第6話
勝負は再開された。
祐一が出すサインに、栞が引き締まった表情でこくんとうなずく。緊張はもう取れたようだ。
栞がゆったりしたフォームから第二球を投げる。
右打者の膝元に食い込む、内角低めのシンカー。
「肉まんーっ!!」
真琴がよくわからないかけ声を上げながら豪快にスイングし、見事に空振った。
「いたたた……」
勢い余って尻餅をついていた。
しかもバットとボールの間は30センチも離れていた。
「ふむ……」
祐一は思案し、三球目を要求した。
さきほどとまったく同じコースに、同じ球種のボールが栞の指から放たれる。
「あんまんーっ!!」
ボールは真琴のバットをかすめ、バックネットに突き刺さった。
「ファール!」
香里のコールと一緒に、真琴がまた尻餅をついた。
なかなか気持ちいいスイングするじゃないか、こいつ。
こういった、三振かホームランしかない大振りの打者は見ていてスカッとするものだ。バッテリーにとっては扱いやすい存在であり、同時に怖い存在でもある。
しかも真琴は、ただやみくもにフルスイングしているわけでもなく、ちゃんと変化球にも対応していた。二球目と三球目の違いがそれを物語っている。
「カウント、ツーストライク、ワンボール」
「あぅー、次はぜったいかっ飛ばす!!」
真琴が打ち気満々でバットを構えた。
こういう場合、打ち気を削ぐために一球外すのがセオリーだが……。
祐一は四球目のサインを出した。
「……!?」
栞の頬がひきつった。ぶんぶんと首を横に振る。
祐一はまたサインを示した。栞は青い顔をして首を振り続ける。
そんな行為を二人は何度か繰り返して、
「タイムっ!! ピッチャー交代――」
「わああ!? わかりました、投げますようっ!!」
栞は観念した。
「おまえは俺の要求どおり木偶人形のごとく投げてればそれでいいんだ。俺に反抗するなんざ百世紀早いわ」
「めちゃくちゃね、あんた……」
香里の言葉はあえて無視。
栞が泣きそうな顔をしながら振りかぶり、四球目を投じる。
内角高めのストレート――
「……あぅーっ!?」
ボールは内角高めから大きく外れ、真琴の顔面に向かって突き進んだ。
真琴が後ろに倒れこんでどうにかやりすごす。
「ボ、ボール!」
栞がごめんなさいごめんなさいと頭を下げていた。
「よし。それでいい」
「いいわけないでしょ!!」
香里に蹴られた。
「栞! 今度やったら危険球で退場よ!!」
「ご、ごめんなさいぃ……」
さらにペコペコ頭を下げた。
「はううぅぅ、怖かったよう……」
真琴が意気消沈してバッターボックスに戻った。
続く第五球。
祐一は栞に外角低め、ストライクぎりぎりのところを要求した。
真琴はさっきの内角ボール球が頭から離れていない。これまでのように強く足を踏み込んでボールに食らいつくことは難しいだろう。
これを狙っての、外角低めだ。そしてこの配球は、栞の驚異的なコントロールがあってこそのもの。
栞の投げたボールが、まさに祐一が要求したコースにやってきた。
「焼いもまんーっ!!」
「……なっ!?」
真琴はこれまでとまったく同様のフルスイングで、外角低めに逃げるボールを叩いた。
アッパースイングの勢いに乗り、ボールが高々と舞い上がる。
ライト方向、一塁ライン上、徐々にファールグラウンドへと切れていき、さらに向こうのフェンスを越えていった。
「ファール!」
ボールを目で追っていた栞が、へなへなとマウンドに膝をついた。
「あぅ……手応えあったのに」
真琴は悔しそうに素振りを始めた。
「……うーむ」
真琴は右打ちの打者、そして栞も右投げの投手。しかも下手投げ。
だから、縦のオーバースローと違って横から鋭利に食い込む栞のボールは、真琴には背中から迫ってくるように感じるはずだ。
だというのに、真琴は恐怖心のかけらさえ見せず振り抜いていた。
もし要求したボールがストレートだったらスタンドに入っていたかもしれない。スライダーだった分、バットの先に当たってファールになったのだ。
「タイム」
祐一は栞のところに駆けていった。
「おい、いつまでガックリしてるんだ」
「は、はい、すみません。ちょっとびっくりしちゃって……」
栞がよろよろと立ち上がる。
「そうですよね。べつにびっくりすることじゃないですよね。私なんかが抑えられるわけないですもんね……」
あはは、と乾いた笑みを浮かべていた。
「……栞。二度とそんなこと言ってみろ。真琴に打たれる前に俺が先に引導渡してやる」
ひくっと栞が息を呑んだ。
「おまえを選んだのは俺なんだ。もしヒットを打たれたら、それは俺の責任だ」
「そ、そんなこと……」
「いいか、次の投球、今までと違って全力で投げろ」
栞が、よくわからないといったふうな顔をする。
「おまえは制球を気にしすぎて、腕が萎縮してるんだよ。だからボールに球威がない。あんな簡単に持っていかれる。わかったな、次は何も考えずに思いっきり投げ込んでこい」
「で、でも、そんなことしたら、今度こそ真琴ちゃんに……」
「当ててしまうかも、か? 大丈夫だ。おまえのコントロールはそんなことで失われない」
栞はそれでも不安そうに、真琴をちらちらと窺っている。
「打者は気にするな。おまえは俺のキャッチャーミットだけを見ろ」
「…………」
「おまえは俺を信じて投げろ。それだけでいいんだ」
栞はしばらく顔を伏せていたが、
「……はい。祐一さんを信じます」
「それでいい」
祐一はホームベースに戻っていった。
「ふっふーん。あんまん肉まんカレーまん〜♪」
真琴が唄いながらバッターボックスに入り、プレイがコールされる。
カウントは、ツーストライク、ツーボール。
真琴がボックス内で、これでもかというほど内角に寄った。当初からずっとそうであったように、打つ気満々な構えを取る。
デッドボールを恐れないその度胸は驚嘆に値する。
まあ、単になにも考えてないだけかもしれないが……。
栞が投球動作に入った。もどかしいくらい遅いモーション、上体が横に沈み、ストールがふわりと棚引き、細い腕が最大限に伸びきった。
「あんなゆるい球、真琴にかかれば場外一直線だもんね〜♪」
たしかに栞のボールは遅い。たぶん全力で投げても120キロが限度だろう。
だけどな、真琴……。
祐一はマスクの下でにやりと笑う。
たとえゆるい球しか投げられなくたって、速球派投手にはなれるんだよ……!
栞の手首がしなやかにスナップし、ボールが指先からリリースされた。
インコース高めの直球が、ストライクゾーンいっぱいのところを強襲する。
「ピザまんーっ!!」
顔面すれすれのボールもなんのその、真琴は左足を外に開き、強引にアッパースイングし――
――――ズバン!!
ボールはミットに突き刺さった。
「三振、バッターアウト!」
真琴がやっぱりこれまでと同じように勢い余ってもんどり打ち、きょとんとした顔で尻餅をついていた。
「あぅー、納得いかない!!」
真琴がバットを放り出して喚いていた。
「なんであんな遅い球、真琴が空振りしなきゃなのーっ!!」
「……相沢君。さっきのボール、打者の手元で異常に伸びたけど」
香里が驚いた様子で吐息をついた。
「ホップするストレートだ。ソフトボールでいうところの『ライズボール』ってやつだな」
下手投げだからこそ可能になる、高めに伸び上がるボール。打者から見ればホップしたように映るだろう。
そして栞のコントロールは、デッドボールを回避し、しっかりと内角高めのストライクゾーンぎりぎりを突いてくれていた。
「これがアンダースローならではの速球さ。わかったろ、栞。高めのストレートはアンダースローの命なんだよ」
球速が遅くても直球で勝負できる――それが、アンダースローの投手なのだ。
「は、はい……。でも、これ、心臓に悪いです……」
栞は息も絶え絶えだった。
「私、こんなボール投げ続ける自信ないですよう……」
「がんばれ」
「ううぅ、それだけなんですか……」
栞がガックリした。
「おつかれさま、栞ちゃん」
名雪が守備から帰ってきて、ぽんっと栞の肩を叩いた。その隣で北川はまだブツブツ言っていた。
「そういうわけで、真琴。おまえの負けだ」
「イタズラしないで一緒に仲良く練習しようね」
「……いや名雪、そうじゃないだろ。こいつはこのグラウンドから排除だ」
「あぅー、まだ負けてないもん!!」
真琴がビシ、と祐一を指差した。
「祐一を空振り三振にとって真琴が勝つんだから!!」
「……おい。勝負は一打席って言ったろ」
「一打席だもーん。次は真琴がピッチャーやって一打席勝負だもーん」
「……ふざけんな」
「あー祐一、さては真琴に負けるのが怖いんだあ―」
コノヤロウ。
「わかった、やってやる。完膚なきまでに負かしてやる。もう後悔しても遅いからな」
「後悔するのは祐一だもーん」
真琴はあかんべーをしながらマウンドに登っていった。
「ゆ、祐一さん……」
「心配するな。負けるなんてことは万が一にもない」
「真琴ー、ふぁいと、だよー」
「…………」
名雪が裏切って真琴を応援し出した。
「真琴ちゃーん、相沢なんかぎったぎたにやっつけろー」
そして案の定、北川も裏切った。
「というわけで香里。コールしてくれ」
「ちょっと、キャッチャーは誰がするのよ」
「そんなもん必要ない」
祐一はバットを担ぎ、素振りもせずバッターボックスに入った。
さきほどと同じ、右対右の一打席勝負。
香里が渋々とプレイの号令を発した。
「ほら、とっとと投げろ」
「なによーっそのテキトーな態度は!!」
「相手してやるだけありがたいと思え」
「むかーっ!! バカ祐一、死んじゃえ!!」
「ふっ、俺には負け犬の遠吠えにしか聞こえんな」
「負けるのは祐一だもんっ!!」
真琴が鼻息荒く振りかぶった。
とりあえず様にはなっている。小さな身体を大きく逸らし、左足を胸につくくらい上げ、オーバースローで右腕を振り切った。
迫り来る速球。球速は、通常の栞より上の120キロ弱。
「だが……甘い!!」
コースは打ちごろの真ん中高めだった。
祐一はいとも簡単にジャストミートした。
キイィン、と金属バットから甲高い音が鳴り響き、白球は綺麗な直線を描いて真琴の頭上を越え――
「ホタテグラタンまんーっ!!」
ジャンプ一番、真琴はその打球をキャッチした。
「……はい?」
祐一は唖然とした。
な、なんつージャンプ力してるんだ、あいつは……。自分の背丈と同じくらい飛んでいた気がする。
まるで獣のような跳躍、そして反射神経だった。
「アウト!」
香里の無情なコールが響いた。
「おめでとー真琴」
「がんばったな、真琴ちゃん」
名雪と北川がマウンドに駆け寄り、賞賛の言葉を浴びせた。
「というわけで相沢君の負けね」
「ま、待ってくれ! あの打球は本当ならピッチャーの頭を越えてぐんぐん伸びていってセンターの頭上かなたを通り過ぎてバックスクリーンのど真ん中に――」
「言い訳は見苦しいわね」
祐一はがくりとひざまずいた。
「えーと、じゃあ勝負はどうなるんでしょう?」
「引き分けかしらね」
「そうすると……じゃあ真琴ちゃんはどうなるんでしょう?」
「イタズラしないで一緒に仲良く練習だね、真琴」
名雪の言葉に、真琴は一瞬目をぱちくりさせて、うーんと首をかしげて。
「野球嫌いだけど、しょーがないからやってあげる」
にへらっと笑った。
「決着がついたようですね」
紫髪の少女は立ち上がり、草のついたスカートをぱんぱんと払った。
「うぐぅ。帰るの?」
「はい。そろそろ陽も暮れる頃なので」
グラウンドに立つ祐一たちも、もう後片付けを始めていた。
「祐一君、今日もボクに気づいてくれなかったよ……」
「フフフ。待っているだけじゃ何も変わりませんよ、あゆさん」
紫髪の少女はグラウンドを一瞥だけして、身をひるがえす。
「まあ、それは私にも言えることですけどね……」
無気味に笑いながら去っていった。
羽つきリュックの少女はぽかんとして首をひねった。
あの子、どうしてボクの名前知ってるんだろう……。
「変な子……」
羽つきリュックの少女も帰途についた。
後片付けが終わって、気がついたとき、部室は祐一と栞の二人きりになっていた。
「祐一さん……」
夕焼けの光がわずかに差し込む薄暗い部屋の中で、二人は固まったように動かない。
うつむいた栞の前髪が、その表情を隠している。
「あ、あ、あの、ご褒美……」
「……なんだっけ」
「わ、忘れたんですか!?」
「忘れた」
「ひどいです……。そんなこと言う人、嫌いです……」
しょんぼりする。
「……い、いや、やっぱり覚えているような気がしないわけでもない気もする」
「ど、どっちなんですかぁ……」
祐一はため息をついた。
「でも、勝負は引き分けで」
「私は勝ちました!! 引き分けたのは祐一さんのせいですっ!!」
グサッときた。
「どうせ俺は子供に負けた男さ。甲子園なんて夢のまた夢の男さ……」
床に『の』の字を書き始めた。
「ゆ、祐一さん……私、がんばりますから。祐一さんのためにがんばりますから。だから甲子園、連れていってください……」
「栞……」
見つめ合う。図らずもいいムードができあがっていた。
栞はゆっくりと瞼を閉じて、ちょっぴり顎を上向けた。
ドキドキ鳴る心臓を必死で静めようと、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
逃げ出したいくらい恥ずかしくて、もう、涙まで出てきそうなほどで。
でも、栞は逃げなかった。
栞は待っていた。
祐一のその行為をずっと待っていた。
こんなに苦しいのに、なんで待っているのか、自分でもよくわからなかったけれど。
でも栞は、息苦しい時間の中、逃げ出したいのをじっと我慢して、ずっと、ずっと……
「…………」
耐え切れなくなり、栞はうっすらと瞼を開けた。
「……え」
そこには誰もいなかった。
栞が逃げるまでもなく祐一が逃げていた。
「ゆ、ゆ、ゆ……」
そうして誰もいなくなった部室に栞の叫びが木霊する。
「祐一さんのバカ――――――――っ!!!!」
●現時点でのオーダー表
ピッチャー 美坂栞
ピッチャー 北川潤
キャッチャー 相沢祐一
キャッチャー 美坂香里
外野 水瀬名雪
?? 沢渡真琴
部員数6人