第17話




 天野美汐――彼女の行動原理は大きく分けてふたつある。

 ひとつめ。面白いことに反応する。とにかく愉快なことに沿ってみる。彼女の持つたぐい稀なる選球眼――物や人に対する観察眼はそこから培われたと言っても過言ではない。

 ふたつめ。沢渡真琴。彼女の持つ独特な雰囲気――自分が愛した『あの子』と同じ境遇を持つ彼女の行動が、時に天野の行動そのものにもなる。

 天野が特に好きでもない野球をやっているのは、まさにその事情による。

 だって……私が野球同好会に入ったのは、真琴の側に少しでも長くいたかったからなんですから。

「ねえ、真琴」

「あぅ?」

 天野は優しく呼びかける。真琴は大きな瞳をくりくりさせながら天野の顔を見上げる。

 ああ、めっちゃかわいい。

 このまま彼女を家に連れて帰って飼い慣らしたい……じゃなくて一緒に暮らしたいという衝動を心の奥底に無理やりしまいこみながら、天野は言葉を続けた。

「真琴は野球同好会がなくなるの、嫌?」

 それで他のメンバー、祐一と北川と名雪(ついでにあゆ)が真琴のほうに注目した。真琴はあぅーと視線をいろんなところに投げながら悩む素振りを見せていたが、

「うん。嫌」

 にへらっと笑って答えた。

「野球嫌いなわりに練習好きだからな、おまえ」

 祐一が冷やかすと、すかさず真琴が野球なんか嫌いだもん!! と言わんばかりにべーっと舌を出す。

 そんな様子を天野はやっぱり優しい瞳で見つめている。いつもこんなふうな表情をしていたら天野の内面を理解する者もすこしは出てくるのだろうが、もちろんそんなことは本人の知ったことじゃない。

 天野の内面。真琴が好きという気持ち。自分の前からいなくなってしまった『あの子』のことを想い続けるということ。

 それは、実は天野自身の受動的な性格を覆したいという希望から構成されていたりするのだが、彼女がその事実に気づくのはまた別の話である。

「では、参りましょう」

 天野はさっさとクラブハウスの前から離れた。校舎に向けて歩を進める。

 唐突な天野の行動に、皆は反応できずただ見守るだけだった。それでも天野は足を緩める気配を見せない。

「おい、どこ行くんだ?」

 祐一がようやく尋ねた。天野はなにを今さらといった目つきで振り向いて、

「生徒会室に決まってるでしょう」

 そしてまた歩き出す。祐一は一度ため息をつき、ひとりで突っ走るなよと小さく毒づいてからあとに続いた。

「祐一、暴力はだめだよ」

 名雪が心配そうに呼びかける。

「んなことするか」

「うん。あ、それと、これも一応。廃部の理由が書いてあるらしいから」

「わかった」

 名雪と祐一のやり取りを背中で聞きながら、天野はうすく笑みを浮かべていた。

 フフ……まだ野球同好会を潰させるわけにはいかないんですよ、倉田佐祐理さん。だって同好会の皆さんは、私の欲をまだじゅうぶんに満たしてくれていないんですから……。

 祐一を待つこともせず、天野は校舎の中に入っていった。








 生徒会室に向かう途中、祐一は名雪から受け取った封筒の中身を確認していた。

 紙切れが一枚だけぞんざいに入っていたので、とりあえず読んでみる。

「…………」

 祐一は紙切れをくしゃっと丸めてポケットに突っ込んだ。

 廃部の理由というのは、実に簡単なものだった。同好会にやる部室はない、同好会にやる部費はない、これだけ。

「ふざけてんのかっ」

「同好会ふぜいが部室を持っているというのもおこがましい話だと思いますけど」

「……おまえはどっちの味方なんだ」

「真琴の味方です」

 あ、そう。祐一は天野のしれっとした横顔を物珍しく眺める。こいつの思考はいつものことながらよくわからん。

 そうこうしているうちに生徒会室にやって来た。なぜとなく感じる厳かな空気、初めて訪れる場所ということもあって、どうにも緊張してしまう。

 扉の前に立ち、幾度か深呼吸をし、祐一が汗ばむ手の平をぐっと握ってドアをノックしようとしたところで、

「たのもー」

 天野が道場破りみたいなセリフを吐いてさっさとドアを開けていた。

 祐一が額を抑えながら天野に続いて部屋に入ると、奥の長机の席にゆったりと腰かけている生徒の背中が見えた。

 大きな緑色のリボンが髪の大半を隠している。どうやら女の子らしい。

 その女の子は回転式の椅子をくるっと回してこちらに向き直り、

「ようこそお出でくださいました、我が生徒会に」

 ぽん、と両手を合わせてにっこり笑った。上品な物腰、穏やかな仕草、どこかのお嬢さまといった感じ。

 この部屋には、他に誰もいなかった。久瀬(生徒会長らしいが)の姿は見当たらない。ここには彼女ひとりだけだ。

「あなた、倉田佐祐理さんですね」

 そう、天野が小さく応じた。

「……倉田?」祐一は隣に立つ天野に耳打ちし、「倉田って、あの倉田か?」

「はい。すべての元凶である倉田です」

「あははーっ、人を悪魔みたいに言わないでくださいよう」

 女の子(倉田佐祐理という名前らしい)が、困ったように眉尻を下げた。こちらの会話は筒抜けだったらしい、地獄耳なお方だ。

「あんた、生徒会役員か?」

「そうですよ。いちおう副会長やってます。ああ、それと、佐祐理のことは佐祐理と名前で呼んでくださってけっこうですから」

 祐一は相手の制服を見た。リボンの色から三年生、つまり先輩なのだとわかる。下級生の自分に丁寧な口調で話してはいるが、彼女の柔らかい雰囲気がそうさせるのか違和感はなかった。

 だから祐一は普段どおりの調子で話すことができた。

「じゃあ佐祐理さん、いきなりだけど説明してくれ。あんたなに考えてんだ」

 祐一の不躾な口調に佐祐理は気にするふうもなく、「グラウンドの件ですか?」と訊き返した。

「それと、部室の件と廃部の件だ」

「ずいぶんと強引な手を使いましたね」

 祐一に続いて天野がそう言うと、佐祐理が心外だとばかりに口を丸くした。

「でもあのグラウンドはもう佐祐理の物ですし、どう使おうが佐祐理の勝手だと思うんですけど。ちなみに佐祐理スタジアムをモチーフとして、ゆくゆくは『さゆスタ』という名前で野球ゲームを発売したりアニメを放送したり、世界中にメディア展開していくつもりなんですよー」

 嬉しそうに語っていた。

「……ふざけてんのかあんた」

「ふざけてません。佐祐理はいつでも本気です。だいいち、手付かずにグラウンドを遊ばせておくよりもこのほうが生産的でしょう? さゆスタもきっと喜んでますよ」

 佐祐理が小悪魔めいた眼差しをよこしてくる。祐一は息を詰まらせた。口をパクパクさせるだけで、冗談のようなこの展開に頭がついてこなかった。

「あとは部室の件と廃部の件でしたね。野球同好会の部室はテニス部か囲碁部にあげる予定です。最近のブームで部員数がうなぎのぼりですから。廃部の件も同じようなものです。要するに同好会の皆さんに白羽の矢が立ったわけです。簡単に言えば、あなた達は我が校のお荷物なんですよ」

「そのお荷物が、なぜ今まで同好会として部の待遇を受けていたんでしょうね」

 ぽつりと呟いた天野の言葉に、これまで流暢だった佐祐理の語調が滞った。

「まどろっこしいことは嫌いです。さっさとあなたの陰謀を吐けやコラです」

 天野がドスの利いた言葉を丁寧に言った。佐祐理の目元がきついものに変わる。

「……あなた、一年生ですよね? それにしてはいろいろ知っているみたいですけど」

「ただの偶然です。華音高校のデータバンクをちょっと覗いてみたら、おもしろい情報が載っていたもので」

 おまえいつの間にそんなことを。というかなんでそんなことを。祐一は思うだけで声には出さなかった。ロクな理由じゃない気がしたから。

「……わかりました」

 佐祐理はほうと一息ついて、そのときには佐祐理の表情はさっきまでの穏やかなものに戻っていた。

「佐祐理は、ですね。あなた方の力を試したいんです。これはゲームです。もしあなた方が勝ったら、同好会を正式に部として認可してあげてもいいです」

 祐一のほうへ視線を送り、にこっとほほえんだ。

「でも負けたら、同好会は完膚なきまでに潰します」

「……あんた、なに考えてんだ?」

 最初に言った疑問を祐一はふたたび口にしていた。佐祐理はそれには答えず、やっぱり表情はにこにこと穏やかで、

「あなた方に野球の試合を申し込みます。日時は一ヵ月後、場所は河川敷のグラウンド。試合までの間、練習のためにグラウンドの使用許可をあげます。涙を飲んでさゆスタの建設は延期にしましょう」

「意外とあっさりしてますね。もっと理不尽な要求かと思ってましたが」

「あははーっ、本当にそう思いますか?」

 とたんに天野はムッとして、

「相手はどこなんですか?」

 その問いに、佐祐理はこれまでで一番の笑顔を満面に湛えて言った。

「南の怪物率いる強豪校――絵亜高校です」








 祐一たちが立ち去り、佐祐理がひとりぽつんと生徒会室に残っていると、次の来客がほとんど間を置かず訪れた。

「……佐祐理」

 川澄舞が入り口のところに立っていた。佐祐理はすぐに椅子から腰をあげ、早足に舞の側に寄り添っていく。

「どうしたの? 舞がこの部屋訪ねてくるなんて珍しいね」

「それより、どういうこと」

 舞の物言いは強く、相手を萎縮させるにじゅうぶんだった。だが佐祐理は舞のこんな態度には慣れっこで「あははーっ、なんのこと?」と軽く受け流す。

「さっき廊下で祐一とすれ違った。絵亜高校と試合するって言ってた」

「ふーん、そうなんだ」

「誤魔化さないで」

 ぐいっと詰め寄ってきた。

 うーん、舞は本気で怒ってる、珍しい。舞はいつもの無表情だけど佐祐理にはそれがわかる。

 佐祐理は顔に笑みを貼りつかせたまま、

「前に言ったじゃない。佐祐理は、舞のために、祐一さんを試すって」

「……よけいなお世話」

「それでも佐祐理はやりたいからやるの」

 しばらく至近距離で睨みあった。息苦しい空気が漂い始める。時間が止まったような錯覚が襲う中、ようやく舞は佐祐理から身を離した。

「……ね、舞。今夜も『奴ら』のこと、待つの?」

 舞は答えなかった。佐祐理の顔を見ようともせず身体を返し、廊下に出る。そのまま歩き去ろうとする。

 佐祐理は舞の背中を目で追いながら声をかけた。

「舞がやめないんなら、佐祐理もやめない。わかってたことでしょ?」

「…………」

 佐祐理はすこし言葉を選んで一拍おき、

「ごめんね、舞。佐祐理は、舞と一緒にグラウンドには行けないけど……」

 佐祐理はこの街を留守にするのだ。絵亜高校のところ、南の果てまで足を運ばなきゃならない。華音高校対絵亜高校の練習試合を開催するために。

 だから佐祐理はちょっとの間だけ舞と一緒に『奴ら』と戦えないけど、でも、佐祐理は舞のこと信じてるから。ぜったい負けないって信じてるから。

 そう佐祐理が舞に向かって呼びかける前に、すでに舞は廊下から姿を消していた。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)

部員数7人




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