第5話
グラウンドで輪になったチームメイトを見回し、祐一は言った。
「今日から新しくチームに加わる沢渡真琴だ。ほら、真琴。自己紹介しろ」
「野球の練習なんて真琴がぜったい邪魔してやるんだからっ!!」
「というわけだ。仲良くしてやってくれ」
「今の自己紹介聞いてどう仲良くしろっていうのよ……」
香里が呆れていた。
「真琴ちゃん、あれから祐一さんの家に連れていったんですよね」
「ああ。で、なんかこいつ、記憶喪失らしくてさ。だからうちで引き取ることになった」
「よくそんな簡単に引き取れるわね……」
「文句なら秋子さんに言ってくれ」
と、真琴がさっそく香里の『祝・阪神優勝』バットにマジックペンでいたずら書きしていた。
「ちちちちちちちょっと!? なにしてるのよっ!!」
でかでかと彫ってあった文字は『祝・阪神優勝夜露死苦』に変わっていた。
「……ブッコロス」
香里のウェーブがかった髪がいっせいに逆立った。
「このオバサン怖いーっ!!」
「誰がオバサンよ!? オネエサマと呼びなさいっ!!」
二人の追いかけっこが始まった。
「……なあ相沢。あの子どう見ても高校生じゃないだろ。なのに入部させるのか?」
「いや、勝手についてきただけだ」
「なら初めからそう言えよ……」
「あ、でも真琴ちゃんの入部、私は大賛成ですよ」
しかし甲子園的には問題あり。
「こらっ、真琴」
名雪が得意の超俊足で逃げる真琴に追いついて「めっ」した。
「いたずらしちゃだめでしょ。香里お姉ちゃんに謝って」
「あ、あぅ〜」
真琴が借りてきた猫のようにおとなしくなった。
「真琴はいい子だもんね。だからちゃんと謝れるよね?」
「あぅ……」
「香里も怒らないって言ってるよ?」
「ちょっと、勝手に決めつけないでよっ」
「あぅ……ご、ごめんなさい」
「うん。いい子いい子」
名雪が頭を撫でると、にへらっと真琴が笑う。
こういうところを見ると、名雪は秋子さんの娘なんだなと思う。自分たち部員の中で、きっと名雪が一番大人なのだろう。
名雪は、人をまとめる力がある。陸上部の部長をやっていたことにもうなずける。
もし名雪がもっと野球の知識を身につけてくれたら、このチームのキャプテンを任せるのも面白いかもしれない。
「ううう、あたしの命より大事な阪神優勝バットが……」
「強そうになってよかったじゃないか」
ものすごい勢いで睨まれた。
「あ、こらっ、真琴!」
今度はボールにいたずら書きしていた真琴を、また名雪が「めっ」していた。
「キリがないな……」
このままだと練習どころじゃない。
「でも、なんで真琴ちゃん、そんなに邪魔したがるんでしょう」
「相沢に恨みでもあるんじゃないか? 実は過去に拾ったペットが復讐のために人間に化けて飼い主の元に現れたとかさ」
「いきなり核心つくようなこと言うな」
祐一は真琴の襟をつかんで持ち上げた。
「あぅー離せーバカ祐一!!」
「もう邪魔しないって誓ったら離してやる」
「やだっ! だって真琴、野球嫌いだもん!!」
「あのなあ。おまえ記憶喪失なんだろ? なのになんで嫌いなんだよ」
言った途端、真琴が神妙な顔をした。
「だってこれしか覚えてないんだもん。真琴が野球嫌いっていうのは、記憶を取り戻すための道しるべなの!!」
はた迷惑な道しるべだった。
「……おまえ、じゃあ野球は知ってるんだな」
「そう言ったでしょバカ祐一!!」
「わかった」
パッと手を離す。
「なら俺と勝負しろ。おまえが勝ったら邪魔でも悪戯でも好き勝手やっていい」
真琴がぽかんとする。
「その代わり、俺が勝ったらおまえは金輪際このグラウンドに足を踏み入れるな」
「ゆ、祐一さん、暴力はいけませんよ」
「ふふん」
祐一は鼻で笑って、
「野球の勝負に決まってるだろ」
真琴は意気揚々と素振りをしている。
宣言どおり、真琴は野球経験があるらしい。肘をコンパクトにたたみ込み、バットは腰から繰り出され、足を強く踏み込んでしっかりと振り抜いていた。
まあ、とんでもないアッパースイングではあったが。
「じゃ、俺たちも準備するぞ」
祐一がキャッチャーマスクを被り、ホームベースにつく。
勝負は簡単。祐一たちチームから一本でもヒットを打てれば真琴の勝ち。打者には圧倒的に不利な一打席勝負だ。
といっても、うちのチームは守備要員が限られるので、ちょうどいいかもしれない。
「おっけー」
北川がさっそうとマウンドに上がった。
「誰がおまえを呼んだ」
「はあ? ピッチャーはオレしかいないだろ」
「おまえは球拾いだ」
「祐一、わたしはどうすればいい?」
「名雪は練習もかねてショートに行ってくれ。で、もし球取ったら、すぐファーストに投げろ。誰かにファースト入らせるから」
「オレの剛速球が子供に打てるわけないけどな」
「おまえは球拾いだって」
「相沢君。あたしもキャッチャー志望なんだけど」
「ああ、すまん。今回は俺に譲ってくれ。代わりに審判頼む」
「貸しにしとくわ」
「オレは美坂以外とはバッテリー組みたくないぞ」
「黙れ球拾い」
「あの、じゃあマネージャーの私は、向こうで見学してますね」
「栞。おまえはマウンドに上がれ」
「はい、わかりました……って、えええええええぇぇぇぇぇぇ!?」
栞の悲鳴が木霊した。
「おいおいおいおい!! まさか栞ちゃんに投げさせるのか!?」
「ああ」
場がシーンとなった。
「いくら相手が子供だからって……」
「北川。おまえ勘違いしてるようだな。栞はうちのチームのれっきとしたピッチャーだ」
栞が卒倒した。
「ちょ、おい、ピッチャーはオレだろ!?」
「ああ。おまえは球拾い兼セカンド兼ファースト兼バッティングピッチャーだ」
「ふざけんな!! オレはこのチームのエースなんだぞ!!」
「エースは今日から栞だ」
栞が涙ぐんだ。
「あんた、またそーやって栞をいじめて楽しんでるわけね」
香里が『祝・阪神優勝夜露死苦』バットを構えていた。
「ち、違うって! 俺は本気なんだよ!!」
「冗談言わないで」
「本気だっつってんだろ!?」
「栞は病弱なの。幼い頃からずっと。野球なんてしたことないの。したくてもできなかったのよ!!」
「んなの知るかっ!! 俺はただ栞に投げてもらいたいから言ってんだっ!!」
「あんたのわがままに栞を振り回さないで!!」
「逆だ!! おまえのわがままで栞が野球できないんだろうがっ!!」
「なんですって!!!」
「図星だろうがっ!!!」
「ふたりともやめて――――――っ!!!!」
名雪の大声で我に返った。
「……ね、栞ちゃん。栞ちゃんはどうしたいの?」
名雪がゆっくりと栞のほうに寄っていく。
栞は、びくっと肩を震わせて、
「ピ、ピッチャーなんて、お、おお恐れ多くて、私なんかじゃとても……」
「栞。おまえ、野球好きなんだろ」
「…………」
「野球、やりたいんだろ」
「…………」
「どっちなんだ。やりたいのか、やりたくないのか」
「や、やりたい……です」
栞はぐしぐし泣きながら言った。
「だったら遠慮するな。この前、キャッチボールしたときにも言ったろ」
「……は、はい」
「香里。公正な審判、よろしくな」
「……ふん」
祐一のほうは見向きもせず、それでも審判の位置についてくれた。
「じゃあ名雪も守備についてくれ」
よしよしと栞をあやしていた名雪が、にっこり笑って言う。
「どこ行けばいいの?」
「……いや、だからショートだって」
「うん。それ、どこ?」
「ショートっていうのは……おい北川!! いつまでも惚けてないで名雪を連れてってやってくれ!!」
「へへっ、男の脇役なんて球拾いがお似合いさ……」
暗い顔をして名雪と一緒にショートに歩いていった。
「あぅー、なんでもいいからはやく勝負しようよ……」
真琴が素振りのしすぎでへろへろだった。
「栞。さっさとマウンドに上がりなさい」
香里の声はそっけない。
「う、うん!」
「投球練習はどうするの?」
「祐一さんたちが来る前にひとりでやってたから……」
「……そう」
「栞。サインは覚えているな?」
ピッチャーに要求する球種のサイン。あの夕暮れのグラウンドでキャッチボールをやったあと、栞と覚えあったものだ。
栞はそのとき、遊び半分でつきあってくれていた。
「は、はい……」
「なら受け取れ」
祐一の手から栞の手へ、ボールが投げ渡される。
「ふっふーん。場外ホームラン〜♪」
真琴がアッパースイングしながらバッターボックスに入った。右打席だ。
「おまえやけに楽しそうだな。ほんとに野球嫌いなのか?」
「だ、大っ嫌いだもん!! とくに祐一がっ!!」
俺は関係ないし。
「じゃ、始めるわよ……プレイボール!」
香里の号令で、栞が大きく振りかぶった。
上半身がまるで潜水でもするように深く沈みこむ、本格的なアンダースロー。
地面すれすれに伸びる右腕、そして、しなる指先からボールが放たれ――
「…………」
ころころ地面を転がりながら一塁側ベンチに入っていった。
「……ボール」
そう宣告する香里の声はとても怖かった。
「タ、タイム!」
祐一はすかさずタイムを要求し、マウンドへ走った。
「なにやってんだっ!」
「ご、ごごごごめんなさい!! わ、わた、私、す、すごく緊張して、ふ、ふふふ震えが、止まら……」
栞の声はもはや嗚咽のようだった。
「緊張ったって、べつに観客がいるわけでもなし……」
「で、でもっ、私、こういうの初めてでっ」
「……わかった。とりあえず深呼吸しよう。はい、目を瞑って、大きく息を吸って」
栞が言われた通りに瞳を閉じ、深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「どうだ? リラックスしたか?」
「そんな簡単に無理ですよう……」
栞の手も足もまだ小刻みに震えていた。
「うーむ……深呼吸でダメなら、あとは平手打ちでもかますのが常套なんだが」
「そ、それはできれば遠慮したいですぅ……」
涙目で訴えられる。
「はあ。どうしたもんかな」
ぽりぽりと後ろ頭を掻く。
バッターボックスでは、真琴が勝ち誇ったようにまた素振りを繰り返していた。
その後ろ、香里の冷たい視線が痛かった。
「栞。俺にはどうすればおまえの緊張が解けるのかわからん。だからおまえが考えろ。おまえの身体なんだからな」
「そ、そんなあ……」
栞が情けない顔をする。
「それができなきゃピッチャー交代だ。北川に投げさせる」
栞の顔がパッと輝いた。そうして欲しいと言いたげに。
「でも、俺はおまえに投げて欲しい」
また栞が情けない顔になった。
「栞ちゃーん! だいじょうぶー!?」
名雪がショートから声をかけてくる。セカンドでは北川がまだブツブツ言っていた。
「ほら、バックもおまえを信頼してるぞ」
「よけいプレッシャーになること言わないでくださいよう……」
栞は、しばらくぎゅうっと自分の身体を抱きしめていた。
けっこうな時間が流れ過ぎても、栞はそうしていた。
「ねー、はやくしてよー。真琴の勝ちでいいのー?」
真琴がぶう垂れる。香里はずっと、無表情で栞を見つめている。
「……祐一さん」
「なんだ?」
「あの……お願いがあります」
「ああ。なんでも言ってくれ。そしたらなんでもやってやる。俺はおまえの女房役だからな」
「は、はい。えっと、その……ごにょごにょ」
よく聞き取れない。
「もっとはっきり言ってくれ」
「は、はいっ! あ、あの、わ、わた、私に……」
「私に?」
「その……き、ききき……」
「ききき?」
私にききき?
「そ、そうじゃなくて……あの……キ、キスを」
「…………」
「キスして……」
…………。
「……今、空耳が聞こえたような」
「そ、空耳じゃないですっ! 私、そ、その、あ、あんなふうに、あの、じ、事故じゃなくて、ちゃんとした、その……キスを……」
栞は可愛そうなくらい顔を真っ赤にして縮こまっていた。
「キス……してくれたら……私、きっと、びっくりして……目、覚めますから……」
「…………」
「栞ちゃーん! ふぁいと、だよー!!」
名雪が激励の言葉をかける。北川はまだブツブツ言っている。
真琴がイライラして素振りしている。香里はやっぱり無表情。
そして、みんなの視線はしっかりマウンドに向けられていた。
「こんな状況でできるかぁ!!」
いや、こんな状況でなくても無理。
「ゆ、祐一さん、なんでもやるって言いました……」
「……おまえは俺に死ねと?」
まず真っ先に香里に殺されるだろう。
「あ、あの、おでこでもいいです……」
「根本的な解決になってないぞ……」
もう神に祈りたい気分だ。
「じ、じゃあ、勝負に勝ったときのご褒美でもいいです……」
「……いや、それじゃ意味ないんじゃないのか」
勝負の後に震えが取れても嬉しくない。
「だ、だいじょうぶです! 約束してくれたら、き、気合が入りますっ!!」
「…………」
祐一はうな垂れた。
「……ほんとにいいのか?」
「は、はい」
「……わかった」
祐一はとぼとぼとホームベースに戻っていった。
「始めていいかしら」
「……ああ」
そして勝負は、なんだかんだでようやく再開される。
「プレイ!」
「うぐぅ。なんか試合やってる」
「試合というより対決みたいですね」
羽つきリュックの少女と紫髪の少女は、土手の上に座りながら祐一たちを観戦していた。
「お腹減ったよう……」
今日はタイヤキの調達に失敗した(タイヤキ屋のおやじのガードが固かった)ので、羽つきリュックの子はちょっと不機嫌だった。
「これ、食べます?」
「うぐぅ。なにそれ」
「山葉堂の激甘練乳クレープです」
「もらっていいの?」
「はい」
羽つきリュックの子はほくほく顔で受け取った。
「ふふ……これで共犯……」
「? なにか言った?」
「いえ」
ふたりの視線がまた前方に注がれる。
「祐一君〜がんばれ〜」
「真琴……やっちゃいなさい……」
二人の応援はグラウンドに届く前に春風にまかれて消えた。
●現時点でのオーダー表
ピッチャー 美坂栞
ピッチャー 北川潤
キャッチャー 相沢祐一
キャッチャー 美坂香里
外野 水瀬名雪
部員数5人