第23話




 部活動の時間になって、普段通りに祐一たちは野球練習場に集まっている。天気もまた、普段通りに快晴だ。

 それぞれがウォーミングアップを終えてから、祐一は皆を連れてファーストベースへと向かっていく。

「じゃ、オレらは向こうで練習やってるから」

 北川があゆを引き連れ、ファーストベースを越えて外野のほうに歩いていった。今日は2グループに分かれての練習である。

「北川。基礎からちゃんと教えてやってくれ」

「へへっ、オレの華麗な指導技術に酔いな」

「見込みがなかったら即刻クビにしていいから」

「うぐぅ!? ボ、ボクがんばるよっ!!」

「がんばらなくていいぞ」

「……ほんといじわる」

 あゆがどよーんと落ち込んだ。

「お兄ちゃん、ひょっとしてボクのこと嫌い?」

「嫌いだ」

「そのわりにお兄ちゃん、昨夜に寝ぼけてボクのベッドに入ってきた――」

「だああっ!!」

 あゆの口を両手で強引にふさいだ。

「あゆ。おまえは俺のたったひとりの妹だ。嫌いなわけないじゃないか」

 背中を押して外野まで送ってやった。

「……相沢、おまえ」

「北川。今のは忘れてくれ、頼む」

「学食おごり一週間」

「……承知」

 北川にあゆを押し付けて、またみんなのところに戻った。

「祐一さん、幻滅です……」

 栞が涙目で待っていた。

「さて。そろそろ今日の一時間目の授業を始めようと思う」

「祐一、ごまかした」

「相沢君のいつものパターンね」

「バカ祐一〜♪」

「人間として不出来ですね」

 言いたい放題だった。

「とにかく授業開始だ。ちなみに生徒は名雪、おまえだ」

「わたし?」

「ああ。おまえにこれから盗塁というものを教える」

 だからこうして、自分たちはファーストベースに集まっているのだ。

「と、その前に。おまえ、盗塁ってわかるか?」

「それくらいわかるよ。わたし勉強してたもん」

「よしよし、偉いぞ」

「……わたし、バカにされてる?」

「それほどでもない」

「どんな答えだよ……」

 名雪が口をとがらせて「わたしキャプテンなのに……」と呟いていた。いちおう自覚はあったようだ。

「じゃあ名雪。盗塁に必要なものがなんだかわかるか?」

 名雪が目をぱちくりさせた。

「えっと……足が速いこと」

「正解。でも、それだけじゃない。他には?」

「うーんと……ヒット打って塁に出ること」

 そりゃそうだが。

「まあ、とりあえず実践してみてからにするか」

 祐一が合図すると、栞はマウンドに、真琴がセカンド、キャッチャーズボックスには香里がついた。

「祐一さんのバカバカバカ……」

 マウンドからは栞の独り言が聞こえてきていた。栞の周りにだけ暗いオーラが漂っている。

「どうせわたしは野球下手だし知識ないしキャプテン失格だし……」

 栞だけじゃなく、名雪からもどんよりしたオーラが漂っていた。つられて真琴が、なんか練習飽きちゃったーとか言い出し始めた。

「うーむ……」

 なんだか最近、チームのムードが崩れ気味のような気がする。

「原因はすべて相沢さんですけどね」

 天野がフフフと笑いながら言った。

「……俺の思考を読むんじゃない。おまえはエスパーか」

「相沢さんは顔に出やすいんですよ」

 知らなかった。

「まあいいか。それじゃ……プレイ!」

 祐一が号令をかけると、栞は渋々うなずいてセットポジションを取った。天野がベースに足をつけて、グローブを栞に向ける。

 祐一がファールエリアに退避すると、名雪がセカンドに向けて恐々とリードを開始した。脅えた眼差しで栞の挙動を見つめている。

 栞の左足がゆるやかに上がり、その瞬間、栞はくるりと半回転して牽制球を投じた。

「わわ……っ!」

 名雪が慌ててファーストに戻る。難なくセーフ。

「もっとリード広げていいと思いますよ」

 天野が、胸に手を当てて安堵している名雪に言いつつ栞のほうに返球した。

「そうだな。天野の言う通りだ」

「だいいち、水瀬さんの足なら牽制球を投げている隙にスタート切っても問題ないんじゃないかと」

 さすがにそれは問題だと思う。

 名雪が、さっきと同様おそるおそる塁から離れてリードを取り出した。

「名雪、そんなに怖がらなくていいから。もっと気を楽にして」

「う、うん……」

 名雪がほんのちょっぴりリードを大きくした。栞が牽制し、これまた余裕でセーフ。

 まあ、ピッチャーの牽制にかからない幅のリードというのは、身体で覚えるのが一番なのだ。そのうち名雪にもわかってくるだろう。

 栞のほうはと言えば、さっきからおどおどと落ち着きなくファーストランナーの名雪を気にしていた。

「栞、おまえも名雪と同じだ。ランナーを怖がるんじゃない。走られたって、キャッチャーの香里がアウトにしてくれるから」

「は、はい!」

 安心したのだろう、栞の動きに緊張がなくなった。

「名雪、ぜったいアウトになるなよ。栞の球は遅いし、盗塁なんか楽勝だ」

「ゆ、祐一さん、どっちの味方なんですかぁ……」

 栞が泣きそうな顔をする。せっかく取れた緊張も台無しになっていた。

 とはいえ、栞が盗塁を決められやすい投手であるのは事実だ。アンダースローの投手は、上から投げる普通の投手よりも投球モーションが大きいし、それに加えて、栞の投げるボールは直球であっても遅い。

 だから、栞をエースに据えた華音野球同好会が相手チームの盗塁を阻止できるかどうかは、セカンドに送球するキャッチャーの肩にかかる比重が非常に大きいのだ。

 まあ、キャッチャーの香里に関しては口出し無用だろうけど。

 栞は目線で名雪を牽制しつつ、素早く投球動作に入って第一球を投げた。

「わ、わわ……っ!」

 名雪が急いでスタートを切った。だが、牽制に脅えていた名雪の動きはぎこちない。出足につまずいていた。

 栞の直球が香里の構えたキャッチャーミットに収まった。香里はテークバックと同時に腰を浮かせ、セカンドに向かって送球する。しゃがみ込んだ栞の頭上をボールが鋭く突き抜けていく。

「ふっふーん、名雪アウト〜♪」

 セカンドベースカバーに入った真琴が、遅れてやって来た名雪に楽々とタッチしていた。

「……うー」

 名雪がとぼとぼとファーストに戻ってきた。

「もう一度聞くぞ、名雪。盗塁に必要なものとはなんだ?」

 暗い顔をしていた名雪は、やがて何かに気づいたのか「あっ」と口を丸くした。

「もしかしてスタート切ること?」

「ああ、大正解」

 盗塁において、足の速さはもちろん重要であるが、スタートのタイミングが良ければたとえ足が遅くても二塁は落とせるのだ。

「それと、一番重要なのはアウトを恐れない勇気だ。不安がってたら上手くリードは取れないし、いいスタートも切れない。プロの選手だって盗塁失敗はざらなんだ。だからおまえは、もっと堂々としてればいい」

「うん、わかった」

 名雪がにこっと笑った。ふたたびリードを取りながら、セットポジションを取る栞を穴が開くほどに観察する。

「…………」

「…………」

 緊張感漂う空気が、栞と名雪、ふたりの間を支配した。

 と、栞がすばやく牽制球を繰り出した。名雪はリードの幅を調整しようと、ちょうど足をセカンド方向に踏み出したところだった。

「うわわ……っ!」

「名雪! そのまま走れ!」

 一瞬ためらった後、名雪はセカンドに向けて地を蹴った。名雪の足は瞬く間にトップスピードに乗る。元スプリンターの瞬発力は伊達じゃない。

「真琴ちゃん、ベースカバー!」

「あぅ?」

「名雪さんが走ってるの!」

「あぅ!?」

 栞の指示で、ぽけっとしていた真琴がようやくセカンドに入った。それを見た天野がセカンドへと送球するが、そのときには名雪の姿はベース上にあった。

「真琴、今度はセーフだね」

「あぅ……」

 名雪が肩を落とす真琴に勝ち誇っていた。

「水瀬さん、いい自信になったんじゃないですか?」

「そうだな」

 代わりに真琴の集中力のなさが浮き彫りになったが。

「ただ、盗塁技術はそう簡単に会得できるものではありませんよ」

「ああ。わかってる」

 試合までは残り一ヶ月もない。名雪は野球に関してはまだ素人同然、相手投手のフォームを盗む技術を養うには短すぎる期間だ。

「まあ、それならそれで方法はあるさ」

「なにか策でも?」

「まあな」

 それぞれがまた位置につく。みんなの足取りは軽い。さっきまでの暗いムードはどこへやら、そこには練習に対する熱意が感じられた。

「名雪。ちょっと」

「なに?」

 祐一は名雪に耳打ちし、グラウンドを横切ってサードのほうへ歩いていった。

「祐一さん、どこいくんですか?」

「ちょっとな」

 祐一はそのままコーチズボックス(三塁コーチの立つ場所)の中に入っていった。プレイの合図をして、名雪がリードを取り始める。

「ほら、栞。ぼさっとするなって」

「は、はあ……」

 栞がセットポジションを取り、しばらく経って牽制球を投げた。と、今度は名雪がスムーズにファーストに戻る。

「……あれ」

 栞が首をひねりながら、今度はすばやくモーションに入って投球した。

 名雪はやはりスムーズにスタートを切って、盗塁を成功させた。香里が送球をためらうほどの余裕のセーフだった。

「やったよ祐一〜」

 名雪がベースの上でガッツポーズを取っていた。

「うむ、さすがは名雪。栞の投球フォームを完璧に盗んだな」

「……そ、そんなぁ」

 栞がマウンドでガックリした。

「ううう、私のフォームが素人にあっさり……」

 栞が失礼な言い草をしてスネだした。

「相沢君が名雪に合図送ってたのよ」

 香里が栞に返球しながら、祐一に向かって感心したような呆れたような視線を投げた。

 香里の言った通り、祐一は名雪の代わりに栞のモーションを見破り、合図を送っていた。ファーストに戻るのか、セカンドに向けて走るのかを。

 もちろん合図を送っている分、そこにはタイムラグが生じるわけだが、スプリンターとして鍛えた名雪の反応速度はそれをほとんど感じさせなかった。まさに名雪だからこその策だと言える。

「しかし、よくわかったな」

「あんたの動き、不自然だったからね。本番で使うんだったら、もっとバレないようにしないと」

 ごもっとも。そのへんは、まあ、名雪ともっと打ち合わせが必要だろう。

「祐一さん、やっぱり名雪さんの味方なんですね……」

 栞が地面に指で「馬鹿馬鹿馬鹿」とわざわざ漢字で書いていた。

「うぐぅ!? どいてどいて〜!!」

「おわあっ!?」

 外野のほうでは、北川とあゆがどんな練習をすればそうなるのか、見事に正面衝突していた。

 今日の練習は一段と活気があるなあ。あゆの悲鳴を聞きながら、そんなことを思った。








「あはっ。なんかおもしろい練習してるね☆」

 土手の斜面の草むらにだらしなく寝そべりながら、柚木詩子はひとりケラケラと笑っていた。

「紅白戦でもやってたらもっとおもしろかったんだけどなーって言ってもできるほど部員いないか〜あっはは、残念無念また来週〜☆」

「……あなた、なんでここにいるの」

 土手の上には長身の影、見れば、舞がムスッとして詩子の頭を見下ろしている。

「ちょっとね。暇だったから」

「……帰って」

「やだもーん☆」

 詩子は投げ出していた両足を胸の位置まで持っていって、よっと一声かけ、バネ仕掛けのおもちゃのように勢いよく立ち上がった。

「だいたい、舞さんにそんなこと言われる筋合いないし。舞さん、もう部員じゃないし」

 無表情に立つ舞に流し目を送って、

「華音野球部、なくなったんだもんね」

 そしてまた詩子は、グラウンドに視線を戻した。

 この場所に茜の姿はない。グラウンドの練習風景を遠望しているのは、詩子と舞のふたりだけ。

 それだけで、詩子にはこの場所がいやに寂しく感じられる。

「そうだよね。仕方ないよね。中学生だったあたしたちと練習試合やって、ノーヒットノーラン食らったんだもん。笑っちゃうよね」

 その語りが終わる頃には、詩子の表情は完全に消えていた。

 こんなふうに、せわしなく入れ代わっていた詩子の表情が急になくなると、それは舞の無表情よりも数段冷たく感じるだろう。

 風が、詩子のバッテンの髪留めから伸びる長髪を静かに揺らせた。

「でもさ。たかがそれくらいで部員みんな辞めちゃうなんて、華音野球部もそれまでだったってことじゃない?」

「…………」

「それとも、ちょっとは手抜いたほうがよかった?」

 詩子が不意に左手でピストルの形を作り、ちらっと舞に向け、それから祐一たちの集まるグラウンドのほうに銃口を押しやった。

 バーン、と撃った。

「そこらへん、今の同好会はどうなんだろうね☆」

 詩子はゆっくりと足を前に出し、舞をひとり残してグラウンドに降りていった。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)
?? 月宮あゆ

部員数8人




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