第22話




 最近、雨が降らない。晴ればっかり。もう一ヶ月くらいこの初夏のような陽気が続いているんじゃないかと思う。

 頭上を振り仰ぐと、今日もまたたくさんの星たちが私を尊大に見下ろしていた。

 まだ梅雨の時期ではないにしろ、この気候はちょっと問題だ。だって雨が降らないと、困る人たちが大勢いる。

 たとえば、農作業をしている人とか。傘を売っている人とか。人気のない空き地で傘を差して誰とも知れない人を待っている人とか……って、誰、それ?

 ええと、あとは。犬さんとか。きっとすごく喉が渇いている。かわいそう。そういえば、最近、野犬も出ない。ちょっと寂しい。友達になりたかったのに。

 あ……でも。私は上向かせていた視線を降ろして、ほんの少しだけ笑った。

 そうだった。佐祐理がいなきゃ、犬さんとは友達になれない。佐祐理のお弁当が必要だった。私ひとりだけだと、手に噛みつかれて逃げられるのが落ちだ。

「…………」

 こんな思考に後悔した。私は軽く息をつく。私は、佐祐理を巻き込みたくなかったはずだ。だというのに、今、自分はいったいなにを考えているのか。

 滑稽だと感じる。

 それでも私は、まだ、思い巡らせている。

 佐祐理、今頃どうしてるかな。忙しいのはわかるけど、はやく帰ってきて欲しい。この広い場所でひとりきりなのは寂しい。

 たったひとりでいつ来るとも知れない人を待っているだけなのは寂しい。

 ああ……そうか。私は唐突に思い知る。傘を差して誰とも知れない人を待っている人――そんな人が本当にいるのかはわからないけれど、すくなくとも似たような人はここにいた。

 私――川澄舞が、いた。

 その人とは逆に、私は、雨が降らないからこの場所に立っている。もし雨が降ったら、この場所で待ち続けなくたっていいだろうに。

 晴ればっかりは、だから、問題だ。

 そうして舞は、今日もまた夜のグラウンドを訪れている。








 祐一は夜のグラウンドに向かっていた。

 目的はもちろん、昨夜の雪辱を晴らすため。今度こそ詩子のボールをスタンドインさせなければ気がすまない。

 くそう……よくも俺の胸を撃ち抜いてくれたな。そのせいであゆが部員になってしまったじゃないか!

 因果関係がぐちゃぐちゃになっている上に夢と現実までごっちゃになっていたが、とにかく祐一は先を急いだ。駆け足で土手の道を突っ切った。

 うずうずする。この緊張感、たまらない。日常の中に埋没して溶けかけていた脳が、徐々に鮮明に形作られていく感じ。

 だから俺は野球がやめられない。

 祐一の視界には、まだ、闇だけしか映っていない。

 そして、前方から近づいてきたグラウンドに明かりが点灯していないことを知って、祐一はなんとも言えない虚脱感に襲われた。

「まだ来てないのか……」

 せっかく今日はバットを持参してきたのに。バットを肩の上でトントンと叩いてから、祐一は土手の上から暗闇に包まれたグラウンドを見渡した。

 あいつら、今日は来ないのだろうか。考えてみれば、彼女らが毎日ここを訪れている保障はなかった。いや、そればかりか、たまたま昨日このグラウンドで勝負をしていただけで、今日は違う場所に赴いているのかもしれない。

 無駄足だったかな。落胆しながら、しかし祐一はグラウンドに降り立っていた。本当に無人なのか、いちおう確認しておきたかった。それに、このまま帰ってしまうのはあまりに寂しいような気がしていた。

 足元に注意して闇の中をさまよった。すると祐一の足が停止した。

 グラウンドの中央にぽつんと立つ人影を認めるまでに、さほど時間は要さなかった。

 祐一は駆け寄った。その人影の側まで。こちらの足音に気づいたのか、相手はバッと身をひるがえすように勢いよく振り返り、それから、その顔に驚きの色を宿した。空に浮かぶ星たちのおかげで、相手の顔くらいは簡単に判別できた。

 驚きといってもそれはわずかばかりの変化で、祐一には相手が表情を動かしたのかさえ判断つかなかったが、その表情に見覚えはあった。

「よっ。また会ったな、舞」

 気さくに声をかけてみる。舞は腰に下げていた剣バットに添えていた手を、時間を置いて外した。そのまま身じろぎひとつしない。

 無表情でただ視線だけをよこしてくるその様子は、傍から見ると怒っているような気がしなくもない。

「呼び捨てはまずかったか?」

 舞の着ている制服のリボンの色は青、昨夜に確認した通り。相手は先輩だ。

「ええと、じゃあ舞さん?」

「……呼び捨てでいい」

 ようやく耳に入れることができたその声で、祐一は安堵した。

「……なに?」

「いや」祐一はにやけていた顔をいくぶん引き締める。「今日も勝負するのかなって」

「……さあ」

 舞が短く答えた。あまり答えになっていないが。

「あいつら、今日は来ないのか?」

「……あいつら?」

「ああ。詩子と茜」

「……誰?」

 コケそうになった。

「い、いや、昨日のやつらだよ。おまえと一打席勝負しただろ」

「……ああ」

 やっと思い出したのか、舞が一度こくんとうなずいた。本当に忘れていたんだろうか。とぼけているようには見えないが。

「で、あいつらは来るのか?」

「……知らない」

 祐一はどっと疲れを感じた。舞の視線は、今はもうこちらに向いていなかった。どことも知れない場所に瞳をやっている。

「あのさ。知らないのに、なんで待ってんだ?」

「……待たなきゃいけないから」

「? なんだそれ」

「……さあ」

 舞がぶっきらぼうに応じる。昨夜も感じたが、舞の言葉はあまりに短い。詩子と対照的だ。

「なあ舞。おまえ、なんであいつらと勝負してるんだ?」

 どうにも気になっていた。それは、昨夜からずっと気にしていたことだった。なんでわざわざ夜のグラウンドなんかで野球をやっているのか。

 舞は、今度は無言を通した。その舞の視線の先は闇、祐一の瞳にはなにも映らない。

「まあ、言いたくないんなら無理に聞かないけど」

 舞の視線が不意にこちらに動き、すぐにまた逸れた。

「……あいつらは、敵。だから討つ」

「敵? 敵って?」

「……野球部の敵」

 祐一は首をひねるばかりだ。野球部って、華音野球部のことか? いや、今は同好会か。そんな祐一の様子を横目で見ながら、舞がぽつぽつと言葉を紡ぐ。

「……昔、華音野球部と戦った。相手はそのとき中学生だった。なのに、華音野球部はこてんぱんにやられた。だから、あいつらは敵」

「……それ、もしかしてさ」

 祐一の頭に、ようやく舞の言葉の意味内容が染みこんできていた。

「野球部が同好会に変わったのと、関係あるのか?」

 今の野球同好会は、もとはちゃんとした部だったと聞いたことがあった。だからこそ野球同好会は、部じゃなくなってからも高野連(高校野球連盟)に登録されていて、地区大会の参加資格を得ているのだ。

「詩子たちが野球部を潰したっていうのか?」

「……それは違う」舞は目線をついと下に降ろしてから、「部が潰れたのは、部員がいなくなったから。それだけ」

「おまえ、もとは野球部だったのか?」

「……祐一には関係ない」

 祐一は大きく息をつく。辺りがしんと静かになって、いつの間にか自分の声が大きくなっていたことに気づいた。

「じゃあ、もう一回聞くけど」さっきから聞いてばかりだな。苦笑する。「おまえ、なんで詩子たちと戦うんだ?」

「……敵だから」

 祐一は眉間を抑えた。

「なあ。俺にもわかるようにちゃんと説明してくれ」

「……あなたには関係ないから」

 祐一は苛立ちを抑え切れなくなった。舞のそのセリフは、昨夜に詩子と茜の二人にも言われた言葉なのだ。

 けっきょくは、そこに行き着くのか。俺は部外者扱いか。

 舞の細めた瞳から伸びる眼差しが、今は自分のほうに向いていたことに気づいた。

「……私、口下手だから。あとは佐祐理に聞いて」

 その名前に、祐一はすぐには反応できなかったが、「倉田佐祐理。私の友達」という舞の言葉で思い出した。

「知り合いなのか、佐祐理さんと」

「友達って言った」

 意外だった。二人が仲良くしている姿はあまり想像できない。性格的に正反対だと思ったから。

 いや――だからこそ、友達なのかもしれない。

「で、いつまでこうして待ってるんだ?」

「……さあ」

 祐一はため息をついた。もう何度目か知れない。

「暇じゃないか?」

 舞はわずかに目を瞬かせて、悩んだようにすこし首を横に傾けた。

「……ちょっと暇」

「よし」

 祐一は持参していたバットを置いて、代わりにグローブをはめ込んだ。

「俺とキャッチボールでもするか?」

「……やってもいい」

 祐一が後ろに下がったのに合わせて、舞もグローブをつけた(剣バットは腰にぶら下がったままだが)。右利き用のグローブだ。

 山なりに放ったボールを舞が無造作に受け取り、こちらに向かって投げた。

「……おわっ!」

 とんでもない勢いでボールが突き進み、祐一のグローブを弾き飛ばした。

「お、おまえ、加減しろよっ!!」

「……ごめん」

 すまなそうな顔をしていた。

 じんじんと痺れを伝える左手に顔をしかめながら、祐一はまたボールを放った。舞が受け取って、ゆっくりと、今度は慎重にボールを返した。

 ボールは祐一の頭上遥かを越え、闇の彼方にすっ飛んでいった。キラッと輝いて星になって消えた。

「……おまえ、ふざけてんのか」

「……今日は調子が悪い」

 そんなレベルじゃないと思うが。

 もう一度キャッチボールを行ったが、一往復もできずにボールは消えてなくなった。

「……祐一がちゃんと取らないのが悪い」

 ついに責任転嫁しやがった。

「おまえ、下手くそだな」

「……そんなことない」

「打撃はすごいのにな」

「……私は打撃も守備もすごい」

 だったら、と祐一は自然と口にしていた。

「おまえ、野球同好会に入るか?」

「…………」

 ようやくキャッチボールがまともになってきた。ぱすん、ぱすん、とキャッチボールの音だけが殺風景なグラウンドに響いている。

 けっきょく、今夜は、詩子たちは現れなかった。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)
?? 月宮あゆ

部員数8人




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