第18話




 次の日の放課後になると、河川敷のグラウンドは昨日までの工事現場の様相がまるで嘘のように綺麗さっぱりになっていた。

 祐一は左手にはめたグローブに右手でボールをぱすんぱすんと放り込みながら、静寂に支配されたグラウンドの中心に立っている。

 絵亜高校と試合するにあたり、こうやってこれからの練習プランを練っていたのだった。

「あまり時間はないからな……」

 試合は一ヵ月後。それは、はっきり言って今のチームの現状では短すぎる期間なのだが、その事情は最初から納得済みでもあった。絵亜高校との練習試合を終えたら終えたで、すぐに甲子園出場をかけた地区予選が始まるのだから。

 つまり絵亜高校との試合は本番前の格好の実践練習になるというわけである。ただ、相手はとんでもない強豪校であり、本番前に自分たちチームが自信喪失する可能性もこの上なく大きかったりもする。

「……くく」

 祐一は口端を吊り上げる。自信喪失? 望むところだ。いや、自分たちには自信喪失する選択肢などないのだ。負けたら最後、同好会は潰され、予選も何もあったもんじゃないのだ。

 俺たちは必ず勝たなければならないんだ。

 だったら逆に、俺たちが絵亜高校のお高くとまった自信を粉々に打ち砕いてやるさ!!

 胸のうちが熱くなってくるのがわかる。まさかこんなに早く去年の夏の雪辱を晴らせる時が来るとは思わなかった。その点だけを取り上げれば、あの「あははーっ」とよく笑う先輩に感謝してもいいかもしれない。

 とにもかくにも、勝つしかない。そのための練習プラン、必勝の作戦を練らなくてはならない。

 とりあえず現在の基本方針は、エース栞を中心にした守りの野球だった。球速の遅い栞のボールでは三振を奪うことは難しい。だから内野を鉄壁にして、打たせて捕る。

 そのためにまず第一にやらなければいけないことは、ノックでもなんでもなく、部員を九人集めることだった。

「いざとなったら本気で名雪に外野をすべて任せるか……」

 それはすでに必勝とはほど遠い作戦だった。

 祐一はひとり黙考を続ける。依然としてこの場所には自分の姿しかない。

「……みんな、遅いな」

 祐一がきょろきょろとあたりに首を巡らせたとき、

「みんなが遅いんじゃなくて、あたしたちのクラスの授業終わるのが早かっただけよ」

 必勝プランを練るのに忙しかったせいか、香里がほんのすぐそこまで近づいていたのに今ようやく気がついた。

「名雪と北川は?」

「支度中」

 香里が短く答えた。それきり、あっさりと会話が途切れた。お互いに口を開こうとしない。

 気まずい雰囲気が二人の間に絶えず流れていた。

 祐一の脳裏に昨日の香里とのやり取りが描かれる。カルチャーセンターからの帰り道でのことだ。

 ……こいつ、まだ怒ってるのか?

 今日は朝から、教室でも香里とは口を利いていなかった。さっき交わした言葉が初めてだったのだ。

「あたし、ベンチに行ってるから」

 そう言って離れていく香里の背中に、祐一はいくぶん躊躇しながら「なあ、香里」と呼びかけた。しかし香里はこちらを見ようとはしなかった。

 祐一はもう一度声をかけた。

「みんなが来るまで、キャッチボールでもするか?」

 香里は立ち止まった。かなり長い時間が経ってから振り向いて、

「べつにいいけど」

 小さな声でそう答えてくれた。

「んじゃ、やるか」

 さっそくボールを放り投げると、香里はギョッとしてから、手に握っていたかおりんバットでボールを天高くかっ飛ばした。

「……あのね。あたしまだグローブつけてないんだけど」

 香里が呆れながらグローブを左手にはめた。ちなみにボールはフェンスを越えてその向こうの川のど真ん中にぽちゃんと落ちていた。

 うーむ、チームのクリーンアップのひとりは決まったな。

 香里とキャッチボールを始める。そういえば香里とこうやって二人きりで練習するのは初めてのような気がする。ちょっと新鮮。

「あの、さ。……すまんな」

 ボールをゆるく投げながら言うと、香里がうろんげな顔をした。

「……なにがよ」

「昨日のこと。言い方が悪かったかな、と」

「……あんた、ほんとバカね」

 香里はあからさまに長く息を吐き出した。

「いつまでも気にしてるわけないでしょ。子供じゃあるまいし」

 香里の返球を受け取る。速いボールだった。

「それに、あんたはあたしよりも先に謝るべき相手がいるでしょ」

「いたっけ」

 答えた途端に香里がボールの代わりにバットを持って振りかぶったので、祐一は慌てて「冗談だ、冗談!!」と手をぶんぶん振った。

「まったく……ほんとに冗談なんでしょうね」

「栞のことだろ。でも俺はなにも悪くな――」

 香里がギロリと睨んできた。祐一はこくこくうなずいておいた。これ以上反抗すると命に関わりそうなので、黙々とキャッチボールを続けていく。

「そういえばさ」

 ややあって、香里が沈黙を破った。

「あたしたち、絵亜高校と試合するんだって?」

「……知ってたのか」

 今日これから、部員みんなの前で発表するつもりだったのだが。

「休み時間に名雪と話してたのが聞こえたから」

 それから香里は疲れたふうに肩をすくめて、

「勝たないと同好会なくなっちゃうのよね」

「まあな」

「よくもまあそんな勝ち目ゼロの勝負受けたわね」

「俺は勝てないケンカは買わない主義だ」

「…………」

 香里が押し黙った。珍獣でも観察する瞳でこちらをしげしげと見つめてくる。

「……あんたが羨ましいわ」

 ボールを放ってくる。山なりのゆるやかな軌道を描くその球を、祐一は受け取る。

「どういう意味だよ」

「言葉通りよ」

 だからその言葉の意味がわからないんだけど。

 祐一が首をひねっていると、そこへ新たにもうひとりの部員が登場した。

「……こんにちは」

 栞が土手からグラウンドに降り、蚊が止まるほど弱々しい声で挨拶してきた。

 さっそく香里が目で合図してきた。ああはいはい、わかったわかりましたよ。

 だが、祐一がなにか言葉をかけるよりも先に、栞がもじもじしながら「あ、あの……祐一さん」と上目遣いで見あげてきた。

「ええと、その……」

 栞はぼそぼそとくぐもった声を出し、いきなりすーはーすーはーと深呼吸してから、

「き、今日も練習、がんばりましょうね!」

 顔をパッとあげ、はにかんだように笑って明るく言った。

「あ、ああ……」

 祐一はこれしか答えられなかった。栞がぱたぱたとベンチに向かっていく。

 遠くから突き刺さる香里の視線がとても痛かった。

「あ、そ、そうだ」祐一はすぐに栞を制する。「ちょっと話があるんだけど」

 栞が顔に「?」を浮かべてUターンしてきた。くそ、謝ればいいんだろ、謝れば。香里の視線を感じながら、祐一は口を必死にこじ開けた。

「いいか。一度しか言わないからな。耳かっぽじってよく聞け」

「あ……はあ」

 栞がきょとんとする。

「ええと、その……なんだ。昨日のことだ」

「……あ、はい」

「おまえにどうしても言わなければならないことがある」

「は、はあ。なんでしょう」

「実はな……」

 祐一はごくりと唾を飲み込んで、意を決して言った。

「なんと――おまえのやりたがっていた試合をすることになった!!」

 香里がこちらを睨みあげながらぶんぶんとかおりんバットで素振りを始めていた。

 なにやってんだ俺は……。自分の情けなさにちょっと涙が滲んだ。

「ゆ、祐一さん!! 本当ですか!?」

 栞が目を真ん丸くして口元を両手で押さえながらぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

「よかったねお姉ちゃん!!」

「…………」

 香里の素振りが止まった。バツが悪そうにそっぽを向いてしまった。

 祐一は安堵した。まあ、栞も喜んでくれたようだし、結果オーライってことで。

 それから、はしゃぐ栞の肩にぽんっと手を置いて、

「わかってると思うが栞、おまえはベンチで応援じゃないぞ。ピッチャーやるんだからな」

「あ……」

 たった今気づいたのか、栞の顔色がみるみる青ざめていった。

「でも、みんなも一緒だ。俺たちみんなで試合やるんだ。おまえの球は、俺か、それか香里が受けるんだ」

 栞がうつむかせていた顔をちょこっとあげた。

「だから安心してマウンドに立て。相手の打者をきりきり舞させてやろうぜ」

 栞が笑った。にっこりと、屈託なく。そんな栞の態度で、自分と、それと香里のことを心から信頼してくれているのがはっきりと理解できた。

 このとき、祐一の胸中に決意の光が灯った。

 試合までのあと一ヶ月、その間におまえを鍛えるよ。おまえを完成させるよ。絵亜高校の並みいる強打者を本当にきりきり舞させることが可能になるまで、おまえの特訓に付き合ってやるよ。

「それで、相手はどこなんですか?」

 栞がうきうきした声で聞いてきたので、祐一は当たり前のように応じる。

「絵亜高校だ」

「へえー、あの甲子園常連の強豪校ですか……って、えええええええぇぇぇぇぇぇ!?」

 栞が真っ青になって卒倒した。

 遠くで、香里の素振りがまた再開されていた。








 静かで冷たく、乾いた空気を呑みこむ広いグラウンドは、人の心を否応なく掻き乱す。

 舞は夜のグラウンドに足を踏み入れた。

 日課といっても問題ないくらいに、舞はこの場所を頻繁に訪れる。『奴ら』と戦うため、そして今度こそ決着をつけるために。

 舞はゆっくりと歩きながら注意深く周囲を観察する。今夜は現れるだろうか。『奴ら』は自分の前に姿をさらすだろうか。

 満月の光に淡く照らされた薄闇溢れるグラウンドに奴らは――――いた。

「ま・い・さーん☆」

 場にそぐわない明るい声音が夜の空気を切り裂いた。

 舞は見た。グラウンドを囲むフェンスの一画に、バッテンの髪留めをつけた女の子が足をぶらぶらさせて座っていた。

 女の子は人を揶揄するような目つきでこちらを眺め、おーいこっちこっちーと馴れ馴れしく呼んでから、ケラケラと笑い声をあげている。

 舞は、ちゃり、と腰に下げた両刃の剣に手を添えた。

「……詩子。あまりバカ笑いしてるとのどちんこ見えますよ」

 そのすぐ脇に泰然として立つ人影があった。

 巨大な三つ編みを左右に垂らした女の子が、呆れ交じりの視線を詩子と呼ばれた女の子に投げている。

「あはっ、のどちんこだってー。茜がイヤラシイ言葉使ってる〜」

 すると、バッテンの髪留めをつけた子――柚木詩子を、巨大三つ編みの子――里村茜が手に携えていたピンク色の傘でぶっ刺した。たちまち詩子がフェンスからずり落ちそうになる。

「うわ、いたっ、なんにすんのよもう茜ったら照れちゃってーかっわいい〜☆」

「……女の子はエレガントに、です」

 茜がまた詩子をぶっ刺した。詩子は恨めしげに、

「いたた……そのセリフってパクリだよ茜ーっていうか傘で刺すのもエレガントな女の子としてどうかと思うよ〜もうっ」

 と口早に言ってぷんぷんに怒りながら、

「ま、いいけどね」

 あっという間に不敵な表情に立ち戻って、舞のほうを見やった。ぴょんとフェンスから飛び降りる。

「ねえねえ、絵亜高校と試合やるんだって?」

 愉快げな口調で持ち出した。

「そこってたしか去年の甲子園優勝校だよね。うっわーめちゃめちゃ強そーじゃん〜そんなとこに勝てるのかなあ弱小華音野球部なんかが」

 身振り手振りを交え、詩子の話は止まらない。

「あ、でも、今はただの同好会なんだっけか。昔の栄光はどこへやらってねーって言っても最初から栄光なんかこれっぽっちもないけどーあっはは、かわいそだね〜茜☆」

 答える代わりに茜はじと目で詩子の顔を見る。詩子が冗談だってば冗談〜とやっぱりケラケラと笑い声を立てる。

「……あなた、なんで」

 舞がぼそりとつぶやいた。詩子は、ちっちっちと顔の前で人差し指を二、三回振って、

「えっへへ。詩子ちゃん情報を甘く見てもらっちゃ困るねえ☆」

 そして、さっきからつかんでいたボールをぴんと指で弾き、人差し指の先でしゅるしゅると回転させた。

 暗闇の中に、その白球はいやに映えて見える。

「……詩子。そろそろ」

 茜の言葉に、詩子は軽く笑んで「ん」とうなずいた。

「んじゃ無駄話もおしまいってことで。いつもの『勝負』といきますか☆」

 そのとき、グラウンドから伸びる照明塔が一斉にカッと点灯した。真っ白な光が膨らんでいく中、三人の影が細く長く、幾重にもなって地に映し出される。

 詩子は人差し指に乗っていた白球を宙に弾き、さらに回転速度の増した白球を手の平に添え、そのまま滑るように舞に向かって投げ放った。

 それに合わせ、舞は腰に下げた両刃の剣――の形をした『金属バット』を引き抜いた。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)

部員数7人




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