第8話
「名雪。そろそろ交代だ」
「わたし野球嫌い……」
けっきょく名雪はファールしか打てなかった。
「今日から毎日ダンベル担いで素振り1000回だな」
「わたし退部する……」
「冗談だって。あまり気にするな。最初は誰だってそんなもんだ」
「祐一も?」
「そりゃあな」
名雪がにっこりした。
「じゃ、次は俺の番だな」
何度か軽く素振りをして、右バッターボックスに足を踏み込む。
「球種はなにがいいですか? ストレートと、あとはカーブ、スライダー、シンカーなら投げられますけど」
「いや」
祐一は不敵な笑みを浮かべて、
「本番のつもりで投げ込んでこい」
「……はい?」
「手加減は一切ナシだ。俺を三振に討ち取るつもりで投げてこい」
「そ、それじゃ練習にならないですよ……」
「なんだ、自信ないのか?」
トントンとバットを肩の上で叩く。
「そんな弱気なエースは、うちのチームには要らんな」
「要らないとか言ってる余裕ないと思うけど……部員足りないのに」
名雪のツッコミは無視。
「栞。固く考える必要ないから。実践練習だと思ってさ」
「わ、わかりました……」
「栞ちゃん、がんばれ〜」
名雪が駆けていく。祐一から見てライトとセンターの中間あたりでグローブを構えた。
「……それでは、本気でいかせていただきます」
「ああ。俺も全力で相手する」
栞が振りかぶる。それに合わせて祐一はバットを固く握り、ぐっと後ろにタメを作った。
一球目――真ん中から外に外れるカーブ。
球速の遅い栞のボールでは、その縦に大きく曲がるカーブはスローカーブと呼べるだろう。
バットが風を切り、痛烈な打球が右方向に飛んだ。
「わ、わ、わ……」
「名雪、もっと左に寄れ!」
あたふたしながらも名雪がツーバウンドで打球をキャッチする。
栞がぼんやりとその様子を眺めていた。
「栞。次だ」
「は、はい」
今度はホームベース上を滑るように曲がるスライダーだった。コースは外角低め。
ライト前ヒットを叩き出した。
「名雪、もっと前進!」
「う、うん!」
名雪が綺麗にトンネルした。
「……次だ」
「は、はい」
外角低めの、これまたスライダーをあっさり弾き返す。
「……栞。コースがわかりやす過ぎ」
三球連続での外角攻め。予想通りだった。
まさしくそれは栞の気の弱さを象徴していたから。
「デッドボールを恐れるな。真琴との勝負のときにも言ったろ」
「は、はい……」
真琴くらい負けん気があればな、と考えてしまった。
そしてもうひとつ、祐一にはある懸念があった。
「いきます……」
栞の表情が変わった。腹を決めたようだ。
下手投げから繰り出されるボールが、祐一の背中側から迫ってくる。内角いっぱいを突くカーブ。
「……くっ」
詰まり気味の打球が、名雪の手前にぽとりと落ちる。
祐一はグリップを握る自分の手を見つめた。
「やっぱり……」
祐一の懸念――それは、球威だった。
栞の球は、軽い。バットの根っこに当たっても外野まで飛ぶほどに。
これでは、もしも強打者相手に失投すれば、たちまちホームランを食らってしまうだろう。
「……うーむ」
球威というのは持って生まれた資質が大部分で、練習だけで手に入れられるものではない。
それでも、まあ、解決策はあるにはある。失投をなくせばいい。一試合のうち、コントロールミスをできるだけ少なくすればいい。
栞のコントロールは抜群だ。変化球のキレも並よりは上だろう。
とはいえ、失投をなくすには強靭な精神力が必要なのだ。
そして栞はプレッシャーに弱い上、気も弱い……。
「……まあ、おいおい考えていくか」
マウンドでは、栞がぼんやりと打球の方向を眺めていた。
「栞。いつまでショック受けてるんだ」
「…………」
「今のは結果はヒットだけど完全に討ち取ってた。だから自信持てって」
「……はい」
内角に食い込むシンカーを強引に右中間へ運んだ。
「名雪! おまえの足ならノーバウンドで取れる!!」
「無理だよーっ!!」
「栞、次」
「…………」
栞が、なにかに耐えるようにして肩を強張らせていた。
「どうした? ケガでもしたのか?」
「……祐一さん、本気出してません」
ぽつりと言う。
「内角の球もひっぱらないで強引に流して、見逃せばボールになる球もライト方向に運んで……。ぜ、全部、名雪さんのところに返して……」
「…………」
「な、名雪さんの練習も、だ、大事だと思いますけど……。で、でも、ちゃんと、私と、勝負してください……!」
祐一は言葉も出なかった。
栞の指摘はまったくの真実だった。
「ちゃんと……私を、見てください……」
ぎゅっと固く瞳を閉じて、だけど、はっきりと口にした。
祐一は驚いていた。まさか栞がこんなことを言ってくるとは思わなかったから。
なんだ、栞。おまえ、気が弱いなんてウソじゃないか。
ちゃんとエースやってるじゃないか……。
「……ああ。わかった」
祐一は額にコツンとバットを当てて、ぐっと強くグリップを絞り込んだ。
「あとで泣いて許しを請うことになるがな」
「の、望むところです……!」
栞の表情がパッと輝いた。
祐一は勘違いしていた。
さっきの栞の言葉に含まれた意味合いを、祐一は見事に勘違いしていた。
結果。
「私、野球嫌いになりそうです……」
栞はマウンド上でガックリしていた。
栞の20球の全力投球のうち、実に8本が柵越えだった。残りもほとんどがヒット性の当たりで、空振りはたったの一球。
その一球は栞の決め球、ライズボールだった。
だが、最初は空振りに喫した祐一のバットも、二球目のライズボールは長打コースに叩き込み、三球目に至ってはホームランをかましていた。
「おまえの球はな、素直すぎるんだ。丁寧にコースを突くのはいいが、代わり映えがしない。おまえはコントロールがいい分、打者が思い描いた通りのコースに投げやすいんだよ。たまには打者の裏をかいてど真ん中に放り込むくらいじゃないと、一打席目なら通用するだろうが、強打者なら二打席目でスタンドインだ」
「は、はい……」
「決め球だって、読まれたら単なる棒球なんだ」
「き、肝に銘じておきます……」
栞がふらふらながらも敬礼した。
「まあ、配球に関してはキャッチャーの俺がしっかりしていれば問題ないけど」
「じ、じゃあ私、打たれ損じゃないですかぁ……」
「いや。栞には俺のサインに反抗するくらい成長して欲しいと思ってる」
「祐一、前は反抗するなって言ってたよ」
うるさい名雪。
「俺はもういいから、名雪、またおまえの番だ」
「いえ……ここは私が」
と、名雪よりも先に次の打者がバッターボックスに入った。
「ようやく私の出番が回ってきました……」
「ああそういえば……て、栞。おまえはピッチャーだって」
「祐一さん、わたしここにいますけど」
栞は名雪の隣にいた。
「さあ……どこからでもかかってきなさい」
バッターボックスで、もうひとりの誰かがバットを持って棒立ちしていた。
紫の髪をした見知らぬ女の子。
丁寧語で話してたもんだから、てっきり栞だと思ったんだが。
「おい。なんだおまえは」
「助っ人」
「…………」
名雪と栞と、三人で顔を見合わせる。が、知らない子らしくそれぞれ首を振った。
「悪いけど、ここは部外者立ち入り禁止なんだ」
「ここは部外者大歓迎ですよ」
栞が女の子のところにぱたぱた寄っていった。
「ひょっとして入部希望ですか?」
かくん、とうなずく女の子。
「天野美汐と申します。以後お見知りおきを」
バットを神主のように持ってぺこりとお辞儀した。
栞の表情がみるみる歓喜に満ちていく。
「や、やりました祐一さん!! 今までの部員は勧誘とは程遠いほとんど拉致状態での入部者だったのについに自らの入部志願者がここにっ!!」
栞がVサインした。
「え、えっと、天野さん……でしたよね。野球経験はあります?」
「ちょびっとあります」
栞が瞳が輝かせながら詰め寄った。
「どこのポジション希望ですか? 内野ですか? それとも外野?」
「監督」
「…………」
栞が口をパクパクさせた。
「ヘッドコーチでも可」
「……誰かこのふざけたやつをつまみ出せ」
「ま、待ってくださいようっ!」
栞にすがりつかれた。
「あんたたち、どうしたのよ」
騒ぎを聞きつけたのか、向こうで打撃練習を行っていた香里が寄ってきた。
「誰、この子? うちの学校の制服着てるけど……入部希望?」
「そうそう!」
栞がこくこくうなずいた。
「これ……入部届の代わり。お納めください」
天野が神主のように抱えていたボロボロの木製バットを、恭しく香里に受け渡した。
「ちちちちちちょっと!? これあたしの阪神優勝バットじゃない!!」
『祝・阪神優勝夜露死苦』の文字が『祝・阪神優勝夜露死苦ごっつぁんです』に変貌していた。
「ね、お姉ちゃん。お姉ちゃんも天野さんに入部して欲しいって思うよね?」
「ぜったい不許可」
香里の浮き出た血管は今にも破裂しそうだった。
「そ、そんなあ……」
栞が両手を地につけて崩れ落ちた。
「諦めるのはまだ早いです……」
ぽんぽん、と天野が慰めるように栞の肩を叩く。
「つーか、おまえは結局なにがしたいんだ」
「助っ人」
邪魔しているようにしか見えんが。
「わたし、水瀬名雪。よろしくね」
「はい……こちらこそ」
名雪と天野が握手を交わしていた。
「おい名雪。まだ入部と決まったわけじゃ――」
「よろしく、天野さん」
栞とも握手を交わしていた。
「フフ……これで仲間」
天野が勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ねぇーどうしたのーっもう練習終わりー?」
真琴がバットをぶんぶん振り回しながら登場した。
それを見た天野がカッと目を見開いて、それから取り繕うようにコホンと咳をする。
「……あなた、お名前は?」
「あぅ? 沢渡真琴」
「そう……いい名前ね」
ニヤリと笑って舐めるように見つめる天野の視線から、真琴が怯えたように名雪の後ろに隠れた。
「お? その子誰?」
最後に北川が加わって、この場に部員全員が集まった。
「おい、天野って言ったか。ここに集まっている猛者共はみな涙ナシでは語れない血の滲むような努力と厳選な入部テストを経て晴れてこのチームの一員になったんだ」
「私は初耳ですけど……」
「わたしも……」
裏切り者ふたりは無視。
「そんなわけで、おまえがどうしても入部したいって言うなら、その前にテストを受けてもらおうか」
「フフフ……望むところです」
祐一と天野の間に火花が散った。
「ゆ、祐一さん……!」
「あんたは黙ってなさい」
香里と天野の間にも火花が散った。
「なあ相沢。テストって何やるんだよ」
「野球で必須の能力と言われている三つをテストする」
「友情、努力、勝利か」
どんなテストだ。
「走、攻、守ですね」
栞が修正した。
「そうだ。天野、おまえにこの三つの関門が突破できるか」
「楽勝……」
ホントかい。
「ならさっそくおまえの能力を見せてもらおう」
祐一はグラウンドをぐるっと見渡して、宣言した。
「まずはひとつ目のテスト……『走』だ!」
「すごいよ……あの子、あんなに自然(?)にみんなの輪の中に入っちゃった……」
あゆは土手の上で、物欲しげにグラウンドの様子を見つめていた。
「よ、よーし! ボクもがんばらなきゃ……!」
意を決して立ち上がり、天野のあとに続こうとして。
「あんなところにいやがったか!! おまわりさん、あの子です!!」
突如、遠くのほうから大声が飛んできた。
「あの子がうちの商品を万引きしていた常習犯ですっ!!」
「う、うぐぅ!?」
ついにタイヤキ屋のオヤジが最終手段に!? と思いきや、こちらに向かって走ってくるのは見知らぬオヤジだった。
「ボ、ボク、何もしてないよっ!」
すぐさま無実を訴える。
「何もしてないわけあるか!! 最近よくうちの店に来てクレープを注文して、今あなたは束の間の奇跡の中にいるのですよ、とか言いながら金を払わずに去っていく万引き犯はおまえだろう!?」
「そんなわけわかんないことしないよっ!!」
「じゃあおまえの持っているその食べかけのクレープはなんだっ!!」
あゆの手には天野からもらった激甘練乳クレープがしっかりと握られていた。
「こ、これは、あの紫の髪の子からもらったもので……」
「今さらそんな言い逃れが通用するか!!」
「言い逃れじゃないもん!!」
「そのいかにも自分は善人ですって主張したような童顔で相手を惑わすのがおまえの手なんだろう!? この極悪人がっ!!」
「そんなことないもん!!」
「おまわりさん、早くこいつをひっ捕らえて牢屋にでもぶち込んでくれ!!」
「う、うぐぅ――――――――――っ!!!!」
あゆはグラウンドを背に全速力で逃げていった。
●現時点でのオーダー表
ピッチャー 美坂栞
ピッチャー 北川潤
キャッチャー 相沢祐一
キャッチャー 美坂香里
外野 水瀬名雪
?? 沢渡真琴
部員数6人