第16話




 何なんだ、これは。なんでこんなことになってしまったんだ?

 祐一は髪をかきむしった。どうにも焦りが治まらなかった。

 香里の話を聞いたあと、祐一は学校を出て一目散にグラウンドへと確認に向かった。たしかにそこは昨日と同様、工事中のテープが張り巡らされていた。

 やはり悪戯だろうという浅はかな考えはあっさり吹っ飛んだ。グラウンドにはたくさんの人――黄色のヘルメットで溢れていたのだ。

 グラウンドの一画には建設中のプレハブ小屋があり、その手前で現場監督らしき人が見取り図みたいなのを広げて指示を出していた。

 まったく……なんでこんなことになってしまったんだろう。

 祐一はカルチャーセンターから外に出た。グラウンドを所有していたはずの市の施設である。グラウンドを離れてからこの街中の施設におもむき、さきほどから受付の人に尋ねていたのだ――なんで自分らの会員証が無効になったのかと。

「なあ香里。倉田ってなにもんだ?」

 そして、学校に帰る道すがら、隣でむすっとして歩いている香里に聞いた。どうやら今のグラウンドの所有者は倉田財閥で、工事を要請したのもやはり倉田財閥らしい。だからグラウンドはもう一般人には開放できないと、受付で聞かされていた。

「地元の名士よ。学校には多額の寄付金を出してるし、他にもいろんな方面に顔が利くみたいね」

 香里がどうでもいいことのように教えてくれた。

「で、その名士がなんでいきなりグラウンドを買い取るんだ?」

「知らないわよそんなの」

「ねえお兄ちゃん、めいしってなに?」

「香里、グラウンドってあそこ以外にないのか?」

「うぐぅ……無視しないで」

 ちなみに今は香里とあゆと三人で土手の道を進んでいる。

「このあたりにはないわね。学校のグラウンドは他の部活でいっぱいだし、隣町に行ってもあんなに設備が整ったところはないし」

「遠出は無理だろ。電車になんか乗ってたら、それだけで部活動の時間がなくなる」

「そ。ほかに野球ができる空き地なんかあるわけないし、公園だって広くないし」

 あっさりと打つ手なし、か。香里の淡々とした口調がそのことを告げている。

「まあ、あたしは別に気にしてないけど」

 そう言って香里は足を早めた。祐一はぽかんとして、すぐに駆け足で香里の隣に並んだ。

「今さらそれはないだろ」

「なにがよ。グラウンドなんかなくても野球はできるわ」

「どこでやるんだよ」

「そこらへんの道路でキャッチボールでもしたらいいじゃない」

 香里のこのつっけんどんな態度にカチンときた。

「あのな。そんなんで練習になるかよ」

「同好会にはじゅうぶんすぎるでしょ」

「……おまえ、本気か?」祐一は込み上げる苛立ちをどうにか抑え、「みんなで甲子園を目指すって誓ったじゃないか、あの時」

「あの時ってどの時よ。適当なこと言わないで」

 それで、香里の口調にも苛立ちが混じった。祐一は次の言葉を選ぶのにすこし時間を費やして、それから強く口にした。

「適当じゃない。おまえ、栞がピッチャーやるの反対しなかっただろ。それは、そういうことじゃないのか」

「……勝手な解釈しないで」

 香里がまたさっさと先を歩いていく。祐一は追わず、代わりに声を大きくして言った。

「おまえさ、キャッチャーを志望してるのって、栞の球を受けたいからじゃないのか?」

 香里が立ち止まった。憤然として振り返り、言った。

「バカじゃないの。あたしは元からキャッチャーでしょうが」

「そうだな。じゃあ聞くけど、なんでそんなにキャッチャーにこだわるんだ?」

「…………」

「おまえ、栞の誕生日にボールあげたんだってな。おまえさ、栞に野球やらせたくないとか言ってるけど、ほんとは栞とキャッチボールしたかったんじゃないのか」

「……バカじゃないの」

 それはさっきと同じ言葉だったが、今回は比べるべくもないほど小さな声だった。

 香里は顔を前に戻した。もう振り向くことはなかった。気づいたら学校の校門は目の前で、香里の背中は校舎のほうへと消えていった。

「香里さん、なんか寂しそう」

 あゆがそんな感想をこぼした。祐一はぽりぽりと鼻の頭を掻いた。怒らせるつもりはなかったんだけどな。

 祐一があゆと連れ立ってクラブハウスに戻ると、そこではすでに野球同好会のメンバーが寄り集まっていた。改装中と書かれた看板が立つ部室の前で、それぞれ手持ち無沙汰にしている。

 その中に、香里と栞の姿はなかった。

「あ、祐一。おかえり〜」

「やっと帰ってきやがったか」北川が名雪の声でこちらに気づき、「今までどこ行ってたんだよ」

「グラウンドと、あとカルチャーセンターにも寄ってきた」

「はやく練習しようよーっ」

 真琴がわがままな子供みたいに(実際子供だが)ぐいぐいと制服の袖をひっぱってくる。

「そうしたいのはやまやまだけどな」

「あのグラウンド、使用禁止になったらしいですね。私、まだ会員になってなくてよかったです。お金がもったいないですし」

 天野がそんな本気とも冗談ともつかないことを言った。

「ボクもまだ会員じゃないよ。よかった〜」

 あゆが嬉しそうにしたのでポカッと殴った。

「うぐぅ……なんで」

「うるさい。だいたい、おまえは無関係だろうが」

「おや、あゆさん。うちの学校の制服着てますね」

 天野があゆのところに寄っていって「フフ……よかったですね」と慈愛に満ちた瞳でぽんぽんと肩を叩いた。

「……ボク、美汐ちゃんのこと嫌い」

 あゆが怯えたように祐一の背中に隠れた。

「おまえら知り合いか?」

「ふたりでクレープを食べあった仲です」

 天野がにやりと無気味に笑い、あゆが涙目になってぶんぶんと首を横に振った。

「祐一。これからどうするの?」

 名雪が心配げな調子で訊いてきた。

 クラブハウスが建つこのあたりにはさきほどから他の部活動の喧騒で満ちている。祐一は横に広がるグラウンドにちらっと目をやった。

「練習するとしたら、やっぱり学校のグラウンドだな……」

 しかしそこはホームベースもマウンドもないし、なによりたくさんの部員達でごちゃごちゃしている。

「名雪。おまえの元陸上部キャプテンの権限で、グラウンドから陸上部を排除しろ」

「無茶苦茶だよ……」

「ならしょうがない、道路でキャッチボールでもやるか?」

 投げやりに言うと、祐一たち部員の間にやるせない沈黙が訪れた。そうすると響く部活の喧騒がいやに大きく耳に触れる。

 そんな祐一たちの空気を変えたのは、ひとりの男の声だった。

「キミたち、野球同好会の者だろう」

 祐一は振り返った。ほとんど同時に他のみんなもそちらを向く。

 校舎のほうから誰かが近づいてきていた。メガネをかけた神経質そうな男子生徒だ。

「誰だ、おまえ」

 ぶっきらぼうに言うと、男の顔がいくぶんひきつった。失礼なやつだな、といった感じで。

「相沢。あんま無礼な態度取ると、これからさき学校生活が送り辛くなるぜ」

 相手が何か言うよりも先に、北川が祐一の脇腹を肘で突ついてくる。

「? なんで」

「相手が相手だからな。久瀬生徒会長様だ」

 ふん、と相手の男――久瀬が鼻を鳴らして見下ろしてくる。

 そんなに偉いものだろうか、生徒会長って。祐一は訝しい目つきをして久瀬をじろじろ見つめた。久瀬は意に介するふうもなく、

「所用があるんだがね。部長は誰かな」

 その言葉に、みんなの視線が一箇所に集中した。

「……え?」

 名雪がきょとんとして自分の顔を指差した。

「キミかい?」

「え、え? ちが――」

「ああこいつだ。水瀬キャプテンだ」

 祐一はひょいと名雪の背中に回って前に押し出した。

「え、な、なんで?」

「みんなで決めただろ。おまえが俺たちのキャプテンだって。忘れるなよ」

「忘れるもなにも、そんなの聞いてないよ……」

 そういえば名雪にはまだ話してなかった気もする。

「おや。キミは陸上部のキャプテンじゃなかったかな」久瀬は物珍しげに名雪の顔を見、「いつから野球に転向したんだい?」

 名雪は答えなかった。その代わりに、にっこりとほほえんだ。久瀬は渋面を作り、まあいいかと首をすぼめて、

「では水瀬さん。これを」

 久瀬が簡単に言って、細長の茶色の封筒を名雪に手渡した。

 名雪が首をひねりながら中を覗こうとする前に、久瀬が大げさな仕草をして言った。

「これは生徒会からの正式な通達だ。キミたち野球同好会は本日を持って廃部とする」

 久瀬のその言葉は、祐一たち全員の表情を凍らせるのにじゅうぶんだった。

 なんだって? そう祐一が問い返そうとしたときには、久瀬はすでに身をひるがえして校舎のほうに足を進めていた。

 祐一は頭がこんがらがって、次に腹の底からどうしようもない憤りが湧いて出た。なんなんだ、いきなりこれはないだろう。グラウンドの件といい、俺たちになんか恨みでもあるのか。

「待ってください」

 真っ先に口を開いたのは、茶色の封筒を握りしめる名雪だった。

「なんで廃部なんですか?」

「……ああ、ごめん」

 久瀬は面倒くさげに立ち止まり、こちらを向きながら口の中で噛み締めるような笑い声をさせ、

「廃部というのは正確じゃないな。キミたちは部ですらないんだからね。ただのお遊び集団だ」

 祐一ら部員の顔を順に見て、軽く笑った。

 祐一は怒りに任せて久瀬に駆け寄ろうとして――できなかった。名雪が祐一の制服の裾を握っていた。そのまま祐一を制し、ずいっと前に出る。

「理由を訊いているんです。答えてください」

 そう、はっきりと声に出した。

「おお、さすがは我らがキャプテン」

「名雪さんカッコいい!」

「直情径行の誰かさんとは大違いですね」

 北川とあゆと天野がしきりに感心していた。コノヤロウ。

「おまえムカつく――――っ!!」

 しかし真琴が久瀬の顔面にドロップキックをお見舞いしていた。

「な、なんだこの子供はっ!!」

 久瀬が真っ赤な顔をしながら真琴の首根っこをつかんでぽいっと放り捨てた。それから地面に落ちたメガネ(ちょっぴりヒビが入っている)を拾ってかけ直し、取り繕うようにコホンと咳をして、

「と、とにかく、その書類を読みたまえ。廃部の理由が書いてある」

「納得できません」

 名雪が書類など無視してすかさず答えた。名雪にしては珍しく、眉を吊り上げて。久瀬はたじろいだが、それはほんのすこしの時間だった。

「まあ、不服があるなら生徒会室まで足を運んでくれたまえ。いつでも相手をして差し上げますよ、水瀬陸上部キャプテンさん」

 皮肉たっぷりに言って、久瀬は今度こそ立ち去った。真琴のキックを食らって腫れあがった鼻の頭を痛そうにさすりながら。

 とたんに場が静かになる。遠くから部活動の喧騒がふたたび耳を突く。

 だが、しばらく誰も口を開こうとはしなかった。








「これでいいのでしょう、倉田さん」

 歩を進めながら久瀬が言うと、校舎の昇降口の陰から佐祐理がゆっくりと姿を現した。

「あとは僕の知るところではありません。野球同好会のことは、あなたにすべて一任します」

「……ありがとうございます、久瀬さん」

 佐祐理がしずしずとお辞儀する。久瀬は一瞬、照れたように視線を宙にさまよわせ、小さく吐息をついた。

「礼には及びませんよ」

 それだけ言って、久瀬は昇降口に足を踏み入れた。佐祐理はなにか言いたそうにして顔をあげたが、けっきょく何も言わずに自分の下駄箱のほうへと消えていく。おそらくこれから生徒会室で、野球同好会の者達を待つのだろう。

「……ありがとうございます、か」

 ほんとう、礼なんかいらない。久瀬は苦笑してしまう。どうせ川澄さんのためなのでしょう、倉田さん?

 久瀬は廊下を歩いていく。自分の教室に向けて。生徒会室に戻る必要はない。僕の役目は終わった。僕の出る幕ではない。

「僕は、ただ、嫉妬しているだけなんですから……」

 その嫉妬とは誰に対して言ったものなのか、佐祐理の親友である舞に対してか、それとも違う何かか、そう悩んでしまう自分自身に久瀬はもう一度苦笑した。








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)

部員数7人




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