第10話




 早朝。

 たまには余裕を持って登校しようと、祐一は名雪を置いて通学路を歩いていた。

「……お」

 途中、いつものグラウンドに立ち寄ってみると、すでに先客がいた。

 私服姿で、壁を相手に黙々とボールを投げている。

 誰だろう、と思ってすぐに知った。体操着も着用せずに練習しているなんて、うちのチームにはひとりしかいない。

「よ。早いな」

 向こうも気づいたのだろう、ぱたぱとこちらに寄ってきた。

「祐一さんこそ。もしかして練習ですか?」

 栞が、運動後らしくうっすら頬を紅潮させて聞いてくる。

「いや。誰かにグラウンドを荒らされてないか確認しようと思ってな。たとえば剣を振り回す生徒とかタイヤキ泥棒とか」

「……誰です、それ」

「さあ」

 グラウンドに足を踏み入れる。夜の間に雨でも降ったのか、土の感触がいくぶん柔らかい。

「あ、あの。せっかくですし、その……れ、練習……

「練習、つきあおうか?」

「あ、は、はい!」

 ベンチには野球道具が詰め込まれた段ボール箱が置いてあった。栞が準備したものだろう。

 さっそくグローブをはめて、肩慣らし程度に栞とキャッチボールを始める。

「びっくりしたよ。栞がこんなに練習熱心だったなんてな」

「い、いえ。そんなことないですよ」

 まんざらでもない顔をしている。

「でもさ、このグラウンドって予約して借りれるんだよな」

「はい」

「予約したのか?」

「え、あ、あはは……」

 乾いた笑い。どうやら無断で使っているらしい。まあ問題ないと思うが。

「毎朝やってたのか?」

「あ、はい、まあ……」

 困った顔をして、

「お姉ちゃんには内緒ですよ」

 にこっと笑ってボールを投げる。

 山なりの軌道で、祐一のグローブにぽすっと収まった。

 そのまま祐一は黙って、返球せずに栞の顔を見つめていた。

「? どうしたんです?」

「……なあ、栞」

 ボールを手の平でもてあそんで、落ち着きなくその言葉を口にした。

「おまえ、ほんとは野球やっちゃダメなんじゃないか?」

「…………」

「前に香里が病弱だって言ってたけど、ほんとは医者に運動止められてるんじゃないのか?」

「そんなことないですよ」

 栞がくすりと笑う。

「お姉ちゃんは心配性なんです。私は、ほら、この通り元気ですから」

 両腕でガッツポーズを取って、またニコッと笑った。

「……信じていいんだな」

「はい。じゃんじゃん信じてください」

「……わかった」

 祐一は返球した。栞は普段と変わらず、しっかりとそのボールを受け取る。

 朝にふさわしい澄んだ微風が、栞の前髪を揺らせた。くすぐったそうに栞が瞳を細くして、そっと髪を指先ですくった。

 その仕草は、どこにでもいる女の子そのものだった。

「……栞。これからどうする?」

 キャッチボールを終えても、腕時計の時間はまだ始業一時間前を指していた。

「投球練習でもするか?」

「あ、はい、えと……」

 もじもじして、言い辛そうに顔を伏せてしまった。

「……やっぱり体の具合悪いのか?」

「い、いえ! そうじゃなくて、あの……ごにょごにょ

「なんだ?」

「は、はい……その、えと、バ、バッティング……

「打撃練習か?」

「そ、そうです……」

 顔を真っ赤にして、ぼそぼそと口を開く。

 なんで照れる必要があるのか不明である。

「いや、べつに俺の練習はいいから」

「…………」

 唐突に場が静かになる。

 栞が目をぱちくりさせて、それからプッと吹き出した。

「ほんと祐一さんらしいです……」

 くすくすと笑い声を漏らしている。

「……これは、なんだ。ケンカを売られてるのか」

「わ、ち、違いますよ!」

「じゃあなんなんだ」

「あ、いえ、そのですね、私にバッティング教えて欲しいなあって……」

 言ってから、顔の前でぱたぱたと手を振っていた。

「だ、だめならいいんです。聞き流してください」

「……誰も駄目とは言ってないだろ」

 グローブを外して、栞の側に寄っていく。

「投球技術のほうも教えたいことは山ほどあるけどな。牽制球とかさ。でもまあ、たまにはそれもいいか」

「あ、はい! どうもです」

 勢いよくお辞儀した。

 そういえば栞の打撃を見るのは初めてだ。実はとんでもないスラッガーなのでは……と、南の怪物(甲子園で大道芸やって退場したやつ)のスイングが思い浮かび、あまりに想像不可だったのですぐに消し去った。

 次に、天野のへろへろスイングが脳裏をよぎった。

「まあ、こっちだろうな」

「なにがです?」

「いや。じゃ、さっそく打撃フォームでも見せてもらおうかな」

「は、はい。つまらないものですが……」

 お中元の定番文句を言って、栞がバットを握る。ぎこちなく右の構えを取った。

 祐一の目の前で、栞がスイングを繰り出す。

「ど、どうでしょうか」

「……ていうか、なんでそんなガチガチなんだ」

 緊張しているのか、油を差し忘れたブリキのおもちゃみたいなスイングだった。

「は、はい。恐縮です……」

「……だから恐縮するんじゃない」

「ぜ、善処します……」

 栞がもう一度バットを振る。まだガチガチだったが、綺麗なフォームのスイングだった。

「ど、どうですか?」

「ああ。変な癖もなくて素直な振りだ。俺が教えることは何もないな」

「え……」

 喜ぶと思いきや、栞はなぜだかシュンとした。

「……いちおう誉めたつもりなんだけど」

「あ、はあ……」

「嬉しくないのか?」

「い、いえ、嬉しいですけど……」

 イジケたようにバットの先で地面に字を書き始めた。

「やっぱり体調悪いのか?」

「……もういいです」

 これ見よがしにため息をつかれた。まったくわけわからん。

 それから何度か栞の素振りを見て、

「あのさ。栞って野球経験なかったんだよな?」

「あ、はい。看護婦さんに隠れて遊び程度にやってただけです」

 以前に尋ねたときと同じ答え。

「おまえ、野球センスあるぞ」

「え、そ、そうですか?」

「ああ。俺よりあるかもな」

 栞の投球も打撃も本当に素直で、教科書どおりのフォームなのだ。おそらく病室で本を読んだり、他人のプレーを見たりして身につけたものだろう。

 自分が動けなかったから、そうすることで野球をやっていたのだ、栞は。

「今度はトスバッティングしてみるか」

「あ、はい!」

 栞をネットに向かわせる。隣にしゃがみ込んで、祐一はボールを横からトスした。

 無駄のないバッティングフォーム、無駄のないスイング。それは本来ならば鋭い軌跡を残すのだろう。

 しかし栞の微小な腕力はそれを許さず、ゆるやかな速度でバットが繰り出され――

「――あれ」

 スカッと栞は空振った。

「気にするな。もう一回」

「は、はい」

 だが栞のバットはまたも空を切った。

「もう一回だ」

「はい」

 スカッ

「もう一回」

 スカッ

「……もう一回」

 スカッ
 スカッ
 スカッ

「……なんでやねん」

 栞のバットはことごとく空を切った。まるでボールを避けるかのように。

「栞。真面目にやってくれ」

「やってますよう」

「じゃあなんでかすりもしないんだ」

 不自然極まりなかった。

「え、えと、私、要領悪いですから」

「そんなレベルじゃないと思うが……」

 しばし思案して、祐一は栞の眼前に指を二本突き出した。

「何本に見える?」

「……どういう意味ですか」

「いや、目が悪いのかな、と」

「両目とも1.5です」

「じゃあ三半規管あたりに問題が……」

「……そんなこと言う人嫌いです」

 またトスバッティングを再開するが、先ほどと同じ結果に終わった。

「うーむ、世界の七不思議だな……」

 祐一はあーでもない、こーでもない、とぶつぶつ呟いていた。栞のほうには目もくれず。

「…………」

 そんな祐一を尻目に、栞はグラウンドに転がるボールをひょいと拾った。

 ノックの要領でボールをトスし、スイングする。

 ぼてぼてのゴロだったが、バットにはちゃんと当たっていた。

「……名雪さんには教えてくれたのに」

 けっきょく、栞の願いが届くことはなかった。








「うー。ゆふいひ、ひよいよ……」

 祐一が先に家を出たと知って、名雪は猛スピードで支度を終え(朝食を取る時間がなかったので口にトーストをくわえて)、通学路を全力疾走していた。

「……あれ」

 その途中、グラウンドに通りかかると、ちょうど見知った制服姿が目に留まった。

 クールダウンして歩を休め、名雪は土手沿いの道からグラウンドに立つ二人の姿を見下ろす。

「そっか。祐一、栞ちゃんと練習してたんだ……」

「そのようですね」

「わあっ!!」

 ぬくっと草むらから顔を出す女子生徒――天野美汐だった。

「び、びっくりしたよ……」

 天野は茂る雑草に腰を落ち着け、ぼんやりとグラウンドの風景を眺めていた。

「美汐ちゃん……なにやってたの?」

「ラブコメ観賞」

「…………」

「水瀬さんがもうちょっと早く到着してくれれば愉快な展開が期待できたのですけど」

 ゆらりと立ち上がって、流し目で目配せしてくる。

「そろそろホームルームの時間です。急ぎましょう」

「う、うん」

 二人、肩を並べて学校へ向かう。

 美汐ちゃんって何考えてるのかよくわからないなあ……でもチームメイトになったんだし、がんばって理解しなくちゃ、と名雪は心に誓った。

「……おや」

 と、天野が立ち止まった。じっと前方を見据えている。

「どうしたの?」

「フフフ……愉快な展開は忘れた頃にやって来るものです」

 無気味に笑って、土手を少し降りたところを指差した。

 そこにはダッフルコートを羽織った女の子がうつ伏せに倒れていた。

「……た、大変!!」

 名雪はすぐさま駆け寄って、その華奢な身体に触れた。

 夜に降った小雨のせいだろう、全身が冷え切っていた。ゆっくりと仰向けにすると、青ざめた顔が名雪の瞳に映る。

「う、うぐぅ……」

 その寝言(?)もか細くて、かなり衰弱しているのが知れた。

「ど、どうしよう……はやく……そうだ、救急車!」

「いえ、それには及びません。どうせなら学校に運びましょう。保健室です」

「う、うん!」

 急いで女の子を担ぎ上げ、名雪は校門めがけて突っ走った。

 天野がゆっくりした歩調で名雪のあとに続く。

「救急車なんて面白味も何もない無粋なものは必要ありませんよね……そうでしょう、あゆさん」

 空を見上げ、そう呟いた。

 頭上に広がる澄んだ水色。

 絶好の野球日和が、そこには主張されていた。








●現時点でのオーダー表

 ピッチャー  美坂栞

 ピッチャー  北川潤

 キャッチャー 相沢祐一

 キャッチャー 美坂香里

  外野    水瀬名雪

  ??    沢渡真琴

  ??    天野美汐

 部員数7人




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