第15話




 昼休みになってすぐ。佐祐理がその部屋に入ると、長机の席に腰かけていた男子生徒がちょっと驚いたように目を見開いた。

 それから得心いったのか、軽くうなずいて佐祐理のところに寄ってくる。

「倉田さん、ちょうど良かった」

 久瀬がメガネのフレームを指先でいじりながら言った。

 この部屋――華音高校校舎の二階に位置する生徒会室では、清潔そうなカーテンがわずかに開いた窓の隙間から吹きぬける風で棚引いている。春真っ盛りの気候を緩和してくれる風通しがいいこの部屋も、生徒会室であるというだけでなんだか息が詰まる感じがする。

 そんな感想を浮かばせて入り口でただ立っているだけの佐祐理に、久瀬がまた声をかけてきた。

「あなたにすこしお聞きしたいことがあったんですよ」

「ふぇ……なんでしょう」

 久瀬は眉間にしわを刻みつけながら、

「来月の生徒会費の申請のことですけど、なぜ金額が億単位なんです?」

 学校側に提出するための申請書を眼前に押しつけてきた。苛立った様子で。

 佐祐理は満面に笑みを浮かべて、

「必要だからです」

 きっぱり言った。

 久瀬があっけに取られ、それから取り繕うようにフッと苦笑して露骨に肩をすくめた。

「どうやら倉田生徒会副会長殿は家柄に違わず破天荒であられるようだ」

「あははーっ。久瀬さん、二度とそんな名で呼びやがりましたらぶち殺しますよーっ」

 久瀬の苦笑していた顔がひきつった。

「それよりどうなんです? 申請は通ったんですか?」

「通るわけないでしょう!?」

 久瀬がはやくもキレていた。

「久瀬生徒会長殿も案外使えませんね」

「僕のせいですか!? 違うでしょう、問題なのはあなたの金銭感覚でしょう!?」

「久瀬さん、あんまり怒鳴ると血管切れますよ」

「もう切れてますよ!!」

 そうらしい。

「まったく、冗談もたいがいにしてくださいよ……」

「佐祐理は本気です」

 言って、佐祐理は回れ右をした。こんなところに長居は無用と言わんばかりに。

「生徒会が役立たずなら仕方ありません。本当はこんなスマートじゃない手は使いたくなかったんですけど」

 お金は自分のポケットマネーから出すしかありませんね。この言葉は思うだけで口にはしなかったけれど、久瀬は悟ったのか疲労のため息を吐き出した。

「……倉田さん。あなた、なにを考えているんです?」

 佐祐理は横目でちらと背後の久瀬を見て、

「ちょっとしたゲームですよ。佐祐理が勝つか、それとも祐一さんが勝つか……」

「祐一?」久瀬は思案げに顎を指でなぞって、「今年転入してきた、あの二年生ですか」

 佐祐理はにこっと微笑んだだけでなにも答えなかった。廊下のほうに向けていた足をふたたび進ませる。

「待ってください」

 久瀬が呼びかけてきた。

「あなたがこの生徒会のメンバーにみずから加わったのも、そのためですか?」

「…………」

「生徒会はあなたの遊び道具ではありませんよ」

 その言葉には憤りと諦めと、ちょっとだけ心配が込められていた気がした。

「……そうですね。久瀬さん、ごめんなさいです」

 佐祐理は久瀬のほうを見なかったけれど、しかし久瀬が動揺したのが雰囲気でわかった。

「……倉田さんらしくありませんね。あなたほどの方が私情で公の機関を動かそうなんて」

「久瀬さん、あなたは勘違いしてらっしゃいますよ。佐祐理はただの、頭の悪い普通の女の子なんですから」

「本気でそう思っているのなら、倉田さん、あなたこそ勘違いしてらっしゃる」

「…………」

 もう佐祐理は答えなかった。このまま立ち去るつもりだった。だが、久瀬が口にした次の質問に、佐祐理は意識せず強い語調で答えていた。

「教えてくれませんか。億なんて大金、なんに使うつもりです?」

「佐祐理スタジアム――略して『さゆスタ』を建設するためです」








 祐一は茫然としていた。

 放課後になって、さてこれから部活に勤しもう、今日もみんなをしごいてやろうと足早にクラブハウスに向かって、するとクラブハウスの前でそれを発見したのだ。

「……またかよ」

 豪華な看板が野球同好会の部室の前にそびえ立っていた。しかも偶然なのか故意なのか、見事に入り口を塞いでいるため、部室には入れそうにない。

 祐一は施された宝石の類を懐に入れながら看板を凝視した。そこにはぶっとい文字で『改装中のため使用禁止』と書かれている。

 隣の部室を見てみたが、特に変わった様子はない。どうやら改装中の看板が立っているのはここだけのようだ。

「たく、誰のイタズラだよ」

 またあの工事現場のオッサンの仕業だろうか。昨日の腹いせとか。

「どしたの、お兄ちゃん?」

 横あいから声がした。いつからいたのか、隣に即席妹のあゆが立っていた。しっかりと華音高校の制服を着用している。しかも二年生の。

 クラスが同じじゃなかっただけまだ救いがあるか……。祐一は嘆息した。クラスメイトに自分らの突飛な関係を説明しなくて済んだのだから。

「わあー。この看板きれいだね」

 あゆが手袋つきの両手(春用の制服とかなりのミスマッチを醸しているっていうかなぜに手袋?)を口にあてがって瞳を輝かせていた。背負っている通学カバンの羽根がぴこぴこ動いている。ここまでくるともう仮装だ。

「まあ栞も私服だからな……」

 なんとも校則のゆるい学校である。

「お兄ちゃん、これから部活?」

 あゆが思いついたように聞いてきた。祐一はうなずこうとして、

「……おまえ、そのお兄ちゃんって呼び方やめろ」

「なんで?」

「なんでもだ。二度とそんな呼び方したらおまえの前科を先生にチクってやる」

「前科なんてないもん!!」

「おまえの手はもう血で染まってるんだ。いくら洗い流しても落ちないんだよ」

「うぐぅ……人殺しみたいに言わないで」

 あゆは今にも泣きそうだ。

「祐一さーん!」

 と、栞がストールをなびかせながら走ってきた。

「今日も練習がんばりましょ……」

 祐一の目の前まで来て、すぐ横のあゆとぱちっと目があった。

「……羽根?」

 栞のあゆに対する第一印象はそれらしい。

「こんにちは、栞ちゃん」

 あゆがお辞儀した。栞がきょとんとして目を瞬かせる。なんで私の名前知ってるんですか? といった具合に。

 あゆがえっへんと胸を逸らした。

「ボク、野球同好会のことならなんでも知ってるよ。みんなが練習してたのずっと見てきたもん」

「やっぱストーカーか」

「違うもん!!」

「え、ええと、どなたですか?」

 栞が困ったように尋ねてきた。

「祐一お兄ちゃんの妹だよ。今日転校してきたの」

 あゆが余計な説明をしてくれた。

「へえー。祐一さんに妹がいたなんて初耳ですよ」

「俺も初耳だった」

「……なんでですか」

 栞が呆れていた。

「今日できたばかりの妹なんだよ。簡単に言うと真琴2号だ」

 この説明で栞は納得してくれたようだ。栞はくすくす笑って、

「祐一さんも大変ですね」

「まったくだ。俺の部屋まで半分占領されたんだから」

「……え」

 とたんに栞が固まった。

「でもボク、道具あんまり持ってないから迷惑かけないと思うよ」

「おまえが部屋にいる時点で迷惑極まりない」

「うぐぅ……ボクずっといい子にしてるもん」

「ほほう。じゃあおまえ、寝るときどうすんだ」

「普通にベッドで寝るよ」

「じゃあ俺の寝る場所はどこなんだ」

「ベッドだよ」

「ふざけんな」

「……祐一さん不潔です」

 栞がふるふると肩を震わせていた。と思ったら、涙ぐみながらぱたぱたと去っていった。

「……どこ行くんだあいつは」

 これから部活だというのに。

「あんた、また性懲りもなくあたしの妹に……」

 どこからか殺気が飛んできたと感じたときには首筋にバットが当てられていた。

 ぎぎぎ、と首を後ろに回すと、やっぱりそこに香里がいた。目が怖かった。人を殺したことのある目だと思った。

「……なんだいきなり」

「なんだじゃないでしょ。あの子、泣いてたじゃないの」

「栞か? 目にゴミでも入ったんだろ」

「極刑に決定」

 首筋にバットが食い込んだ。

「待て待て!! これは濡れ衣だっ!!」

「犯罪者はみんなそう言うのよ」

 バットが食い込みすぎて息ができなくなった。

「わあ! お兄ちゃんの顔が青を通り越して白くなってる!?」

 あゆが実況解説してくれた。それよりも助けて欲しかった。

「……? 誰、この子」

 と、香里があゆの慌てた顔をしげしげと眺めていた。おかげでバットを持つ手が緩んだので、すかさず振りほどいて「俺の妹だ」と話題転換を試みる。

「月宮あゆです。よろしくお願いします」

 あゆがこれまで自分らにやってきたように会釈した。

「妹? あんたそんなのいたの」

「できたてほやほやだ」

 香里が「なに言ってんのこいつ」という顔になったので、栞にしたのと同じ説明をしておいた。

「ふーん、そういうことね」

 香里は納得したのか、何度かうなずいて、じと目でこちらを見つめてきた。

「相沢君。今度栞を泣かせたら本気でいくから」

 今までのは本気じゃなかったとでも言うのだろうか。

「ていうか、俺のせいじゃないだろ」

「相沢君。鈍感も度が過ぎると罪よ」

「カッコいいセリフだな、それ」

 香里がまたバットを構えたのであゆの背中に隠れた。

「……はあ。なんでこんな甲斐性なしに」

 しみじみと言われた。くそう。

「それよりさっさと練習するぞ」

 いいかげん時間を無駄にできない。祐一は部室に入ろうとして、すぐに看板が邪魔だったのを思い出した。

「香里、おまえの出番だ。この看板を両断してくれ」

「なんでよ」

 そんなことできるわけないと言わないあたりが香里の腕っ節の強さを物語っている。

「ささ、お願いします姐さん」

「誰が姐さんよ」香里は呆れた物言いで、「それに改装中って書いてあるじゃない」

「んなもん関係あるか。野球道具取ってこなきゃ練習できないだろ」

「どこで練習するつもりよ」

「グラウンドに決まってるだろ」

「そこ、もう使えないわよ」

 祐一が眉をひそめる傍ら、香里は自分のカバンから携帯電話を取り出した。

「さっき市のほうから連絡があったんだけど。当分の間、グラウンドは使用禁止ですって。工事するらしくて」

「はあ? そりゃただのイタズラだろ」

「どうも違うみたいね」

 香里は自嘲気味に笑って、言った。

「あのグラウンド、倉田財閥が買い取ったそうよ」








●現時点でのオーダー表

ピッチャー
美坂栞
キャッチャー 相沢祐一
ファースト 天野美汐
セカンド 沢渡真琴
サード(ピッチャー) 北川潤
ショート(キャッチャー) 美坂香里
外野全部 水瀬名雪(キャプテン)

部員数7人




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