プロローグ




『試合もいよいよ大詰めです! 夏の高校野球決勝戦、9回裏の攻防。得点は3対2。2アウト満塁。迎える打者は今大会3ホーマーの南の怪物、国崎往人。今、左バッターボックスに入りました!!』

 興奮しきったアナウンサーの声を耳にし、相沢祐一は顔を振り仰いだ。

 高く澄んだ青空に、巨大な入道雲が雄大な姿を浮かべている。

 中天にかかる太陽から放射される熱線が、このマンモス球場を容赦なく照り焦がしていた。

 そんな熱気をさらに増長するようにして、歓声とも耳鳴りともつかない大音量がグラウンドに押し寄せる。

 ワアアアァァァァァ!!

 太鼓を叩きまくる応援団。勇壮的なテーマ曲を奏でるブラスバンド。スタンド全てを埋め尽くした熱狂的観衆のボルテージは今や最高潮に達し、巨大な球場は怒号に震えた。

 阪神甲子園球場――――

 夏の全国高校野球選手権大会・決勝。

 だが、周囲の大声援とは反比例して、マウンドに集まる祐一たちナインの表情は沈痛だった。

「大丈夫だ。心配するな……」

 祐一らチームの信頼するエースが、ナインをぐるっと見回した。ひきつった笑みを浮かべて、その顔はもう汗だくで、体力の限界を物語っていた。

『得点差はわずか1点。一打逆転のチャンス。観客の声援に応えることができるのでしょうか、今大会屈指のスラッガー、絵亜高校の国崎往人……おおっと、これはー!? 予告ホームラン、バットを高く掲げての予告ホームランです!! しかもバットを放り投げて……そのバットが空中で回転し出したー!! 大道芸、大道芸ですっ!! やはり南の怪物の名は伊達じゃないぃ!!』

 最高潮に盛り上がるアナウンサー、そして絵亜高校応援団。

『おおっと、ここで絵亜高校野球部の監督を務める神尾晴子監督がハリセン片手にベンチから出てきましたねー。これはどうやら……バッター交代のようです!! さすがに悪ふざけが過ぎたか、南の怪物国崎往人!!』

 それでも絵亜高校の応援団は静まる様子をまったく見せない。

『バッター国崎往人君に代わりまして、背番号3番の遠野美凪さんがバッターボックスに入ります。彼女は今大会初めての打席ですが……しかしお聞きください、この大声援。これが絵亜高校の誇るシャボン玉職人、遠野美凪の実力だああぁぁ!!

 マウンドに立つエースが祐一たちナインを守備位置に戻した。祐一はためらいがちにキャッチャーマスクを被りながら、左のバッターボックスにぼんやりして立つ美凪の横顔を眺めた。

 南の怪物はもはや去った。だから、大丈夫だ。

 シャボン玉職人だかなんだか知らないが、きっと抑えられるはずだ。

 そうだ、ここを抑えれば、俺たちは……!

「プレイ!」

 審判の号令とともに、あらゆる視線がピッチャーとバッターに注がれる。スタンドから、TVの前から、あるいはラジオの前で拳を握り締める数百万の野球ファンから。

『ピッチャー、ランナーを気にしてなかなか投げません。サードランナーの霧島聖、セカンドランナーのみちる、ファーストランナーの神奈。いずれも俊足です』

 しかし今はツーアウト。ランナーなど気にしてもしょうがない。それだけピッチャーにプレッシャーがかかっている証拠だった。

『一球、二球とストレートが外れました。ピッチャーは随分と苦しそうです。帽子を脱いで額の汗をぬぐい、ロージンバッグに手をやりました』

 そして、第三球。

 本来なら140キロを誇る伸びのある速球は、しかしこの時、切れも伸びもないただの棒球だった。

 とろんとした目つきでやる気なさそうにスイングした美凪のバットが白球を捉えた瞬間、白球は快音を残し、左翼スタンドへ向かって舞い上がった。

「飛ばない打球に意味はないんですよ……」

 つぶやく美凪の言葉を耳に入れる余裕もなく、祐一は立ち上がってマスクを放り投げた。

 甲子園特有の、右から左に流れる浜風に乗り、打球はさながらシャボン玉のようにふわふわと浮かび、スタンドの観衆に誘われるがごとく伸びてゆく。

 左翼手が必死に打球を追いかける。

 ポール際のフェンスによじ登り、グローブを青空に向かってせいいっぱい差し伸ばす。

 だが、だがしかし――








 気がついたとき、祐一は涙を浮かべていた。

 ――――逆転サヨナラ満塁ホームラン。

 無情に轟く歓声の中。

 彼の一年目の夏は、終わりを告げた。




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