第12話
放課後になって、いつものグラウンドで守備練習にふける皆を祐一は見晴るかした。
「名雪のやつ……遅いな」
ここには名雪の姿だけがなかった。
授業が終わって、すぐに教室を出ていってそれっきりだ。
「保健室に用があったみたいよ」
香里が額の汗を拭いながら寄ってきた。
「保健室? なんで」
「なんか事件があったらしいわよ。ていっても、あんたたちにはそれが日常なんでしょうけど」
「……なんだそれ」
「フフ……家に帰ればわかりますよ」
いつの間にか天野が側にいて、それだけ言って去っていく。
「……あいつは背後霊か」
「そろそろあたしも戻るわ」
香里の向かう先では、真琴が北川のノックを受けている。
「ちゃんとしたとこに打てーっバカアンテナっ!!」
「バカアンテナ言うなっ!!」
無人の場所に転がるボールを、真琴が野原を駆け回るキツネのごとく追いかけ回していた。
「俺も戻るかな……って天野、ちゃっかりベンチに座ってるんじゃない」
「疲労が困憊ですので……」
そう言って横になった。
「……えぅ〜」
その隣で栞も寝そべっていた。貧弱コンビ。
「しょうがない……おーいみんな、そろそろ休憩ー」
祐一の号令で、みんなの顔にホッと安堵が浮かんだ。
春真っ盛りの晴天、じりじりとグラウンドを焦がす陽光。真夏に比べればどうということもないが、部活動に慣れていない野球同好会にとっては辛い環境だ。
「あぅー待てっボールー!!」
若干一名、元気があり余っていたが。
「一番の課題は基礎体力だな……」
といっても、延々と走りこみなんてする気はない。つまらないし。
「好きこそ物の上手なれ。これがうちのチームの大原則だ」
「下手の横好きにならなきゃいいけど」
香里がベンチに入っていく。続いて北川、遅れて真琴が到着し、これで名雪を除いて全員。それぞれペットボトルで喉を潤し始めていた。
「休憩がてらに聞いてくれ。そろそろシートノックを練習に組み込もうと思う」
「しーとのっく?」
真琴が首をかしげる。
「ああ。それぞれが自分のポジションについてノックを受けるんだ」
「ポジションも何も、そんなの決まってないでしょ」
香里の言葉に、ゆっくりとうなずく。
「その通り。だからこれまでのノックを参考に、みんなのポジションを考えてみたんだが……」
懐からオーダー表を取り出した。
「暫定的なオーダーだけどな。また部員が増えたら異動させると思うし」
「ていうか、なんで相沢が決めるんだ?」
「キャプテンだから」
シーンとなった。
「……というのは冗談で、とりあえず暇だったから作ってみた」
「なんだ、本気だったらどうしようかと思ったぜ」
本気だったのに。
「相沢君、オーダー決めるんならまずキャプテン決めないとでしょ」
「だから俺が――」
「冗談なんでしょ?」
にっこり笑って香里が釘を刺す。手にはかおりんバットがしっかり握り締められていた。
「……わかった、なら立候補を取る。誰かやりたい人は?」
シーンとなった。
「んじゃ、俺が――」
「お姉ちゃん、やってみない?」
栞に遮られた。
「柄じゃないわ」
「なら美坂、ここはひとつオレが――」
「名雪でいいんじゃないの」
北川の言葉も遮られた。
「あの子、意外とこういうの適任だから」
たしかに一度、俺もそう考えたことがあった。
「でも、あいつはまだ野球の勉強中だからなあ」
「知識なんて二の次でしょ」
「そーゆーところは、私たちでサポートすればいいですもんね」
美坂姉妹が名雪をプッシュする。
「他のみんなはどうだ?」
「水瀬って元陸上部キャプテンだよな。なら問題なし」
「真琴も賛成〜名雪好きだし」
「異議なしです」
北川、真琴、天野も同意。
「名雪が聞いたら、ぜったい拒むでしょうけど」
「じゃ、本人がいない間に決定ってことで」
おめでと〜、と皆が拍手をした。
「では次に、オーダーだが」
こほんと咳をして、
「まず、言うまでもないと思うが、エースピッチャーは栞」
「え……」
栞が情けない顔をする。
「今さら拒否なんかしないよな?」
「はぅ……」
縮こまってしまう。
「忘れるな、華音野球部の未来はおまえの肩にかかってるんだ」
「はぅぅぅ……」
ますます縮こまった。いじめてる気分。
「栞ちゃん、応援してるぜ」
北川がニカッと爽やかに笑って、栞の背中を叩いた。きっと心では泣いているのだろう。
「は、はい。でも……」
ちらちらと香里のほうを窺う。
「いいんじゃない」
ぶっきらぼうに言った。
「んじゃ、決定」
「おめでと〜」
みんなが拍手する。
「次。北川」
「いえっさー」
とてもやる気なさそうな返事。
「北川、おまえはみんなと比べて肩が強い。守備もそこそこ上手い。だからサードと、サブポジションでピッチャーだ」
守備力が重要な内野の中で、サードは一番ファーストから遠い。だから肩の力も必要になるポジションなのだ。
「あ、相沢……。こんなオレでも、まだピッチャーって呼んでくれるのか?」
「当然だろ。おまえはうちの優秀なリリーフエースなんだから」
北川が涙した。
「部員的に選択の余地ナシですしね」
天野が補足説明した。
「というわけで、決定」
「おめでと〜」
「で、次。香里と真琴、おまえらにはセンターラインを任す」
「せんたーらいん?」
「ああ。真琴はセカンド、香里はショートだ」
「ちょっと待ってよ」
香里が口を挟む。
「あたしはキャッチャーでしょうが」
「いや、俺のたぐい稀なる洞察力と観察力からおまえの適性守備位置を……って、最後まで話聞け!! かおりんバットを構えるなっ!!」
「なによかおりんバットって」
「それだ、それ!! 今俺の首筋に当たってるバットだっ!!」
ささっと栞の背中に隠れる。
「ふん、おまえの愛する妹の命が惜しくば、俺の言うことに従うんだな」
「ひゃあ!?」
栞を羽交い絞めにした。
「くうっ、卑怯な……」
「三流悪役の言動ですね」
天野がじと目で見ていた。
「香里、とにかく聞けって。これは決定じゃない、暫定なんだ。せっかくフォーメーションの練習するんだし、キャッチャーじゃ動きが少なくてつまらんだろ?」
「あんた、そんなこと言って、ていよくあたしをキャッチャーから外そうとしているわけじゃないわよね」
「ハハハ。まさか」
「本当でしょうね?」
「ハハハ。当たり前じゃないか」
「しょーがないわね、今だけよ」
香里がバットを下げる。冷や汗もんだ。
「ゆ、ゆゆゆ祐一さん、あの……っ」
「あ、ああ。悪い」
「……いえ」
気まずい空気。
「……ま、そんなわけでだ。キャッチャーは暫定的に今だけ俺ってことで」
強調しておく。
香里の刺すような眼光が痛かったが、納得してくれたらしく渋々と頷いた。
「相沢さん」
ちょいちょい、と天野に肩をつつかれた。
「私はどこなんでしょう」
「ああ。天野、おまえはよくわからん。チームに加わったばかりだし」
加わったばかりじゃなくてもよくわからんと思うが。
「だから、今はとりあえずファースト頼む」
「らじゃ」
無表情で敬礼した。
「チッ……めんどいですね」
去り際にそんな言葉が聞こえた。
本当にこのポジショニングでよかったのか、不安だ。
休憩を終え、さっそく皆がそれぞれの守備位置に向かっていく。
「ごめーん、遅くなって」
と、ちょうど名雪が到着した。
「名雪、ギリギリセーフだ。おまえも守備についてくれ」
「ノックするの?」
屈伸しながら言った。準備運動を忘れないところは、さすがだ。
「あれ、みんなバラバラになってるよ」
「そういう練習なんだ。栞がピッチャー、香里がショートって感じで。キャッチャーの俺がノッカーやるから、おまえは外野に行ってくれ」
「うん。外野のどこ?」
「全部だ」
名雪がぽかんとする。
「……え、どこ?」
「全部だ」
「…………」
「光栄に思え。おまえにはレフト、センター、ライト、外野のすべてを任せる」
「無理だよーっ!!」
「なんだと!? キサマそれでも甲子園を夢見る乙女か!? この位できなきゃレギュラーの座は譲れんわ!!」
「うん。わたし、補欠でいいー」
叱りつけてやる気を起こさせるつもりが逆効果になっていた。
後悔したときには、名雪はすでにベンチに座っていた。
「ケッ、この根性なしが」
「祐一さん……」
栞がマウンド上で睨んでいた。
名雪にペコペコ謝って、どうにか納得してもらった。
さて。
祐一はグラウンドをぐるりと見渡して、
「みんな、しまっていくぞー!!」
両腕を上げて声の限り叫んだ。
それぞれのポジションから「おう」とか「うんっ」とか「あぅーっ」とか「はいはい」とか声が返ってくる。
ああ、いいなあこういうの。ちょっと感激。
ついバットを握りしめる手に力が入る。
シートノック、スタート。
「フォーメーション『4−6−3』、いくぞ!!」
要するにセカンド、ショート、ファーストで、ランナーを仮定してゲッツーを奪うという意味である。
祐一のバットから目の覚めるようなピッチャー返しが飛んだ。
「わっ」
栞が反応できずに見送り、痛烈なゴロが二遊間に突き進み――
「ぎょうざ三連まんーっ!!」
センターに抜けるギリギリのところで、真琴がダイビングキャッチした。
「わあ、さすが真琴ちゃん」
「あぅ〜目が回る〜」
勢い余ってころころ転がりながら、
「オバサン〜ぱす〜」
「オネエサマと呼びなさいっ!!」
セカンドベースカバーに入った香里に返球される。
「ファースト!」
続いて、矢のような送球がファースト目がけて投じられた。
ああ、そうだ。これだ。俺が望んでいたのはこれなんだ。
胸の奥から滲み湧いてくる昂揚感。武者震い。
今にもスタンドから大歓声が押し寄せてくるような、そんな緊張感。
祐一はこのとき初めて、本当に実感したのかもしれない。
俺はこのチームで、この華音野球部で、甲子園を目指すんだ……
「……って天野てめーベースに座って呑気にお茶すすってんじゃねーっ!!!!」
ボールは天野の頭上を通過してファールグラウンドを転々としていた。
祐一の耳に聞こえていたはずの大歓声が、尻すぼみに消えていく。
フォーメーション『4−6−3』、失敗。
「失敗は成功の母……」
天野が湯飲みを優雅に口に運び、くいっと飲み干し、のろのろと立ち上がる。
「さあ、いつでも来いです」
いつかこいつはシメる。祐一は心に誓った。
「くっ……もう一回だ。フォーメーション『4−6−3』、始動!!」
が、セカンドに真琴の姿はなかった。祐一の打ったボールが空しく外野まで転がっていく。
「あぅ〜♪」
その外野に真琴はいた。鼻歌を唄いながら駆け回っていた。
真琴の興味はもはやシートノックから逸れ、あたりを飛び回る蝶々に移っていた。
「こらっ、真琴。じっとしてなきゃだめでしょっ」
「あぅ〜♪」
フォーメーション『4−6−3』の代わりに名雪と真琴の追いかけっこが始動した。
「慌てない慌てない、一休み一休み」
ふたたび天野がベースに座ってお茶していた。
「はは……甲子園なんて、甲子園なんて……」
祐一の耳には、大歓声の代わりに、地区予選一回戦敗退後に飛び交う野次が聞こえていた。
「ゆ、祐一さん、お気をたしかに」
栞がマウンドを降りて寄り添ってくる。
「まだみんな、自分のポジションに慣れてないんですよ、きっと」
「それ以前の問題だろ……」
このチームで、俺は甲子園を目指さなきゃなのか……。
頭が痛かった。
「はは。賑やかだねえ」
北川がサードからショートに、ぶらぶらと歩いていく。
「ほんと、一年前には考えられなかったなあ」
「…………」
「部員が集まるなんて、思ってもみなかった」
「大したことじゃないでしょ。部員が多くたって、少なくたって」
「そうだな」
北川は一度、言葉を区切って。
「でも、少ないよりは多いほうがいい」
「そうかしら」
「高校球児なら、一度は夢見るもんだ」
「あんたも熱に当てられたのかしら」
「オレは最初から狙ってたぞ。夏の全国高校野球選手権大会、優勝」
「…………」
香里の視線は、北川ではなくどこか遠くのほうに向けられている。
「それよりあんた、さっさと自分の場所に戻りなさいよ」
「こんな状態でノックもないだろ」
依然、真琴と名雪の追いかけっこは続いていたし、天野はお茶を飲んでいるし、祐一は放心していて、その側で栞はおろおろしていた。
「ブルペンにでも行くか?」
「……それもいいけど」
そんな光景を、香里は呆れ混じりに見つめて。
「ま、もうちょっとつきあってあげてもいいかな」
みんなのところに、ゆっくりと歩いていった。
紺色の空に浮かぶ満月が、閑散としたグラウンドをささやかに照らしている。
活気があった昼間とは真逆に、そこは静かな佇まいを崩さない。
ここは、寒い。
そして、寂しい。
「……舞。まだこんなこと続けるの?」
「…………」
「いつまで続けるつもりなの?」
土手の上では剣を携えた女の子、緑色のリボンを結わった女の子。二つの人影が、夜の空気に身をさらしていた。
「学校で『奴ら』と戦って、やっと決着をつけて……。なのにまだ、続けようとするの?」
「……佐祐理には関係ない」
「舞。それは今さらだよ」
「…………」
「今さら、そんなこと言わないで」
「……でも、佐祐理を巻き込みたくなかった」
「違うよ。巻き込まれたんじゃないの、これは佐祐理の意志なんだよ」
風が吹いた。冷たく乾いていた。
長いお下げをなぶり、リボンをわずかに揺らせ、吹き抜ける。
そんな風。
「……祐一」
ぽつりと、剣を携えた子――川澄舞が呟いた。
「祐一が帰ってきてくれた。だから、もうすぐ終わる」
「…………」
「私たちの希望に……なってくれる」
舞が、緑色のリボンの子――倉田佐祐理に背を向け、ここを立ち去ろうとする。
「ねえ、舞。それが儚い希望であっても?」
「…………」
「吹いて飛ぶくらい脆くて儚い灯火であっても?」
「それでも、可能性はある」
「……そう」
佐祐理も、舞に背を向けた。
「なら、佐祐理が確かめてあげる」
一歩を踏み出した。
「舞の言う祐一さんという男を、佐祐理が試してあげる」
「…………」
「たとえそれで、希望を失うことになっても……」
そして二人は、それぞれの道を行く。
冷たく乾いた風が、二人の間を通り抜けた。
「……佐祐理は、後悔しない」
二人は、振り返らずに自分の行き先だけを見据えて。
満月の光の中。
グラウンドから、姿を消した。
●現時点でのオーダー表 | ||
ピッチャー | 美坂栞 | |
キャッチャー | 相沢祐一 | |
ファースト | 天野美汐 | |
セカンド | 沢渡真琴 | |
サード(ピッチャー) | 北川潤 | |
ショート(キャッチャー) | 美坂香里 | |
外野全部 | 水瀬名雪(キャプテン) | |
部員数7人 |