第9話




「天野。おまえにはまずベースランニングをやってもらう」

「……いいでしょう」

「祐一、なにそれ?」

 名雪が首をかしげる。

「ベースを一周するんだよ。ホームから始まってファースト、セカンド、サードベースを踏んで、またホームに戻ってくる。そのタイムを計らせてもらう」

「まあ、基本ね」

 香里がストップウォッチを準備した。

「じゃあ名雪。試しにやってみてくれ」

「え、わたし?」

「ああ。ついでにおまえの足もテストしてみたい」

 名雪がうなずき、位置についた。

「……いや、べつにクラウチングスタートのポーズは取らなくていいんだが」

「正確にはミドルスタートだよ」

 そんなもん知らん。

「じゃ、いくわよ」

 香里のかけ声で、名雪がスタートを切る。

 全てのベースを周り、あっという間に帰ってきた。

「香里。タイムはどうだ?」

「…………」

 無言で手渡してきた。

「……ぐあ」

 眩暈がするほど早いタイムだった。

「祐一、どうだった?」

 名雪が息ひとつ乱さずに聞いてくる。

「あ、ああ。まあまあだ」

「そっか。スターティングブロックがなかったから出足に失敗しちゃったよ」

「…………」

 タイムは秘密にしておこう。

「そんなわけで天野、おまえはうちのスピードクイーンに勝てるか」

「楽勝……」

 マジかい。

「それじゃ、いくわよ」

 香里が合図する。

 スタンディングスタートのポーズを取り、天野がホームベースを蹴った。

 そのスピードは名雪に勝るとも劣らない――わけもなく、亀のようにトテトテ歩いてファースベースを通過していた。

「……やる気あるのかキサマ」

「あります」

 どこがだ。

「ホームラン打ったときを想定……」

 途中、ベースに座り込んで手をうちわ代わりにパタパタやっていた。

「……不合格」

「ま、待ってくださいようっ!」

 栞にしがみつかれた。

「名雪さんに勝つなんて誰だって無理ですってば!」

「まあ、そうだろうけど」

 と、天野がようやくホームに帰ってきた。

「いい汗を流しました……」

 その顔は満足そうだった。

「おい天野。本来なら不合格のところだが、名雪の足に免じてテストを続けてやる。次は『守』だ」

「どんとこいです」

 その自信はどこからくるんだろう。

「おまえ、何利きだ?」

「右です」

「じゃあこのグローブ持ってサードに行け。ノックをしてやる」

「楽勝……」

 うそ臭いことこの上ない。

 案の定、祐一が打つゴロを天野は一球も取れなかった。

 というか、こちらを見向きもせず、肩にとまった蝶々とたわむれていた。

「……不合格」

「ま、待ってくださいようっ!」

 栞にしがみつかれた。

「きっと天野さん、初心者なんですよ。誰だって最初は上手くできないんですから」

「……おまえはあいつのあの態度を見てまだそんなことが言えるのか」

 天野はサードベース上に座って首をコキコキやってうーんと伸びをしながらあくびをしていた。

「き、きっと天野さん、調子が悪いんですよっ!!」

「……おまえの目は節穴か」

「いいわ、続けましょう」

 これまで口をつぐんでいた香里が、ずいっと前に出た。

「最後は『攻』のテストね」

「いいのか?」

「ええ」

 香里は、くっくっく、と笑って。

「けど、野球を愚弄する輩は誰であろうと許さない。不合格の暁には、このあたしが自らの手で潰してあげる……」

 すわった目つきで『祝・阪神優勝夜露死苦ごっつぁんです』バットを構えた。

「ふう。今日はぐっすり眠れそうです」

 満足げな笑みを浮かべて天野が戻ってくる。

「天野、最後のテストだ。俺たちチームからヒットを打てれば合格。もちろん一打席勝負だ」

「それ、真琴のときと一緒だー」

「芸がないな相沢」

「祐一さんってほんとに勝負が好きですよね」

 黙れ外野。

「フフ……これを待っていたんですよ」

 ホントかい。

「あの、祐一さん……」

 栞が不安げな瞳で見上げてくる。

「安心しろ、どうせおまえにピッチャーは任せられん。天野を入部させたいあまり手を抜く恐れがある」

「そんなことしませんよう……」

「ピッチャーならあたしが殺ってやるわ」

 香里が物騒な言葉を吐いた。

「美坂、だったらここは本業のオレにまかせ……プレートまでお供いたしますお嬢さま」

 北川の言葉が香里の眼力により執事言葉に変化した。

「香里、おまえピッチャー経験は?」

「ないわよ。肩なら自信あるけど」

「変化球は?」

「投げたことないわ」

 つまりこの勝負、ストレート一本のみで抑えなければならないらしい。

「わかった。キャッチャー志望のその肩、見せてもらうぞ」

「あんたのリードも見せてもらうわ」

 お互いに軽く笑む。初めて香里と意気投合できたような気がする。

「じゃ、始めるか」

「その前に修正案をひとつ」

 天野が挙手した。

「とりあえず塁に出れば私の勝ちということで」

「ふん、振り逃げでも期待してるのか? あいにくだな、俺がキャッチャーである限りその可能性はゼロだ」

「エラーはなにもキャッチャーだけではありませんよ……」

 ちらと名雪を見て言った。どうやら守備の穴はすでに認識済みらしい。

「いいだろう。ちょうどいいハンデだ」

「フフ……その自信に足をすくわれないように……」

 天野が素振りを始めた。右の構えで、ハエの止まりそうなスピードでスイングしている。

 祐一は香里に耳打ちした。

「サインは無しだ。俺の構えるミットめがけて全力投球してこい。それだけでいい」

「そうね。あのスイングなら、バットに当たっても力負けするでしょうし」

「ああ」

 香里がマウンドに登っていく。

「北川、審判頼む」

「へへっ、オレの公正な判断に酔いな」

「栞はセカンド、真琴はショート、名雪はファーストだ。頼むぞ」

 ストレート勝負となると、バックの重要性は格段に増す。スイングアウトの三振はまず望めないからだ。

「エラーなんぞしやがったら即刻チームをクビだからな」

「そ、そんなあ……」

 栞が泣きそうな顔をした。

「特に栞。おまえが一番信用ならん」

「手なんか抜きませんってばあ……」

「もしいいかげんなプレーしやがったらおまえのストールをバスタオル代わりに使ってやるからな」

 香里がマウンドを降りて蹴りを入れてきた。

 その隣で栞は顔を赤くしていた。

「名雪。おまえはファーストベースから動かなくていい。みんなの返球を受け取ることだけを考えろ」

「う、うん」

「もし落としやがったらおまえの飯は今日から三食イチゴジャムご飯だ」

「ほ、ほんとー!?」

 名雪の瞳がキラキラした。逆効果だった。

「真琴。俺はおまえの動物的キャッチングに一番期待している」

「私もです……」

 なぜか天野が同意した。

「えー、なんで真琴がそんなことしなきゃなのーっ」

「アウトにしたら帰りに肉まんおごってやる」

「ふっふーん、真琴がエラーなんかするわけないじゃん〜♪」

 最近、こいつの扱い方がわかってきた気がする。

「それじゃあ、みんな。しまっていくぞ!!」

 おお――――っ!! と、バックから(ついでに審判の北川から)声が上がる。

 初めてチームが一体化した瞬間だった。

「脅迫と買収が入り混じってはいますが、チームワークはあるようですね」

 天野がゆっくりと右打席に入った。

「ですが、強固な友情ほど崩れやすく脆いものはありません。私が教えてあげますよ……」

「ほう。そいつは楽しみだな」

「フフ……野球とは一個人の勝負でしかないのですから……」

 この天野の言葉で、祐一は確信した。

 こいつは守備の隙間を狙ってくるつもりだ。もしくは守りのエラーに期待している。

 たしかにバックは、シートノックすらやっていない急造バック。特に名雪は不安極まりない。

 だが、たとえ名雪がエラーしても、セカンドの栞がきっとフォローしてくれる。

 そして真琴が、香里がカバーに入ってくれる。

「俺からも教えてやるよ。野球ってのは一個人の勝負の前に、チームワークの勝負だってことをな」

 香里がモーションに入る。キャッチャー志望らしくテークバックの小さい、素早いスローイングだった。

「ボール!」

 構えたミットとはだいぶズレたコースに突き刺さった。

「香里、コースは狙わなくていい。ど真ん中に放り込め」

「わかったわ」

 二球目。130キロ近くあるストレートが、しっかりとストライクゾーンを突いた。

 三球目。きわどいところでボールが宣告される。

 天野はすました顔でどちらも見送った。

「どうした、振らないのか?」

「よけいな体力は使いません……」

 四球目、ど真ん中にボールが来てストライク。

 これでカウントは、ツーストライク、ツーボール。

「タイム」

 天野はバッターボックスから足を外して、グリップの位置をこれでもかと言うくらい上にした。そのまま何度か素振りをする。

 バットを短く持って当てていく作戦だろうか。

「……え?」

 と、祐一の眉間にしわが寄った。

 天野のバットの握りは、さっきまでとはちょうど逆さになっていた。

「どうぞ、始めてください」

 天野が右ではなく、左バッターボックスに入る。

「どうした、いきなり左に転向か?」

「…………」

 天野は黙ってピッチャーに視線を注いでいる。

「プレイ!」

 北川の号令で、香里が胡乱げな顔をしながらも投球動作に移った。

 伸びのある速球が、ストライクゾーン目がけて突き進む。

 ――――カキン

 初めて天野がバットを振るった。

「ファール!」

 ぼてぼてのゴロが三塁線を切った。

 続いて二度、三度、同じようなファールがグラウンドを転がった。

「タイム」

 天野がへろへろの素振りをまた再開する。

「……そうか」

 なぜ天野が左に転向したのか、このとき祐一は悟った。

 おそらく天野は香里のリリースポイント――ボールが指から離れる位置を見定めている。香里は右投げ、だから左打者なら香里の球筋が見切りやすくなる。

 へろへろのスイングでもヒットが打てるよう、ボールをバットの真芯で捕らえるために。

 祐一はマウンドに駆けていった。

「香里。次あたりで打たれるかも知れんが、気にするな」

「いきなり不吉なこと言わないでよ……」

「そうじゃない」

 ぽすん、と香里のグローブを軽く叩く。

「おまえの球威と、あとバックを信頼しろって言いたかったんだ」

 たとえ真芯で捕らえようと、天野の細腕では外野まで飛ばすのは難しいだろう。

「言われなくても最初から信頼してるわ」

「ならいいんだ」

 ホームベースに戻り、キャッチャーマスクを被り直す。

「お姉ちゃん、がんばって!」

「ふぁいと、だよーっ」

「真琴にかかればなんでもアウトだもんね〜」

「愛してるぞー」

 バックから(ついでに審判から)声が飛び交う。

「まったく……羨ましいくらいですね」

 天野が、スッと瞳を細くして言った。

「でも……どんなにがんばっても、どんなに励ましあっても……」

 香里の投げるボールを、天野が打ち返す。

「ファール!」

「どうにもならないことだって、時にはあるんです……」

「ファール!」

 香里が額の汗をぬぐう。

 そして、ゆっくりと振りかぶる。

 天野がボールをカットした。

「ファール!」

 これで、八球連続のファール――――

「ボール! カウント、ツーストライク、スリーボール!」

 香里の顔には疲労の色が濃く出ていた。

 天野はただ黙然と、その様子を眺めていた。

 まさか、こいつ……。

「ファール!」

 まさか、こいつの狙いは……。

「ファール!」

 ここにきて、祐一は天野の本当の狙いをようやく理解した。

 天野は守備のエラーを期待しているのではない。それどころかヒットを狙ってすらいない。

 エラーと同じくらい消極的で、しかしもっと確実な方法を狙っている。

 くそ……気づくのが遅すぎた。

 なぜ今まで気づかなかったのか。

 これはひとえに、勝負前の天野の口車に乗せられたせい……!!

「ストライク! バッターアウ――」

「異議ありです」

 天野が振り返って、ぽかんとする北川を見据えた。

「今のはボール半個分ベースから外れていました」

「え、そ、そうだったか?」

「……ああ。天野の言う通りだ」

 天野がうすく笑い、ゆうゆうとファーストベースに向かっていく。

 結果は、フルカウントからの、フォアボール――――

「……はあっ」

 香里が天を仰いで大きく息を吐き出した。

 バックは皆、なにが起こったかわからないような顔をして、ファーストベース上の天野を見つめている。

 そう。

 天野は宣言どおり、チームなど関係ない、個人対個人の勝負をやってのけたのだ。

「……俺たちの負け、か」

 ストライクは全てカットし、ボールは完璧に見送る。それを可能にするには並外れた選球眼が必要だ。いくら香里がストレートしか投げられないとはいえ……

「…………」

 いや。

 香里が投手をすることになったのさえ、天野の作戦だったのかもしれない。

「フフ。これで、仲間です」

 天野が、これまでの微笑とは違った優しい笑みで、その言葉を口にする。

「野球は9人いないとできませんから。やっぱりチームワークって大切ですもんね」








 空が紫紺に侵食され始めた頃、あゆはようやくグラウンドに戻ってきた。

「う、うぐぅ……」

 土手の上にぱたりと倒れこむ。

 あれから街中を駆けずり回り、クレープ屋のオヤジをどうにかまいて、気づいたときにはもうこんな時間になっていた。

「…………」

 めっちゃ疲労困憊。

 強烈な睡魔が襲ってくる。

「お腹……減ったよう……」

 その言葉を最後に、あゆの意識は深い闇に落ちた。








 完全な闇に支配されたグラウンド。

 それを眼下に、ひとりの少女が立っていた。

 土手の上で、夜風になびく漆黒の髪を左手で抑え、ただ静かにグラウンドを見下ろしている。

 その少女は長身で、大きなリボンで髪を後ろに束ねていて、なぜか腰に剣をぶら下げていた。

 満月の光が両刃の剣を鈍く照らし上げる。

「…………」

 少女の足元には、人が倒れていた。

 羽のついたリュックを背負った女の子。

 死んだように動かない。

「…………」

 つんつん、と剣先で突付いてみる。

「うぐぅ……祐一君、やめてよう。くすぐったいよう……」

 どうやら生きているらしい。

 少女はまた、足元に広がるグラウンドに視線を移した。

「……ここは、危険」

 このグラウンドには何かを感じる。

 あの、華音高校と同質の、『なにか』。

「…………」

 少女はきびすを返した。

 華音高校に向かうために。

 そこで、『なにか』と決着をつけるために。

「……うぐぅ」

 寝言(?)が聞こえてくる。

 少女はもう、羽つきリュックの子など一顧だにしなかった。

 ただ、寝言に出てきた祐一という名前に、ちょっとだけ胸が疼いた。








●現時点でのオーダー表

 ピッチャー  美坂栞

 ピッチャー  北川潤

 キャッチャー 相沢祐一

 キャッチャー 美坂香里

  外野    水瀬名雪

  ??    沢渡真琴

  ??    天野美汐

 部員数7人




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