひとつ教えてやる。やつらは春の選抜大会で、一回戦敗退を喫している。しかも不戦敗だ)

(……部員が足りなかったから?)

(十中八九、間違いない)

 北川と名雪が、またあんぐりと口を開けた。

(でもそれだったら、向こうは練習試合の申し込みなんか受けないでしょ)

(それが、違うんだな)

 ふふんと祐一は得意げに笑って、

(考えてもみろ、なんで甲子園優勝校である絵亜高校が、俺たちみたいな無名の高校と練習試合なんかすると思う?)

(……そういえば)

(理由は簡単。この練習試合を組んだのが佐祐理さんだからだ)

(それがなんで理由になるんだ?)

(佐祐理さんには絵亜高校を動かせる巨大な力があるからだ)

(……なんだそれ)

 祐一はまた、ふふんと笑って。

(金の力ってやつさ。英語で言うとフォースオブマネーだ)

(なんでわざわざ英語なんだよ……)

(まあ聞け。おそらく絵亜高校は倉田財閥から莫大な資金援助を受けている。だから佐祐理さんには逆らえない)

(まあ、過疎化が進んでいるくらいだしね)

(そこで、だ。舞から聞いた話によると、佐祐理さんが俺たちに試合を持ちかけたときは、まだ絵亜高校との練習試合は組まれていなかったんだ。絵亜高校との練習試合が組まれたのは、部の認定を賭けたこの勝負が成り立つよりも後の話なんだよ)

 つまり、と祐一は前置きして。

(もしも絵亜高校が練習試合を拒否すれば、勝負はその時点で俺たちの勝ちになっていたってわけだ)

 一度、場に沈黙が落ちた。教壇からはカリカリとチョークが黒板をこする音が響いているが、やはり四人の耳には届かない。

(ねえ祐一。わたしたちまだ部になってないよね?)

(ああ。だからまだ勝負は続いている。練習試合は行われるってことだ。だが、絵亜野球部は部員数が足りない。絵亜野球部は急いで部員をかき集める必要があった)

(誰でもいいから部員にしたってか? 相手は急造のチームかもしれないと?)

(ビンゴだ。絵亜野球部には素人が潜んでいる。いや、もしかすれば、そのほとんどが素人かもしれない)

 北川がごくりと生唾を飲み込んだ。

(……それは、勝てるかも知れないな)

 北川の両目がメラメラと燃え上がった。自信を取り戻したようだ。

(でもさ、相沢君。もし倉田さんが金にものを言わせてメジャーリーグあたりから選手をひっぱってきたらどうするの? 一日だけ絵亜高校に転入学させるとか)

(…………)

(…………)

 瞬く間に空気が凍りついた。

(どうだ、北川。すこしは自信がついたか?)

(つくわけねえだろ……)

 北川の両目に燃え上がっていた炎が、しおしおと鎮火した。頭のアンテナもへなっと垂れる。

(長々した話だったわりに、完全に時間の無駄だったわね)

(だめだよ。ズルしたらいけないんだよ)

 名雪が綺麗にしめてくれた。

(まあいい。次の作戦だ)

 皆を見回し、祐一がまた口を開いた。

(まだあるのかよ……)

(いや、今回はマジメな話だ)

(じゃあさっきのはマジメじゃなかったんだね)

(まずは諸君、これに目を通してくれたまえ)

 名雪のツッコミをさくっと流し、祐一は自分の机から一枚のルーズリーフを取り出した。それを北川の机に乗せる。

 香里も横から覗き込んだ。そして、その目が点になった。

 これ、もしかして……。

(これはな、俺が今日の昼休みに作ったメンバー表だ)

 そのメンバー表らしきルーズリーフを四人で囲み、食い入るように見つめた。




●華音野球同好会 スターティング・ラインナップ

打順 守備

打席
1番 センター 名雪
2番 ファースト 天野
3番 ショート 香里
4番 キャッチャー 祐一
5番 ライト
6番 セカンド 真琴
7番 サード 北川
8番 レフト あゆ
9番 ピッチャー




●選手のステータス
※能力値はA〜Fの6段階




ミート パワー 走力 肩力 守備力

右投げ右打ち D F E D D
祐一
右投げ右打ち A A A A A
天野
右投げ両打ち
真琴
右投げ右打ち D A C D A
北川
右投げ右打ち C C C B C
香里
右投げ右打ち A C D B B
あゆ
左投げ左打ち F F E F F
名雪
右投げ左打ち E D A E D

右投げ左打ち B B B A D



球速 コントロール スタミナ

右アンダースロー E A E 先発
北川
右オーバースロー B C C リリーフ




(これはな、俺の保有するスキルのひとつ『スキャニング』によって作成されたメンバー表だ。ちなみに表形式は某野球ゲームを参考にした)

(暇人……)

 せっかくの表も一言で片付けられた。

(それと、これはかなり甘い採点だ。俺から言わせればみんなC以下なんだがな)

(わあー。わたしAがひとつあるよ〜)

(ちょっと、なんであんたがオールAで、しかもキャッチャーなのよっ!!)

(オレなんかほぼオールCだぞ……)

(おまえら、俺の話を聞けよ……)

 祐一はとっても悲しそうだ。

(あの……祐一。わたし足しかいいとこないよ……)

(あゆよりはぜんぜんマシだろ)

(むしろこれで月宮さんがレギュラー張ってるほうが不思議ね……)

(あれ。なんで美汐ちゃん、ハテナマークばっかりなの?)

(やつは解析不能だった)

(でもこれ、やけにバランス悪いわね)

(先発の栞ちゃんが、リリーフのオレよりスタミナないしなあ)

(スタミナ温存のために栞の打順を下げたんでしょうけど。なんにしても、個人の能力が一箇所に偏ってるのが元凶ね)

(水瀬なんか特にな)

(ひどいよ……)

(やっぱり問題は外野ね。だいたい、ライトが右投げで、なんでレフトが左投げなのよ)

(センターの肩がこんな弱くていいのか?)

(これでも練習して強くなったのに……)

(ていうかこれは、レフトに飛んだらもうお終いってことなんじゃないか……?)

「だああ!! てめえら文句ばっか言ってんじゃねえ!! これは俺の決めたオーダーなんだ、決定事項、変更不可だ、これがベストなんだよっ!!」

 祐一が椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、机をバシバシ叩いた。

「それで、なにがベストなのかしら、祐一さん」

「そりゃもちろん……」

 祐一が背後に振り返ったところで、その後ろの人物とばったり目があった。

 水瀬秋子がそこに立っていた。

「もちろん、なにかしら。授業中におしゃべりしているのがベストなのかしら、祐一さん?」

 秋子が頬にやんわり手を添えながら、穏やかな微笑を湛えていた。学校の中ではいつもそうであるように、格好は白衣姿だ。

 そう。今の時間は、保健体育の授業なのだった。

「い、いえ、これはですね……」

 祐一の視線が他の三人に移ったときには、みんな知らん顔で黒板の文字をノートに書き写していた。

「きたねっ!!」

 秋子がふう、と吐息をついた。

「祐一さん、最近授業に身が入っていないようですけど。私の授業、おもしろくありませんか?」

「い、いえ。秋子さんの授業はそれはもう野球でたとえるなら完全試合というか……」

「秋子さんじゃなくて水瀬先生でしょ?」

 秋子はゆるゆると首を振って、

「私の教育がいけないのかしら。これはもうマンツーマンで指導するしかないでしょうか……」

 秋子が物憂げに祐一の瞳を覗きこんだ。

「祐一さん。私の指導、受けてくれますか?」

「……水瀬先生。それはつまり保体の授業を一対一ということですか?」

 祐一がかしこまって尋ねた。

「はい、一対一で手取り足取りです」

 祐一が、ラッキーと小さくガッツポーズを取った。

「祐一って年上が好みだったんだ……」

 娘の名雪が悲しそうにつぶやいた。

「それでは祐一さん、次の土日に特別授業を開きますので、この教室に来てくださいね」

「御意のままに」

 即答する祐一に、香里が疲れた顔でため息をついた。

「相沢君。その日は試合でしょうが」

「……そういえば」

「試合?」秋子がきょとんと首をかしげた。「祐一さん、野球同好会に入っているんですよね。野球の試合ですか?」

「あ、はい。だから特別授業はちょっと……かなり残念ですけど」

「わかりました。じゃあ、その日は私も特製ジャムをたくさん作って応援に行きますね」

「つつしんで特別授業を受けさせていただきます」

 そうして華音野球同好会随一の実力者であるはずの祐一は、絵亜高校との試合を前にいち早く脱落したのだった。








●現時点でのオーダー表


・スターティングメンバー

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー ??
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード 北川潤
ショート 美坂香里
レフト 月宮あゆ
センター 水瀬名雪(キャプテン)
ライト 川澄舞

・ベンチ

相沢祐一




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