研究調査レポート No.11
2016年10月10日

鉄道の運転設備を見る
その3 折返式停車場の運転設備

永瀬 和彦

 はじめに
 本稿は昨年に掲載した「鉄道の運転設備を見る‐その2 北海道新幹線在来線共用区間の駅設備‐」の続編で、今回は折返式停車場(スイッチバック停車場)をテーマにさせて頂いた。ファンに根強い人気のあるこの停車場は山岳線区に多く存在し、愛好家が撮影した停車場近くを走るSLの美しい写真が数多く公にされ、関係者を魅了してきた。江上英樹氏作成のこれを主題としたHP(http://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/index.htm)や、鉄道ファン「スッチバック特集号」(祖田圭介氏、2003年8月号)などによって、数多くの貴重な画像が公にされ、忘却の彼方にあった停車場の姿も蘇った。筆者は雪の信越線関山や石北線常紋信号場などで撮られた美しい写真を拝見し、撮影者のご苦労を思ったものである。時は流れ、今やSLは天然記念物的な存在となり、後述する折返式停車場の多くは、絶滅危惧種に指定されたに等しい。そこで今回は、この種の停車場を「運転設備」と言う専門的な視野から捉えて、私見を述べさせて頂く。

 折返式停車場とは
 戦前に鉄道省大阪鉄道局が編纂した鉄道辞典の折返停車場(スイッチバック停車場‐何故か「式」は省略されている)の項には、「勾配線にして停車場を設くること困難なる箇所に、急勾配線の中間より、水平又は緩勾配の線路を分岐挿入し、その線路に設けた停車場を言ふ。」とある。一方、旧運輸省令・鉄道運転規則の「折返し式停車場」の用語解説には、「急勾配線区等で、列車の進行方向を変更しなければ、列車を停車場外の本線から直接に乗降場に到着・・・・発車できない構造となっている停車場」とある。ここで言う「乗降場」の中には貨物駅や信号場の着発線なども当然に含むと解釈すべきであろう。辞典の定義によれば、折返式停車場は本線に分岐挿入した線路上に設けられているので、列車はこの線路を往復し、その際、どちらか一方では進行方向を変えることになる。省の解説も全く同じようなことを述べている。この定義によるならば、JRの遠軽、十和田南、会津若松、早岐、そして、今は亡き旧国鉄の大網、東唐津、写真1に示す宮野城線薩摩永野など、そして、私鉄では東武・柏、飯能、箱根登山の行止り式の3停車場、小田急・藤沢、富士吉田、富山地鉄・上市、新可児、養老・大垣、一畑口及び伊万里などは、定義に沿った停車場には入らないことになる。これらの駅は、本線から分岐挿入された線路を通過することなく、本線から直接に駅に進入し、駅から本線に進出出来るからである。箱根登山鉄道にスイッチバック駅などないと申し上げたら、大勢の方々から激しい非難を受けることになると思う。だが、箱根登山の大平台駅と上大平台信号場との僅か500mに満たない短距離で折返しが行なわれてはいるが、両駅は別個の停車場で、その間は駅の構内ではない。よって、「箱根登山には『この定義』で言うところの折返式停車場は存在しない」と申し上げているのであって、この定義に沿わない駅はスイッチバック駅に含めるなと主張している訳ではない。筆者は、定義には該当しないこれらの駅の特殊な配線にも少なからぬ興味をもって調べており、これについては別の機に私見を申し上げることとし、本HPでは、先に述べた定義に沿って話を進めさせて頂くことにする。
 折返式停車場の多くは山線の連続勾配区間にあり、東北線沼宮内〜一戸(西岳、滝見)、山田線(大志田、浅岸)、中央東線大月〜塩山(初狩、笹子、勝沼)、塩崎〜小淵沢(韮崎、新府、穴山、長坂)、奥羽線庭坂〜米沢(この間にある全四駅)、篠ノ井線冠着〜稲荷山(羽尾、姨捨、桑ノ原)、肥薩線(大畑、真幸)、それに北陸トンネル開通前の敦賀〜今庄間の旧杉津ルート(新保、葉原、山中)などは「スイッチバック銀座通り」と言うべき区間で、信号場を含めて多くの折返式停車場が存在した。その多くは複線化、電車化、貨物扱廃止、列車本数削減などにより閉店し、北陸線に至っては今から半世紀以上も前の昭和37年に北陸トンネルの開通により杉津ルートが廃線となったために、ここに多くの折返式停車場があったことを知る人は少ない。当時の付近のダイヤを図1に、山中信号場を通過するDF50が先頭の後補機付重連貨物の勇姿を写真2に示す。



 折返式停車場には、函館線の仁山や中央東線の新府のように後述する「第1出発信号機」の現示によって加速線に退行した後に、第2出発の現示で発車する駅も含まれる。現在は廃止されたと思うが、東北線奥中山の待避線に発着する列車が加速線へ退行する際の短小な移動は、入換信号機の現示で行なわれていたとされる(吉江一雄氏著:「停車場の配線を診断する」)。停車場と本線とを跨って運転する列車は、分割・併合を行なう場合を除き、閉塞方式による運転(すなわち、駅構内を運転する場合も、場内又は出発信号機の現示に従っての運転が必要−これを言い換えれば、入換による列車の運転は原則認めないと言うこと)に限るとされる中にあって、入換信号機を用いた構内運転方式による列車の退行という極めて特殊な取扱がなされていたとされる当駅を、折返式停車場の範疇に入れるべきか否かについては、識者のご意見を伺いたいと思う。
 

折返式停車場にある特殊な運転設備と配線
 前述の定義に則った折返式停車場には、箱根登山3駅、飯能、小田急・藤沢、東武・柏などには見られない特殊な運転設備がある。以下には、この定義に基づく駅の配線及び運転設備について論じて見よう。折返式停車場は駅進入又は進出の際に必ず一度は駅構内の折返線(「転向線」又は「待避線」なる名称で呼ぶ駅もある)で折り返す。ところで、列車は前述のように併合又は分割する場合を除き、入換を行なわないのが原則である。従って、駅の着発線と折返線との往来も、列車として信号機の現示に従って運転する。このため、折返線へ出入する際は、本線と同じように出発又は場内信号機の現示に従って運転する必要がなる。これを判りやすく説明するために作成した図2は、単線区間の代表的な折返式停車場の配線例で、着発線は上下に分かれ、しかも、上下の列車が同時に駅に発着できる配慮がなされている。これと類似の駅(但し、渡りはシーサスではない)が篠ノ井線の姨捨(写真3)である。

 下りの通過列車は図2に示す線路図の「下り場内」信号機の右側「通過」のG現示を受けて通過し、停車列車は左側の「下り本線」Y現示により直接に下り本線に到着する。下り本線から発車の際は、下り本線第1出発のY現示により推進状態で折返線へ退行し、一旦停止した後に「折返線」信号機右の下り第2出発(写真3では右側信号機)のG現示により下り方に出発する。折返線までの運転は「退行」なので、前部標識はそのままとし運転台は変更せず、運転するのが原則である。発車時刻は駅ホーム又は着発線発車の時刻で採時し、通過列車は場内信号機通過時刻で採時するのが原則である。写真4は、図2に類似した配線(但し、複線)の奥羽線旧峠駅で、下り列車が第1出発のY現示を受けて折返線に退行する状況を示す。図示のように機関士は窓を開け、進路の信号を注視しており、退行なので前部標識(前照灯)は点灯したままである。しかし、近年、折返線と着発線との間を推進状態で退行するのは好ましくないとの「行政指導」を受け、これを取りやめた鉄道もある。

 上りの通過列車は、図2の「上り場内」信号機の右側信号機のG現示により当駅を通過し、停車列車は左側の「折返線第1場内」のY現示により折返線に進入して一旦停止した後に、「折返線」信号機左の上り第2場内(写真3では左側信号機)のY現示を受け、推進状態で退行して上り本線に到着する。折返線からのバック運転も「退行」なので、運転台は変更しない。退行する際、機関車の運転台から運転士が行なう「進路の信号注視」に支障がないように、図示のような上り第2場内に退行用中継信号機を建植するなどの措置が行われている(写真5参照)。上り本線に到着した上り列車は、上り本線出発のG現示により、上り方面に出発する。その場合、列車は図2に示すように渡り線を渡って上り方向に進む。続行列車や交換した下り列車の折返し線への出入を妨げる事態を防ぐためである。

東京近在にある折返式停車場(隅田川、浜川崎、北府中)
 常磐線・メトロ日比谷線の南千住駅前にある隅田川貨物駅が折返式停車場であることはあまり知られていない。当駅と常磐線岩沼方との間を往来する列車は、常磐本線と三河島貨物線の間にある写真5に示す折返線に一旦は入線する。進出する列車が駅から折返線に向う際は写真6に示す第1出発信号機の指示により、反対に到着列車が折返線から駅に向う際は写真5に示す中継信号機の内方に設置された第2場内信号機の現示により、いずれも、列車として推進状態で退行する。折返線は写真5に示すように曲線上にあり機関車から折返線用信号機の見通しが悪いために、写真に示すような中継信号機が設置されている。岩沼方面から直接に墨田川貨物駅に線路を敷設することは地形的に無理なので、この駅は鉄道辞典に照らしても、紛れもない折返式停車場である。東海道貨物支線・南武支線の浜川崎駅と汐留方とを行き来する列車も、八丁畷方にある折返線(写真7,8)でスイッチバックする。折返線は、当駅と車両所のある隣の川崎貨物駅との間で検査用の貨車を回送する場合に限って使われている。武蔵野線北府中も新鶴見方と当駅とを発着する貨物列車に限って、スイッチバックが行なわる折返式停車場である(写真9,10)。

 山手貨物線を運転する列車が田端信号場に出入りする場合、列車は上中里と王子の間にある着発線に一旦は入線し、そこで方向を変えて品川方に出発し又は田端に到着する。だから、田端信号場は折返式停車場のように見える。しかし、田端では、この着発線が実質的な乗降場(ホーム)の役割を担っており、本線から直接に着発線に発着できる。そして、この着発線と田端信号場との間の移動は車両の入換、つまり、列車とは見做さない構内運転方式(入換信号機の現示)に拠っているので、当駅は折返式停車場ではない。もっとも、武蔵野線が開通するより前の山手貨物線全盛時代(昭和40年代末まで)は、田端操車場駅から新鶴見方面に向う多くの貨物列車は京浜・東北南行線に隣接した山手貨物線専用の発車群線から第1出発信号機の現示に従って推進状態で退行を開始し、上中里近くにある山手貨物線と東北貨物線との分岐点付近まで1キロ以上退行した後に、折り返して品川方面に出発していた。田端操車場には専用の折返線はなかったが、東北貨物線の本線を折返線として使用し、発車時刻は出発信号機の現示で退行を開始した時点をとしていたので、この駅は当時は紛れもない折返式停車場であった。


複線区間の折返式停車場
 戦前に東海道線が現在の御殿場線ルートを辿った時代、山北〜裾野間にあった折返式の谷峨、足柄、富士岡及び岩波信号場(多くは後に駅に昇格)が複線区間に設けられていたのを例外とすれば、折返式停車場の多くは単線の山岳区間にある。例外的に複線区間にある折返式停車場の多くは、前述のように日に数本の貨物や不定期列車が折返線を使うに過ぎず、現在の中央東線笹子もこの中に含まれる。そのような所では、運転取扱の上で大きな問題は起きていない。ところが、毎日、多くの定期列車が発着する折返式停車場が複線区間にあると、問題が起きる。駅に出入する際は、対向線路を横断しなければならないからである。奥羽線の33.3‰(一部は40‰)の急峻な勾配が連続する赤岩〜大澤間は開通当時から全て折返式停車場で、昭和43年以降は一部を除き複線化されて複雑な配線だったが、山形新幹線開通を機にすべて棒線化された。当時の峠駅の信号機などを操作する制御盤を写真11に示す。当駅は写真に示すよう山側にホームが、海側に折返線があるため、駅に着発する列車は対向線路を2度横断した。このため、対向列車の遅れが、単線区間と同様に自分の列車にも及ぶことになる。制御盤の上部に掲げられた「列車着順票」は、下り495列車が14:51に当駅を通過した直後に、上り428列車が折返線から下り本線を横断して14:5430に上り本線に到着することを示している。峠では折返線を発車してから上りホームに着くまでに約2分程度を要する。下り495列車の駅通過からポイントを転換し終えるまでに1分程度は要するであろうから、下りが少しでも遅れると上りも忽ち遅れることになり、山奥の停車場は大都会の通勤線区と同様にダイヤが輻輳していることが判る。峠駅の担当者は、隣駅から通過列車の現発通知が来ないのを不審に思って指令に問い合わせて初めて遅れを知り、到着や通過順序の変更を指令に要請するのが通例で、問合せや要請をしないと各停列車は放置される場合が多く、ホームや折返線で長時間停車を強いられて増延する列車が多々あると嘆いていたことを思い出す。

 中央東線は昭和40年代の初めにほぼ複線化された時点で、多くの折返駅が棒線化された中にあって、韮崎と長坂とは貨物扱の関係で折返式停車場が暫くは存続した。韮崎の旅客ホームは勾配線上に移され、折返線の使用は貨物列車に限られていたが、長坂は昭和47年までは貨物を取り扱っていたため、暫くは棒線化を免れた。図3に複線化後の長坂の配線を示す。複線化に際しては、奥羽線の複線区間にあった折返停車場のように発着列車が本線横断する機会を減らし、さらに、続行する下り特急の進路を支障することなく停車列車が入駅出来るよう、折返線は上下線間に設置された。図には主な信号機が担う役目を注記した。一見すると、非常に複雑な信号配置に見えるが、運転方法や信号機配置の考え方は図2でお話したと全く同じで、上下貨物が着発する「下り1番」なる副本線があるために、これに対応した信号機が追加されているに過ぎない。筆者は当駅構内の当時の写真は残念ながら所持していないが、昭和35年3月ころ、当駅の終端付近から撮影したDF重連機が引く下り準急「白馬」の雄姿を写真12に示す。




通過できない折返式停車場
 現代の折返式停車場の多くは山間の小駅や信号場であるため、篠ノ井線や土讃線の優等列車に乗車すると、列車はホームから離れた場所に設けられた渡り線を通過するため、多く乗客は駅を通過したことすら気付かないと思う。一方、地形の関係で往年の草軽電鉄の「二度上げ駅」と同じ運転を今も行なっている出雲坂根及び立野を除けば、通過できない現代の折返式停車場はJR九州肥薩線の大畑及び写真13に示す真幸に限られる。ところが、昔の折返式停車場の多くは通過線を持たなかった。磐越西線中山宿に通過線が未だなかった昭和35年当時の姿を写真14及び写真15に示す。通過線がないために信号機の配置は非常にシンプルである。当時も既に上野〜会津若松、仙台〜新潟間に多くの優等列車があったが、深夜時間帯にこの駅を通る列車も「通常の停車」、つまり、客扱と荷扱とを行なっていた。駅と話を交わした際、降雪地帯であるのに複雑なメカの塊である機械集中式の転轍器を使っていることに話が及んだとき、機器類に手入れするための油脂の配給が不足気味で、自宅の灯油を持参して補っていると話をされたのを思い出す。その折に通過線の必要性を質したところ、通過線がなくても未だ充分に対応出来るので、その必要ないと断言したのに少し驚いたことがある。当時の中山宿は山間の駅ではあるが、全列車が停車することを駅関係者は誇りにしていたのであろう。





 明治時代の資料を紐解くと、折返式停車場の銀座通りとも言うべき前述の奥羽、信越、中央、篠ノ井線にあった当時の折返式停車場の多くには、信号機の現示と転轍器の開通方向と間に縛りを掛けて安全性を確保する連動装置が、既に上野や名古屋のような主要駅と並んで導入されている旨が記載されており、山間の折返式停車場の安全確保が重視されていたことがわかる。それらの資料をみると、折返駅の殆どは通過線が設置されていない。この中で、唯一、通過線を持つ奥羽線赤岩信号場と、通過線がない駅の例として篠ノ井線の姨捨駅について、旧国鉄本庁に相当する当時の鉄道作業局が作成した連動装置要覧の抜粋を図4に示す。本資料はJRの信号関係幹部の方の所蔵品を特別のご好意で開示して頂いたものである。図に記載された諸々の名称を見ると、当時は未だ折返線や転向線なる名称はなく、信号機の建植方法や名称付与の方法も統一されていないことが分かる。

おわりに
 筆者は昭和50年代中ごろに、国鉄で折返式停車場に関する業務に僅かではではあるが関与したことがある。そのころの折返式停車場に出入りする列車は、前述のように折り返しの際に運転台を交換することはなく、全て推進状態で退行していた。ところが、推進状態で運転する列車に対するATS地上側設備は、上野〜尾久間で定例的に行なわれていた回送客車列車の推進運転(ここでの運転は退行ではないから、先頭の客車に前部標識、後部の推進機関車は後部標識を点灯する)に限って、対応を行なっているに過ぎなかった。当時、国鉄は主要幹線向の新しいATSを開発中であったが、車両側の担当として末席に名を連ねていた筆者は、さる会議の席上でこの問題に言及した。折返式停車場を推進状態で出入りする列車も新しいATSを使用することになるが、機関車列車と電車列車とが同じ線路を退行するとき、双方の列車ともにATSの機能を適正に維持するのは、かなり難しいと思われたからである。特に機関車の場合には、ATSが機能する方向の切換方法は車種や形式によって多様に異なるので、一度、折返式停車場の実態を調べて、早めに対策を考えた方が良いと思うと提案した。
 これに沿って、当時の国鉄本社運転局が折返式停車場の実態調査を行なった結果を示す資料が手元に残されている。資料には、当時は現存した東赤谷、大志田、浅岸及び潮沢などの停車場や、仁山及び新府などの加速線を持つ信号場、更には前述の北府中も該当駅として名を連ねていたが、定義に沿った折返式停車場ではない遠軽や、当時は現存した東唐津や薩摩永野などは省かれている。問題の浜川崎や隅田川、さらには、前述した奥中山の名前は欠落していたのであるが、不勉強の筆者は不覚にも、当時はそれに気付かなかった。浜川崎の折返線は恐らく、昭和48年に鶴見〜東京貨物ターミナル間に新ルートが開業し、それまでは実質的には行止り駅であった浜川崎の配線が大きく変わった時点で作られたと推定される。一方の隅田川は、JTB出版の関係の方々の大変な労作である「停車場変遷大辞典」及び昭和41年国鉄編の「停車場一覧」を参照すると、北千住〜隅田川間の営業キロ程は当駅の開業から遠くない明治40年に設定されており、この時点で折返式停車場に変身したのであろう。国鉄の専門家が組織を通じて行なった調査でも、隅田川・浜川崎両駅が折返式停車場であるのを見落した理由は、この種の停車場は山岳線区にあるとの先入観がプロの目を曇らせたのではと思う。一方、奥中山が除かれたことについては、担当者は承知の上で、加えなかったのであろう。今も関東地方の都会の真中に折返式停車場として現存するこれらの駅は、山奥にある同業他駅とは異なって電車の車窓からも簡単に一望できる。興味をお持ちの方の車窓からのご視察をお勧めしたい。

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