第21話
放課後。グラウンドは無人だった。まだ祐一以外、誰も到着していない。
なんで俺がいつも一番乗りなんだろう……。特に急いでいるわけでもないというのに。遅いぞ、みんな。気合が足りんぞ、気合が。
それは単に、自分が皆と違って部室から野球道具を運び出していないぶん早く到着しているだけなのだが、そんな事情は思いもよらず祐一はグラウンドに降りていく。
途中、ふと祐一は土手に振り返った。そこにはどでかい看板が立っている。さゆスタ建設予定地と書かれた看板だ。
このネーミングは考え直すべきだろ……たとえば華音球場とか。ありきたりだけど。どうでもいいことを悩みながら、祐一は一直線にベンチのほうへと向かった。
さっきからずっと頭の中がぬるま湯に浸かったようになっていて、思考が正常に稼動していなかった。
「ふあぁ。ねむ……」
昨日はけっきょく帰りが遅く、睡眠時間が大幅に削られていた。詩子との対戦を終えて、すぐに学校に直行して忘れ物の授業ノートを取り、自宅に舞い戻ったが、夜はかなり更けていたのだ。
当然、名雪はすでに寝ていた。今日の朝一番に、毎度のようにイチゴサンデーをおごる約束をさせられた。
くそう……今月ピンチなのに。
祐一は大あくびをしながらベンチに寝転がった。今日の授業はほぼ熟睡だったのに、なんでまだこんなに眠いんだろう。必死に目を瞬かせる。
これから部活なのだ、おちおち寝ていられない。早く来てくれ、みんな。このままだと睡魔に屈してしまう、敵は強大だ、ああ、腹減ったな。部活終わったら名雪とイチゴサンデー食いに行くかな、おごる約束もあるし、でも金欠……。
次第に霧がかかっていく頭の中で、ぽつぽつと取りとめのない思考が浮かんでは消えていく。
……また、あいつらに会えるかな。
ふと、思った。川澄舞。奇妙なバットを持った、無愛想なやつ。
里村茜。同じく奇妙なバットを持った、これまた無愛想なやつ。
そして、柚木詩子。騒がしくてせわしなくて、ケラケラ笑ったり、急にマジメになったり、そんな変なやつ。信じられないくらい強かった。俺を手玉に取ってくれた。
また、会いたいな。
今夜もこのグラウンドに出向いてみるかな……。
そうして祐一は重くなってきた瞼を閉じ、三秒にも満たない間に意識を沈ませていった。
『えっへへ。あたしの拳銃は二丁あるんだよん☆』
『ふん、キサマのボールはすでに見切った。拳銃でもなんでもいいからとっとと投げ……ってその手にあるものはなんだ!?』
『米軍から裏ルートで調達してきたコルトガバメントだよん。さ、勝負勝負☆』
『待て待て!! ジャイロボールはどこ行った!?』
『あたしの拳銃は三丁あるんだよん☆』
『そりゃほんまもんの拳銃だろ!?』
『平気平気。祐一君ならきっとホームラン打ってくれるって信じてるから(はぁと)』
『できるかっ!! ていうか最後の(はぁと)はなんだ!?」
150キロを遥かに越えるスピードで襲いかかる詩子の弾丸を、祐一はフルスイングで見事に打ち返――せるはずもなく、弾丸はストライクゾーンを大きく逸れて祐一の心臓を貫いていた。
ぐあ……。く、苦しい……む、胸がぁ……。
痛い……だ、誰か……。
助け――――
祐一はぱちっと目を開けた。
ぼんやりした視界の中、頭がいやにくらくらした。どうやら知らず知らずに眠っていたらしい。
祐一は額に手の甲をこすりつけ、べっとりと付着していた汗を拭った。さきほどから心臓がばくばく鳴っている。
なにかとてつもなく恐ろしい夢を見ていた気がする。よくは思い出せないが、まるで銃弾のようなデッドボールを胸に食らったような……と、祐一の視線が下に降りたとき、実際に自分の胸に異常があったことに気づいた。
チェックの模様が見えた。茶色の布地だった。これは……ストール、か? 間違いない、栞がいつもマントのように羽織っているストールだった。毛布代わりに祐一の上半身を覆っていた。
そして更にその上、祐一の胸に誰かの頭が乗っかっていた。
見間違うはずもない、それは栞だった。
「……なんで?」
誰にともなく訊いていた。栞は、腕を枕代わりに祐一の上でスース−と寝息を立てている。膝を地面につけ、祐一の胸の上に上半身を乗せて中腰の格好を取りながら。
しばし呆気に取られる。
なんだろう、この状況は。まるで病人の看病に来た親切な幼なじみがお粥を作った後に気を緩ませてウトウトし出して一緒に寝てしまったような状況だった。
……ここ、グラウンドだよな?
祐一は首だけ動かして横に広がるグラウンドを見た。たしかにここはいつもの野球練習場だった。皆はすでに部活中らしく、キィンという金属音が断続的に響いてきている。ノックをしているようだ。
いいかげん、いつまでもこうしてベンチで寝ているわけにもいかない。
「……おい、栞」
すぐそこにある華奢な肩に手をやって揺さぶると、栞は「うう……ん」と眉をしかめて、けれど起きる素振りを見せなかった。
祐一はもう一度声をかけようとして、
「ゆういち……さん……」
「…………」
その手が宙をさまよった。栞の穏やかな寝顔を見ているうち、起こすことがためらわれた。大罪でも犯すような心地だ。
「どうしろってんだ……」
「栞ちゃーん、祐一起きた〜?」
そのとき遠くから声が飛んできた。祐一は慌てた。こんな状況、もし誰かに見られたら……って、すでに見られているような気もしなくもないが。みんな、すぐ横で部活やってるわけだし。
「あ、祐一起きてるね」
名雪が、後ろでまとめている長髪(部活中はいつもこの髪型だ)を左右に揺らせながら寄ってきていた。
ああ、香里じゃなくてよかった。思わず目尻に涙が浮かぶ。
祐一と目が合うと、名雪はきょとんとして、それから口元に手をやって笑みをこぼした。
「栞ちゃん、練習がんばってたから。疲れて寝ちゃったんだね」
名雪が隣のベンチにちょこんと座った。今日も暑いね〜と手をうちわ代わりにぱたぱたやっている。休憩するらしい。
「……名雪、助けてくれ」
「? なにを?」
「俺の上から栞をどけてくれ」
名雪がにんまり笑った。
「栞ちゃん、気持ちよさそうだね」
「……い、いや、だから助けてくれって」
「? なにを?」
「俺の上から栞を――」
「栞ちゃん、気持ちよさそうだね」
なぜか会話がループしていた。
「……おまえ、遊んでるのか」
「? なにを?」
「…………」
ガスッ!! と栞のつむじに向かってチョップをかました。
「ひあっ!? ななななななにが……」
栞が頭を抑えてパッと起き上がった。とたんに尻餅をついてきょろきょろしたかと思うと、「えぅ……痛いです……」と情けない声を出した。
「祐一最悪……」
名雪が睨んでいた。
「んなことより、さっさと練習するぞ」
「今までサボってたくせに……」
名雪がグローブをつけながら、「だいじょうぶ?」と栞をいたわった。
「え、えと、いったい何が起こったんでしょう……?」
「いきなり打球が飛んできておまえの頭にぶつかったんだ」
「あ、そ、そうなんですか」
栞が頭のてっぺんをさすりながら、納得いかない顔で立ち上がった。ぱんぱんとスカートを払う。その横から注がれる名雪の視線が痛い。
「栞、よだれ垂れてる」
「ええっ!?」
「冗談だ」
「……祐一さん嫌いです」
栞が恨みがましい目でこちらを見あげ、なにか言いたそうにしてから、けっきょく無言で肩を落とした。
祐一は耳の裏をぽりぽり掻いた。
「……ほら、これ」手に持っていたストールを栞に押しつけた。「ありがとうな」
「あ……はい!」
機嫌は直ったようだ。まあ、けっきょく、なんで自分の上で栞が寝ていたのかは聞かなかったけれど。
三人そろってグラウンドを歩いていく。途中、祐一はおやと首をかしげた。だんだんと近づいてくる練習風景に、なにか違和感のようなものを感じた。
「なあ名雪」
「なに?」
「なんだあれは」
練習風景にまったく溶け込んでいない羽リュックが、グラウンドの中央でウロチョロしていた。皆が受けているノックの後ろで球拾いをやっているようだが、そのこぼれ球をさらに自分の足で蹴ってしまったりあらぬ方向に投げ放ったり、忙しそうだった。
「なあ名雪」
「なに?」
「俺にはやつが即席妹のあゆに見えるんだが……」
「正真正銘、あゆちゃんだよ」
やっぱり。
「なんであいつがここに」
「栞ちゃんが勧誘したんだよ」
「えへへ……部員ゲットです」
栞が胸を逸らせてVサインした。
依然、あゆはリュックの羽根をぴこぴこさせながらボールを追いかけていた。ノックを打っていた北川と正面衝突して、北川を遠くまで弾き飛ばしていた。
「なにやってるんだあいつは……」
「練習だよ」
俺には練習を邪魔しているようにしか見えん。
「栞。入部は不許可だ」
「え、な、なんでですか!?」
「やつは百害あって一利なしだ」
ウロチョロしていたあゆが、今度は拾おうとしたボールを蹴り上げて天野に命中――させる寸前で天野が蹴り返していた。サッカーのパス練習そのものだった。
「……名雪。キャプテンの権限でやつをこのグラウンドから排除しろ」
「水瀬キャプテン。あゆさんの入部許可をお願いします」
「了承だよ〜」
あっさりとあゆの入部が決定した。
「待て待て!! あいつはどう考えても戦力外だろ!?」
「そんなことないですよ」
「そんなことないよ」
栞と名雪、ふたり息がピッタリあっていた。
「それに、部員を九人集めないと試合できませんよ」
栞が強く口にする。譲るつもりはないらしい。祐一はコホンと咳をして冷静になり、ふたりにずいっと詰め寄った。
「いいか、状況はすでに変わっているんだ。俺たちはまず戦力アップを計らねばならない。俺たちは絵亜高校と試合して、必ず勝たなきゃならないんだ」
そして、負けたら最後、廃部になるのだ。
「ただ部員を集めるだけじゃ、試合には出られても本末転倒だろ?」
「で、でも……」
「いいか栞、これは遊びじゃないんだ。部員集めはもはや俺たちの運命を握る最重要項目と化したんだっ!!」
拳を振り上げて力説しておく。だが栞は依然、むうーと納得いかない顔でこちらを睨みすえていた。
「なあ名雪。おまえもそう思うだろ?」
しょうがないので賛同者を募る作戦に移行してみる。
「わたしはあゆちゃんの入部に賛成だよ〜」
作戦はいとも簡単に失敗した。
「い、いや、名雪。落ち着いて考えてみろ。あゆのあの練習を見てもまだそんなことが言えるのか?」
あゆが突然なんでもないところでつまずいて、側に立っていた真琴を巻き込みながらグラウンドをボーリング球のごとくころころ転がった。
「名雪。チームを担うキャプテンとしてのおまえに問う。やつが戦力になると思うか?」
「水瀬キャプテン。あゆさんの試合出場許可をお願いします」
「了承だよ〜」
「…………」
くうっ、これはもしやキャプテンの人選を誤ったか?
「い、いや、待ってくれ。そういやさ、あゆは転入生扱いだったろ? 地区大会に出られないじゃないか」
大会規定として、基本的に転入学生は満一年が経たないと参加資格がもらえない。ただ、やむを得ない理由がある場合にはその限りではない。祐一の場合は家庭の事情による転入なので、参加資格は得ている。
「だからさ、あゆが入部しても意味ないだろ?」
「だいじょうぶだよ。大会規定くらい、お母さんがなんとかしてくれるから」
「…………」
これ以上ないくらいの説得力があった。
「ほらほら見て、お兄ちゃん! ボクやっとボール拾えたよ!!」
あゆがグローブに納めたボールを高々と掲げて小走りに寄ってきたので、ぽかっと殴った。
「うぐぅ……なんでそうなるの」
「無性に腹が立った」
「祐一さんひどい……」
「祐一最悪……」
三人に睨まれた。踏んだり蹴ったりだった。
「あら、相沢君。やっと起きたの」
いつの間にやら香里が側に立っていた。栞から祐一へと目を転じ、じと目を作った。
「まだ寝てても良かったのに」
そう言う割りに声がとても怖かった。
「な、なあ香里。おまえもあゆの入部に賛成なのか?」
切羽詰まって言うと、香里は横で懇願の眼差しを送る栞をちらっと見、次にニコニコ顔の名雪を見た。
「キャプテンの意向には沿わないとね」
祐一はがっくりとうな垂れた。
「ねえ相沢君。勝てない喧嘩は買わないのよね?」
意地悪く、そう言った。
●現時点でのオーダー表 | ||
ピッチャー | 美坂栞 | |
キャッチャー | 相沢祐一 | |
ファースト | 天野美汐 | |
セカンド | 沢渡真琴 | |
サード(ピッチャー) | 北川潤 | |
ショート(キャッチャー) | 美坂香里 | |
外野全部 | 水瀬名雪(キャプテン) | |
?? | 月宮あゆ | |
部員数8人 |