3章 レッスン、そして忍び寄る影
第13話
野球練習場――――
華音野球同好会御用達のそのグラウンドは、河川敷にある。
ぼーぼーに雑草が茂った土手からグラウンドのほうを遠望すると、大きく張ったネットの向こうにけっこうな幅の川が見える。そのまた向こうには、祐一たち華音高校の生徒らが住む住宅街が大小の屋根を連ねている。
だから、もしバッターボックスから場外ホームランをかっ飛ばしても、ボールは水の上にぷかぷか浮かぶだけで、民家の窓ガラスを割る心配はない。
打撃練習にはもってこいの環境である。
また、このグラウンドは球場と評してもいいくらいの設備も整っていた。バックネットはもちろんのこと、ベンチ、ブルペン、果てはバックスクリーンの上に得点掲示板まであったりするのだ。
かなり恵まれていると言っていい。
だというのに、この球場は人気がなかった。
人里離れた僻地にあるわけでもないのに、利用者はほとんどいない。祐一たち野球同好会が利用のために予約を入れている放課後の時間が、他の団体の予約時間とかち合わないのも、そのためだ。
それはひとえに、昨今の野球人気の低下から来ているのだが……。
トンカントンカントンカントンカン
しかし今日、そんな閑古鳥が鳴くグラウンドでは、日曜大工にでも精を出しているような騒音が、早朝に似つかわしくない澄んだ空気を震わせていた。
土手にはひとりの女の子が立っている。
その手には女の子の背丈以上もあるどでかいハンマー、ななめに差し込む朝陽をぎらぎらと反射している。
そして女の子の正面にはこれまたどでかい看板が仁王立ちするかのように鎮座していた。
「……ふう」
女の子がハンマーをどすんと地に降ろし、一息ついた。
それから、これが最後と言わんばかりにハンマーを天高く掲げ、勢いつけて振り下ろした。
どごぉん!! と地を揺るがせながら女の子は看板を上から叩き、その下に伸びる支え棒を地中深くに埋め込んだ。
「あははーっ、まあざっとこんなものでしょうか」
女の子が満足げな笑みを浮かべ、ふたたびハンマーを降ろした。
女の子の視線は正面の看板から奥のグラウンドへと移り、しばらく感慨深げに眺めていたが、次にはもう用はないとばかりに身を返していた。
ハンマーをずりずりひきずりながら道を歩き去っていく。
グラウンドにはようやく朝にふさわしい普段どおりの静寂が戻っていた。ただ、普段と違うのは、土手の上に巨大な看板が残されていること。
その看板にはぶっとい文字でこう書かれていた。
『佐祐理スタジアム建設予定地』
放課後――――
相沢祐一は土手の道をグラウンドへ向けて歩いていた。ちょっとした考え事をしながら。
「うーむ……」
あいつはいったい誰だったんだろう?
祐一の頭の中では今朝の食卓の風景が描き出されていた。普段どおりに名雪を起こそうとして普段どおりに失敗して、一階に降りてダイニングに入り、さて秋子さんの朝食をいただこうと思ったらそこに『やつ』がいた。
「秋子さんの作るご飯ってとってもおいしいね〜」
「あらあら。お上手ね」
いつもだったら朝食のメニューはトーストのはずが、今日は和食だった。
「ボクもういっぱいおかわり〜」
「はいはい」
やつはこの水瀬家の食卓に見事なまでに溶け込んでいた。頭に赤色のカチューシャを乗っけていて、春だというのに白地のセーターを着ている、見覚えのない女の子だった。
ひょっとしたら真琴のときみたいにまた唐突に家族が増えたのかと懸念がよぎったが、それよりもまず腹が減っていたので祐一はさっさと朝食に取りかかることにした。
「いただきまーす」
「ボクはもういただいてるよ〜」
祐一はやつのことを無視した。
「ボクももういっぱいおかわり〜」
やつは自己主張でもするように何度もおかわりをねだっていたが、そのうちに食いすぎたのか泣きそうな顔でこちらを見あげてくるようになった。
「ごちそうさま」
「うぐぅ……祐一君、いじわる」
涙目になっていた。
女の子のそんな挙動が面白かったので、祐一はけっきょく最後まで無視した。
ちなみに名雪の存在もすっかり忘れていて、名雪は二時間目の授業の途中で登校してきた。ひどいよー、とか言われてイチゴサンデーをおごるハメになった。
くそう……すべてはあの女の子のせいか。
で、現在に至り――
「うーん……思い出せん」
そのカチューシャの女の子とはどこかで会ったような気もしたが、胸につっかえ棒でもされたみたいに名前は出てこなかった。
こんなふうに悩みながら、グローブを片手に、祐一は他の部員達よりも先にグラウンドを訪れた。
「……ん?」
そして今までの考え事がすべて吹っ飛ぶくらいに、祐一はあっけに取られた。
「……なんだこれ」
目の前に見知らぬ看板が立っていた。いやに煌びやかで豪華な飾り付けが施されている。昨日まではなかったはずだが、いったいいつの間に立てられたのだろう。
と、祐一はきょろきょろとあたりを見回した。
看板だけではなかった。グラウンドの周囲にはテープが張られており、そのところどころに工事中のマークもつけられている。
グラウンドに人気はない。工事を行っている様子はなかった。
誰かのイタズラだろうか。だとしたら、やけに手が込んでいる。最近のガキはやることが過激だなあ。
「まあ、いいか」
祐一がテープを乗り越えてグラウンドに向かおうとしたところで、どこからか野太い声が飛んできた。
「おいキミ、このグラウンドは工事中なんだ。勝手に入られると困るんだよね」
見知らぬオッサンが遠くから駆け寄ってきた。頭には黄色いヘルメット、首にはタオルを巻いている。見るからに工事現場で働く人だ。
「ほら、はやく外に出て」
しっしっと犬でも追いやるみたいに手を振ってくる。
「俺はこれから部活やるんだよ」
祐一は気にするふうもなくグラウンドに降り立った。
「ちょっとちょっと! ここは工事中って言っただろ!」
オッサンが慌てて追ってくる。
「この看板、あんたが立てたのか? 年甲斐もなく悪趣味なイタズラすんなよな」
「……それが目上の人に対する口調か」
オッサンはこめかみをぴくぴくさせて、
「それに、イタズラじゃない。ここにはね、スタジアムが建設されるんだ。収容観客数5万人を超える立派な球場だ」
「…………」
ドーム球場でも作るつもりだろうか、このオヤジは。
「だから、工事が終わるまでこのグラウンドは使用禁止なんだ」
「寝言は寝てから言え」
「……なんでそんなに態度がでかいんだ、キミは」
「祐一さーん」
土手の上から呼び声がかかった。見あげると、栞がテープを下からくぐってぱたぱたと寄ってくるところだった。
「なんなんですか、あのテープ。工事中とか書いてありましたけど」
「単なるイタズラだ。気にすんな」
「イタズラじゃないって言ってるだろ!?」
オッサンが地団駄を踏んでいた。
「ねえ、ちょっと。なんなのよこれ」
続いて香里がぶすっとした顔で土手を降りてきた。右手にはテープの切れ端が握られている。
「邪魔だったから斬っといたけど」
左手にはかおりんバットが握り締められていた。バットでテープを切断できるやつは世界広しといえどもこの女くらいだろう。
「な、なにしてくれるんだキミ!?」
オッサンが香里を見て声を荒げていた。
「なにこの人」
「気にすんな。ただのイタズラっ子だ」
「工事は本当だって言ってるだろ!? ここにはドーム球場が建設されるんだよ!!」
「酔っ払ってるんじゃないのこの人」
熱っぽく語るオッサンの隣で香里が冷静にツッコんだ。
「じゃっじゃーん♪」
あとから来た真琴が、もう片方のテープの切れ端を握って、凧揚げでもするみたいにグラウンドを駆け回り始めていた。
「こらこらこらこらこらこらっ!!」
オッサンが青い顔をして追いかけていった。
「なんですか、これ。センスのかけらもない球場名ですね」
今度は天野がマジックペンで派手な看板にイタズラ書きしていた。『佐祐理スタジアム。収容観客数5万人』にバッテンを書いて『月極駐車場。収容車両数5万台』と修正した。
「なななななななにやってくれてるんだアンタ!? それは我がお仕えする倉田家ご当主様のご令嬢が直々にお立てになられたありがたくも恐れ多い看板なんだぞ!?」
オッサンが舞い戻ってきて土手を駆け上ってわめき散らしながら天野の手からマジックペンをぶん取った。
「みんなー待ってよーっ」
名雪が向こうのほうからとんでもないスピードで土手の道を走ってきて途中で小石につまずいてそのままスライディングでもする勢いで頭から看板に激突して支え棒をへし折って看板を倒した。
「うー、痛いよーっ」
頭をさする名雪の隣で、オッサンが泡を吹いて倒れていた。
「お、みんなそろってるな。さっそく練習始めようぜ」
最後に北川が登場して締めくくった。
けっきょく、この日は普段どおりに練習が行われた。
●現時点でのオーダー表 | ||
ピッチャー | 美坂栞 | |
キャッチャー | 相沢祐一 | |
ファースト | 天野美汐 | |
セカンド | 沢渡真琴 | |
サード(ピッチャー) | 北川潤 | |
ショート(キャッチャー) | 美坂香里 | |
外野全部 | 水瀬名雪(キャプテン) | |
部員数7人 |