第3話




 祐一たち野球同好会一行は土手沿いの道を歩いていた。手にはそれぞれ段ボール箱に詰まった野球器具を抱えている。

「なあ栞。おまえって新入生なんだよな?」

「はい、そうですよ」

「じゃあなんで、もう野球同好会に入ってるんだ?」

 始業式は今日だった。さっき済ませてきたのだ。

 なのに栞は昨日、すでに部室に顔を出していた。

「入学式のほうが先でしたから。それに、部活じゃなくて同好会ですから外部の人でも入部大歓迎ですよ」

「いや……いちおう華音高校の生徒が部員になってもらわないと甲子園に出れない」

「祐一さんってほんと甲子園一筋なんですね」

 華音高校を出てからこうして歩くこと十分、こざっぱりした外観のグラウンドが見えてきた。

 ここが祐一たち同好会の練習場である。市のカルチャーセンターの設備で、ひとり三千円払って会員になれば、事前に予約を入れて使えるようになる。

 土手からグラウンドに降り立って、土の感触を確認。悪くない。実は練習する場も探さなきゃいけないんじゃないかと勘ぐっていたのだが、杞憂に終わったようだ。

「うー。なんでわたし、ここにいるのー。部活あるのに……」

 名雪が恨みがましい視線をよこしてくる。

「安心しろ。おまえの入部届は正式に受理されたから」

「なんで勝手にそんなことするのー。ひどいよ……」

「そんな顔するな。おまえはもう俺たちの仲間、もはや一蓮托生、だからそれなりの自負心と自尊心を持って練習に励んでくれ」

「わたし野球なんてしたことないのに……」

「名雪、嫌ならやめていいのよ」

 香里があさってのほうを見ながら言った。

「おい。せっかく俺が調達してきた部員なんだぞ」

「楽しんで野球ができなきゃ意味ないわ」

 ぶっきらぼうに言う香里の横顔を、名雪が意外そうに見つめた。

「……? なによ」

「香里、野球同好会入ってたんだ。知らなかったな」

「……教えてないし」

「うん。わたしが聞いても、香里ぜったい教えてくれなかったもんね」

 香里が照れくさそうにさっさと歩いていった。

「それじゃ練習の前に、栞。例のものを」

 マネージャーの栞に合図を送る。ちなみに皆の服装は、祐一と香里と名雪が体操着、栞は私服姿だ。体操着じゃないのはいいとして、なんで制服でもないのかは不明だ。

「はあ、なんですか?」

「……いや、部員の運動能力を確認しておきたいんだけど」

「あ、はい。去年にやった体力測定のデータ、言われた通り持ってきました」

 プリントを受け取ってさっと目を通す。

「でも名雪さんは入部したばかりなのでまだデータは……」

「わたし陸上部の部長さんだから足速いんだよ〜」

「今は野球同好会のメンバーだ」

「うー、ひどいよ……」

 データは香里と、北川とかいう男のもの二人分だった。

 50メートル走、ハンドボール投げ、握力、その他諸々。どれもが似たり寄ったりだった。二人とも、男子高校生の平均くらい。

 男女の運動能力の差を考えると、男の北川に匹敵する香里は見上げたものだが……。

「……うーむ」

 しかし女子の中では上位に位置するとしても、野球はやはり男子主体なのだ。男女の能力差は無視しなければならない。

「わたし11秒台前半だよ〜」

 名雪がのんびりと言った。

「陸上部のくせにやけに遅いな」

「そうかなあ。わたし、100メートル走のタイム、部活で一番早いのに」

「は?」

 50メートルじゃなくて100メートル? 聞き間違いかと思った。

「それとも10メートル走?」

「そんな短い距離計ってどうするの……。100メートル走で11秒だよ」

「…………」

 そのタイムは全国大会の上位レベルだぞ。しかも男子の。

 女子だと12秒台前半を出せば大会新を記録できるはずだが……。

「それが本当だとすると、足は名雪がダントツってことになるな。まあストップウォッチの故障だとは思うけど」

「本当だよう……」

 ちなみに俺は12秒を切れるか切れないかってところだ。

「じゃあ名雪、ちょっといいか」

「なに?」

「テストだ。グローブ持って外野行ってくれ」

「外野って何?」

「……向こうの広いところに行ってくれ」

「うん、わかった」

 駆け出そうとする。

「待て待て!! ちゃんとグローブ持っていけ!!」

「グローブって何?」

「グローブってのは……栞、任せた」

「はい、お任せください」

 敬礼までして応えてくれた。祐一はため息をついた。前途多難だった。

「お。今日はやけに人が集まってるねえ」

 後ろから声が飛んできた。

 見知らぬ男がずかずかとグラウンドに踏み入ってくる。頭のてっぺんにアンテナみたいな毛が立っていた。

「なんだ、おまえ」

「……いきなりご挨拶だなあ。部員だよ。この野球同好会の」

「あ、北川君」

 名雪がすかさず声をかけてくる。

「ほう、こいつが北川か」

「こいつって、クラスで祐一の席の後ろに座ってたでしょ……」

「俺はこんなアンテナ野郎は知らん」

「アンテナ言うなっ!!」

「やーいやーいアンテナアンテナー。アンテナは電波受信してお茶の間放送流してろー」

「ひ、人が気にしてることを……。うおおおおおおん美坂ああぁー!! 相沢が苛めるようっ!!」

 北川は獣のような雄たけびを上げながら去っていった。

「祐一さんっていじめっ子だったんですね……」

 栞が悲しげにつぶやいた。

「ていうか、どこ行くんだあいつは」

「ブルペン(投球練習場)みたいですね。お姉ちゃんもそこで準備体操やってますし」

 そういえば香里もさっきから姿が見えなかった。

「北川さんとお姉ちゃん、バッテリー組んでますから」

「組んでるというか、組まざるを得ないというか」

「それは言わない約束ですよう」

 名雪の準備が整ったようなので、外野に向かわせる。

「じゃ、名雪。これからおまえにはノックを受けてもらう」

「え、なにー? 聞こえないよー!」

「これから球が飛んでいくからグローブでキャッチしろ!!」

「了解だよ〜!!」

 カキン、と快音を響かせて白球が青空に舞った。

 名雪はぽかんと見上げていたと思ったら、きょろきょろして、あたふたして、ぐるぐるとその場を回りながらどうにかボールを捕獲した。

 定位置に落ちるように打ったので、これで取ってくれなかったらどうしようかと悩むところだったが……とりあえず合格。

「名雪! バックホームだ!」

「バックホームってなにー!?」

「その球をこっちに向かって思いきり投げろ!!」

「了解だよ〜!!」

 名雪はぎくしゃくとした動きで右腕を天高く伸ばし、勢いつけて振り下ろした。

 ボールは転々と転がってセカンドベースにたどり着く前に沈黙した。

「……不合格」

「で、でも名雪さん、初心者ですし」

 栞がとっさにフォローした。

「うー。肩が痛いよーっ」

 名雪は右肩を抑えながら地面にうずくまっていた。準備運動も肩ならしもやっていなかったから当然だった。

「……うーむ、どうするかな」

 名雪の足を考えれば外野を守らせるのが妥当だ。しかし同時に、肩の強さも必要なのだ。これではセカンドでランナーを刺すこともできない。

 そしてもちろん、守備候補としてピッチャーとキャッチャーも消えた。どちらも肩の強さは外野と同様に重要なのだ。

 なら残った候補は、内野しかない。

「祐一さん。強肩じゃなくたって、ランナーは刺せますよ」

「……中継プレーか」

「はい」

 たしかにチームワークという武器もある。個人の能力だけで野球はできない。

「うー。わたし、野球嫌い……」

 いきなりチームワークを壊しかねない発言をしながら名雪が戻ってきた。

「名雪。おまえの練習メニューを発表する。明日から200キロのダンベル担いでうさぎ跳びで登校だ」

「無理だよー!!」

「なんだと!? それができないなら即刻ここから立ち去れ!! おまえみたいな根性なしはもう必要ないっ!!」

「うん。わたし、そろそろ陸上部に戻るね〜」

 叱りつけてやる気を起こさせるつもりが逆効果になっていた。

 後悔したときには、名雪の姿はグラウンドから消えていた。

「ふっ、獅子は我が子を強くするため千尋の谷に突き落とすとはまさにこのこと」

「祐一さん……」

 栞に睨まれた。

「祐一さんは本当に部員を集める気があるんですか……」

「い、いや。名雪のことは心配ない。家に帰ったら説得しておくから」

「え? 祐一さん、名雪さんと一緒に住んでるんですか?」

 がすっ。

「い、痛いです! なんでいきなりチョップなんですか!」

「記憶消去のため」

「そんな簡単に消去できませんよう」

 拗ねられた。よしよしと頭を撫でる。

「ひゃっ、ななななななにを……」

 逃げられた。頭を両腕で隠すように抑えて、沸騰したように顔を真っ赤にしながら。

 そしてなぜか涙ぐんでいた。

「あんた、性懲りもなくまたあたしの妹に……」

 背中に突き刺さる殺気があった。

「今度こそこの『祝・阪神優勝』バットのさびにしてくれるわ……」

 香里がすでにフルスイングのモーションに入っていた。

「お、お姉ちゃん! 私なら平気だから、ちょっと触られただけだからっ!!」

「そう。覗きだけじゃ飽き足らず、痴漢まで働いたわけね……」

 一本足打法に進化した。

「違うって! 栞も誤解されるようなこと言うな!!」

 栞があわてて祐一たち二人の間に立つ。

「そ、そうだ、お姉ちゃん。祐一さんに北川さんの投球、見てもらおうよ」

 取り繕うように提案した。

「なんでこんな変質者に見せなきゃならないのよ」

「しつこいぞおまえ。俺は変質者じゃない。このチームの主将だ」

「ふざけないで」

「あ、で、でも祐一さん、野球とっても上手そうだよ。さっきノック見たんだけど、名雪さんのちょうど頭上に打ち上げてたから」

「ふーん。で、名雪は」

「え、えっと……」

「陸上部に戻ったよ」

 祐一の言葉に、香里は「そう」とだけつぶやいてブルペンに戻っていった。

 あとに続くと、後ろから栞もぱたぱたとついてきた。

「美坂ー。続けていいかー」

 ブルペンのマウンドでは北川が肩をぐるぐる回していた。香里がホームベースの後ろにつき、投球練習が再開される。

 祐一はフェンス越しに北川の投球フォームをチェックした。

 腰をねじらせ、伸ばした右腕が鞭のようにしなって空を切る。左ひじはちゃんとコンパクトにたたみこみ、スムーズな重心移動を可能にしている。

 そして投げた後も、足腰はしっかりと安定していた。

「ふむ……」

 今度は香里の捕球をチェックする。

 申し分なかった。踵を浮かせて座り、左右の移動もなんなくこなせる姿勢。返球のフォームも無駄がなく、しっかりと相手の胸に返していた。

「へえ……」

 祐一は素直に感心した。自分もキャッチャー志望なのだ、いいポジション争いになるかもしれない。

 といっても、争うほど部員数はいないわけだが。

「ふふん。オレの剛速球、そこで目を見開いてよく見てな」

 北川が調子よく声をかけてきた。

「速球だけか? 変化球は投げられないのか?」

「バカ言うな。カーブ、スライダー、フォーク。どれも一級品だぜ!」

 宣言通り、北川は三種類の変化球を披露した。変化の切れ、コントロール共に、祐一が感心できるレベルだった。

「ちょっとお邪魔」

 ブルペンに入り、祐一はバットを持ってバッターボックスに立った。

 香里がギョッとする。北川はもう投球モーションに入っていたが、にやりと不敵に笑い、打てるもんなら打ってみろと言わんばかりに渾身の力で腕を振った。

 推定時速、130キロ前半の速球。これはじゅうぶん強豪校レベルのスピードだ。高校平均は120キロ台なのだから。

 だから祐一は感心した。

 しかしそれは、同好会での話であって。

 祐一は軽くバットをスイングし、速球を弾き返した。

「なにいいぃぃぃ!!」

 北川は間抜けな顔をして雄たけびを上げた。

 強烈なライナーが北川の頬をかすめ、背後のフェンスに激突した。

「まあ、こんなもんだろ」

「こんなもんだろ、じゃないでしょっ!!」

 香里が憤然として蹴りを入れてきた。

「こっちはキャッチャーマスクつけてないのよ! チップでもしてボールがあたしの顔に当たったらどうするのよっ!!」

「そんなヘマはしない」

「な、なぜオレの球がこうもたやすく……」

 北川はがくりと膝を折って燃え尽きていた。

「ゆ、祐一さん、すごいです。内角低めのきわどいボールをあんなにあっさり……」

 栞が尊敬の眼差しを送ってくる。なんだか照れる。

「まあ、北川の球はわかりやすかったからな。投げるテンポがいつも同じだし、変化球と速球で腕の振りが違うから的を絞りやすいし」

「それでも、すぐ実践なんてなかなかできないですよ。祐一さん、野球やってたんですよね? 今年転校してきたって聞きましたけど、前の学校、とっても強かったんじゃないですか?」

「んなことはない」

 祐一はブルペンから出た。

「すまんな、練習の邪魔して」

「ほんと邪魔だったわ」

 つんと香里がそっぽを向く。

「まったく、どうしてくれるのよ」

 香里がしょうがないなあといったふうに、いまだブツブツ言っている北川のところに寄っていった。

 栞を連れて、またグラウンドに戻ってくる。

「うーん、どうするかなあ」

「みんなのポジションですか?」

「ああ。迷うほどまだ部員は集まってないけどさ」

 しかしピッチャーくらいは早急に探さないと、バッティング練習にも支障をきたす。バッティングピッチャーというのは重要なのだ。球威はともかく、コントロールが良くなければ練習にならない。

「北川ひとりじゃ負担だろうしな……」

「ピッチャーですか?」

「ああ。バッティングピッチャーと、それとチームのエース」

「エースは北川さんじゃダメなんですか?」

「だめだな。200キロのダンベル担いでうさぎ跳びで登校しても無理だ」

 キャスティング的にも無理。脇役は辛いのだ。

「はあ……」

 ため息をつく。グローブをはめ、ボールを手の平でもてあそぶ。

 あっさりとやることが尽きた。暇だった。

 ここには祐一と栞、ふたりだけ。広々としたグラウンドが祐一には泣いて見えた。

 部員が少ないというのは、こうも寂しいものなのか。

「栞。キャッチボールするか?」

「え、で、でも私、マネージャーですし」

「気にすんなって。軽く遊び程度でさ。ほら」

 グローブを投げて渡す。栞があたふたして胸全体で受け取った。

「右利き用のやつでいいか?」

「あ、は、はい」

 いくぶん距離を取って、円を描くようにボールを放った。

 ぽす、と栞はキャッチした。

「なんだ、様になってるじゃないか」

「そ、そうですか? えへへ……」

 今度は栞が投球する。サイドスローだった。

 すこしずつ距離を離していって、何回かボールを投げあったところで。

 祐一は奇妙な違和感を感じていた。

「……なあ、栞。おまえ、野球の経験あるのか?」

「ないですよ」

「ほんとか?」

「はい、ずっと病院暮らしでしたから」

 沈黙が落ちる。

「……そっか」

「はい。あ、でも、看護婦さんに内緒でボールで遊んでました。お姉ちゃんから誕生日にもらったんです。このストールと一緒に」

 栞がその場でターンすると、肩にかかったチェック柄のストールがふわりと浮き上がった。

「……栞。マウンド立ってみろ」

「は、はい?」

「いいから」

 祐一はキャッチャーの定位置に腰を落とした。

「そこから思いっきり投げ込んでこい」

「え、で、でも」

「野球、好きなんだろ?」

 栞はためらって、それからこくんとうなずいた。

「なら、遠慮することなんかない」

「わ、わかりました……」

 栞がおずおずと投球動作に入る。

「そんなに緊張しなくていいから。リラックスして」

「は、はい」

 ゆったりと栞の身体が横に傾き、腰の下から腕が繰り出される。サイド気味の下手投げ。

「もっと上半身を落としてみろ。地面につくくらいに」

「は、はい」

 ぱすんと軽い音を立ててボールが放り込まれた。それを何度か繰り返す。

「もっと手首にスナップをきかせて。腕をめいっぱい大きく振って」

「は、はいっ!」

 栞の上半身が沈む拍子に、ストールが風になびき、蝶のように優雅に飛んだ。

 サイド気味だった下手投げが、綺麗なアンダースローに生まれ変わる。

 そしてボールは、また、祐一の構えたミットの中に吸い込まれるように収まった。

 球速にして、110キロ前後。

「変化球は投げられるか?」

「真似事でしたら……」

「じゅうぶんだ」

 山なりの軌道を描くスローカーブ。おそらく90キロも出ていない。

 小さく横に曲がるスライダー、小さく沈むシンカー。

 速球と同じフォームとタイミングで投げるスローボール、いわゆるチェンジアップ。

 そのどれもが、三振など到底奪えない球だった。

 なのに、これは……。

「栞、これで最後だ」

「はい!!」

 なのに、栞の投げる球、そのどれもが、祐一の構えるミットに――左上に構えれば左上へ、右下に構えれば右下へ、正確に、寸分の狂いもなく突き刺さっていた。

 普通では考えられないほどのコントロール――――

 祐一は光明を見た気がした。








 そんな二人のキャッチボールの光景を、ひとりの女の子が眺めていた。

「あれは……」

 その女の子は春真っ盛りなのにダッフルコートを着ていて、背中には羽のついたリュックを背負っていて、手にあるタイヤキ入りの紙袋は抱えきれないほどだった。

「祐一君……。帰ってきて、くれたんだ……」

 羽リュックの女の子は草の敷かれた土手に座り、日が暮れ始めるグラウンドを眺めていた。

「約束、守ってくれたんだ……」

 女の子はたくさんのタイヤキ(全部盗品)をぱくつきながら、グラウンドに落ちる二つの影をいつまでも眺めていた。

 タイヤキはすこししょっぱくて、なんだか懐かしい味がした。








●現時点でのオーダー表

 ピッチャー  北川潤

 キャッチャー 相沢祐一

 キャッチャー 美坂香里

  外野    水瀬名雪

 マネージャー 美坂栞

 部員数5人




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