4章  忍び寄る影、もうひとつの影




  第19話




 満天の星空の下、相沢祐一は土手沿いの道をぶらぶらと歩いていた。

 目的地は華音高校。忘れ物を取りに行かなければならなかった。ついさっき、家でばったり名雪と顔をあわせたときに言われたのだ――貸していた授業のノートを返してくれと。

 授業道具は教室の机に置きっぱなしだった。だからこうして、夜の散歩を敢行するはめになったわけなのだが。

 名雪もあれでけっこうわがままなんだよなあ……。

 元はといえばすべて自分が悪いのだが、そんなのことは棚に上げて校舎へとおもむく途中、

「……ん?」

 前方に明かりが見えた。

 なんだろう? 徐々に近づくにつれ、明かりは暗闇の中にぽっかりと穴を開けたように大きくなり、祐一の瞳に眩しく映る。

 河川敷いっぱいに広がるそれは、どうやらグラウンド――いつもの野球練習場から生まれているようだった。

 誰かがグラウンドを使っているんだろうか。こんな夜更けに、珍しいな。

 祐一は進ませていた足を止め、グラウンドの横に着いたところで、興味津々にグラウンドを見下ろした。

 音が響いていた。バシ、バシ、とボールとグローブがぶつかる小気味よい音だった。瞳を凝らすと、グラウンドに三つの人影を発見できた。

 ひとりはマウンドに登っていて、もうひとりはホームベースについている。今も聞こえてくる小気味よい音は、ふたりが投球練習をしていたからだと知れた。

 そしてもうひとり、ネクストバッターサークルで素振りをしている人影を認めたとき、祐一は口をだらんと開けて惚けてしまった。

 なんだあのバットは……。

 いや、それはバットと形容していいかさえ疑問だった。なぜならそのバットのグリップのところには、鍔(つば)がついていたからだ。

 まるで刀剣のようだった。どう考えてもバットとして規格外だろう。

 どうにも気になってしまい、祐一は忘れ物のことなどすっかり忘れてグラウンドに降り立った。そのまま素振りを眺めていて、次にふたりの投球練習を観察する。

 マウンド上の人影が両腕を持ち上げて大きく胸を反らした。背中から繰り出される左腕がアーチ状にしなり、一気に振り下ろす。左投げのオーバースロー。

 速い球だった。130キロは軽く越えているだろう。しかも、球のキレが良い。祐一は感嘆の息を漏らした。

 キレの良い速球は、当たり前だがキレの悪い速球よりも打ちにくい。打者から見ればその球は、実際のスピードよりも速く感じるだろう。

 だからこの130キロ強の速球は、極端な話、150キロを越える速球に勝るとも劣らないのだ。

「ねえねえ、舞さーん☆」

 夜風に乗って声が流れてきた。女の子の声。

 マウンド上に立つ女の子が、投球を休めて一息ついていた。祐一はそれで、ここにいる三人ともが女だったと、今さらながらに気づいた。

 祐一は信じられない気持ちになった。あんな球を、あの細身の女の子が投げていただって?

「あのさ、今日はあの『あははーっ』って笑う人いないんだね。ひょっとしてあたしたちに怖気づいて逃げちゃったあ?」

 女の子が、素振り中だった子に軽い調子で話しかけていた。

「……佐祐理は用があるから来ない」

「ふーん、あの人ってなんかお嬢さまって感じで偉そうで多忙そうだもんね〜でもそれじゃ審判いないじゃん〜どうすんのもうっ」

 ぺらぺら喋りながらケラケラ笑っていたかと思うとぷりぷり怒っている。せわしない子だ。

「詩子。私がキャッチャーと一緒に審判やりますから」

 キャッチャーマスクを被った子が、淡々と返答した。

「うーんそれしかないか。んじゃ茜よろしく〜あ、そだ、ちょっとはオマケしてストライク取ってね☆」

「嫌です」

「あーんもう茜ってばほんとマジメなんだからっ」

 三人の会話を聞いているうちにそれぞれの名前がわかった。ありがたい。

 祐一は腹を決め、ゆっくりとホームベースに近づいていった。

「おい、詩子さんとやら。俺が審判じゃだめか?」

 三人の動きが止まり、それから一斉に祐一の顔に注目した。詩子はぽかんとして、茜は訝しげな顔をし、そして舞は一瞬だけ目を見開いたが、たちまち元の無表情に戻っていた。

「え、なになに? なにこの人」

 詩子がきょろきょろと茜と舞を交互に見る。だが、どちらも何も反応しない。

「なあ。あんたさ、これから勝負するんだろ? その剣みたいなバット持った子と」

「……邪魔。消えて」

 いきなり舞が寄ってきて、にべもなく言った。

「いや、だからさ」

「はやく消えて」

 とりつく島もなかった。剣もどきのバットを構え、今にも襲いかかってきそうな気配だ。

「ねえねえ、キミ何者?」

 愉快なショーを見物でもする感じで黙っていた詩子が、尋ねてきた。

「相沢祐一だ。で、どうだ? あんたら困ってるんだろ? 俺が審判やってやるって」

「ふーん、その心は?」

「おもしろそうだから」

 すると、詩子が先ほどからころころ変えていた表情を、スッとなくした。これまでの軽い調子はあっという間にどこかへ消し飛び、沈黙がこの空間を支配する。

「……ね、キミ。遊び半分だと怪我するよん☆」

 言ってから、ぱちっとウインクして、そのときには以前までの人を小馬鹿にしたような顔つきに戻っていた。

「ま、申し出はありがたんだけどさ。一般人が判定できるほどやわな球じゃないよあたしのは☆」

 さあ帰った帰った、と詩子が手をひらひら振ってくる。

「……詩子。待ってください」

 今まで静かに立っていた茜が、ふいに割り込んできた。

「あなたの顔、どこかで見たことあります」

 じっと見つめてくる。なにか思い出そうとしているのか、ときおり首を傾げていた。

「気のせいだろ」

「…………」

 茜はしばらく祐一の顔に注目していたが、そのうちに合点がいったのか一度だけ目を伏せて、

「詩子。この人に任せて問題ないと思います」

 くるりと背を向けてホームベースに戻った。ゆっくりと腰を降ろす。

「そっか。茜がそう言うんなら」

 詩子がゆったりと投球動作に入った。指先からうなりを上げてボールが放たれた。ズバン、と茜の構えたキャッチャーミットに突き刺さる。

「審判よろしくね☆」

 お許しが出たらしい。祐一は茜の後ろ、主審の位置についた。舞は依然として祐一を睨んでいたが、諦めたのかまた素振りに戻った。

 すまんな、名雪。ちょっと遅くなるけど、寝ないで待っててくれよな。

「んじゃ一応説明しとくけど。勝負は一打席、三振取ったらあたしの勝ち、ヒット性の当たりを打ったら舞さんの勝ち。それ以外は引き分け。わかった?」

 祐一はうなずこうとして、その前にふと疑問がよぎった。

「引き分けなんかあるのか?」

 というよりも、さっきの条件では引き分けになる可能性が一番高い。

「……勝負はなにも今夜だけではないですから」

 詩子にボールを返しながら、茜が淡白に答えた。

「てことは、明日もやるのか?」

「もうっそんなのどーだっていいでしょキミは審判だけやってればいいのキミには関係ないんだからさ☆」

 詩子がロージンバッグをお手玉みたいに放り投げながら言った。まあ、確かにその通りではある。だが釈然としない。

 舞がちらと祐一を横目で見、しかし口を開くことはなかった。マウンドのほうに視線を移し、「……いい?」と一言だけつぶやく。

「いつでもいいよん☆」

 舞が左のバッターボックスに入ったのを確認し、祐一は号令を発した。

「プレイ!」

 舞がバット(鍔はついたままだ。反則だと思うんだが……ていうか、打ち辛くないか?)を構えた。

 左対左の一打席勝負。

 舞の構えは、右足をライト方向に開いたオープンスタンスだった。一般に左投手の投げる球は左打者には打ちにくいので、球筋を見切るためにこの構えは妥当だろう。

 詩子が振りかぶった。足のつま先を高く上げ、大きく踏み出すダイナミックなフォームから、第一球を投じた。

 球速は130キロ、いや、審判の位置から見るその球は思った以上に速く感じる。コースは内角真ん中――

 ――――え?

 ボールが鋭く、急激に伸び上がった。茜がミットを構える『内角高め』のコースに、重音を轟かせて叩き込まれた。

「ま、こんなもんかな☆」

 詩子の明るい声を聞きつつ、祐一は茫然とした。

 なんだ、今のストレートは……。打者の手前でホップしたように見えた。まるで栞のライズボールのような……いや、それともちょっと違う、異質な軌道を描いていた。

 一般に言うライズボールとは、強烈なバックスピンをかけることで、下から上に浮き上がらせるソフトボールには欠かせない決め球のことである。だから栞のライズボールは、下手投げだからこそ可能になるのだ。

 なのに詩子の球は上手投げにもかかわらず、通常のストレート、そしてライズボールとも明らかに異なっていた。

「判定は?」

 黙りこくっていた祐一に見かねたのか、茜が振り返って催促してきた。

「……ストライク」

 茜は無表情にまた詩子のほうに向き直り、悠々と返球した。

「えっへへ。キミ、審判合格ね☆」

 ぱちぱちと二回ウインクして、詩子がふたたび投球モーションに移行した。祐一は注意深くその動作を見つめる。

 大胆な投球フォームから、左腕が伸び――そして、上腕を中心に鋭く腕が回旋したように祐一には見えた。

 二球目。外角高めに、今度はわずかにストライクゾーンから外れた。

「ボール!」

「むむ〜キミ審判失格っ」

 詩子が地団太を踏むようにマウンドの土を慣らし始めた。

「いえ、判定は正確です」

 そう告げる茜に、祐一は感心しながら声をかけた。

「あんたの相棒、おもしろい球投げるんだな。さすがの俺も驚いた」

 茜がこちらに首を回した。どういうこと? とその瞳が語っている。

「あの詩子さんとやらが投げてるのは、弾丸回転のボール――『ジャイロボール』だろ」

 茜は答えず、しばらく祐一のにやけた顔を見上げていたが、そのうちにマウンドのほうに視線を戻した。

 ジャイロボールとは、進行方向とちょうど対称面を軸とした回転、つまり弾丸回転をボールに与える直球のことである。それにより空気抵抗が大幅に減り、揚力を生んだボールはあたかも浮き上がったように打者からは見える。

「ふーん。あたしのボール、二球見ただけでわかっちゃうんだ。キミすごいんだね☆」

 詩子は言いながらぶんぶんと肩を回し、はやくも次の投球を開始していた。

 ボール、ストライク、とカウントが増え、これでツーストライクツーボール。それらすべてが直球、変化球は投げていない。

 一方、舞は一度もバットを振っていなかった。ただ黙々と睨みつけるように相手に鋭い眼光を飛ばしている。

「おおっとバッター、詩子投手の投げるボールに手も足も出ないようです〜ついに因縁の対決に終止符が打たれるのか☆」

 詩子が自分で実況しながらふりかぶった。おそらくこれもストレート、すべてジャイロボールで抑えるつもりなのだろう。

 呆れるほどの自信、そして、それだけの力が詩子のボールにはあった。

 銃弾のように空気を突き抜ける詩子の速球が、舞の背中側からえぐりこむように内角ストライクゾーンめがけて襲いかかる。

 舞がついに動いた。右足を外に踏み出し、肘をコンパクトにたたみ込み、迎え入れるように鍔付きバットを繰り出し――

 キイィン!! とバットが白球を捉え、快音が響き渡った。ライナー性の打球がライトの横のネットに突き刺さる。

「ファール!」

 舞がふうとかすかに息を漏らし、また静かにバットを構えなおした。

 祐一は感嘆してしまう。あのボールを簡単に当てるのか。打者もまた投手に負けてないってことか。

 打球を目で追っていた詩子は、

「やっぱそうこなくっちゃね☆」

 嬉しそうに笑って、祐一が投げた替えのボールを受け取った。

 祐一はうずうずしていた。俺は運がいい、まさかこんなところでこんな勝負が拝めるなんて。

 いや、違うな。見ているだけなんてもったいない。

 祐一は拳を固く握り締める。俺も打ちたい。勝負したい。彼女の投げるあのボールをスタンドまでかっ飛ばしたら、どんなに気分が良いことか!!

 そしてその祐一の希望は、どうやら、天に届いたようだった。

「……デ、デッドボール!」

 詩子の速球が、舞の右手首を強襲していた。バットが手からこぼれ落ち、舞が苦悶の表情で手首を抑えてしゃがみ込んだ。

 茜がすぐに冷却スプレーを持ってきて、舞の手首にかけた。当てた本人は「ありゃりゃ。ごめんね〜」とぺろっと舌を出している。

「……はあ。詩子の悪い癖ですね。調子に乗るとコントロールが乱れるんです」

 そういうことらしかった。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)

部員数7人




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