クローネンバーグとデ・パルマの復活、最近の日本映画で気になること

今年はデビット・クローネンバーグとブライアン・デ・パルマの復活が嬉しかった事の一つである。「復活」と言ってもあくまでも私が好きな映画をまた作ってくれたというだけの主観的なものである。それでもクローネンバーグ「コズモポリス」は私の好みは別にしても、クローネンバーグの代表作の一つと言えるのではないだろうか。特に異常なことが起こるわけではないが映画全体の雰囲気は「ヴィデオドローム」あたりを思わせる。ロバート・パテインソンがいろんな登場人物とかわす会話が主体で進行する中にセックスや突然の殺人があるのだが、みな一様に熱に浮かされた中で起こっているようで、どこか非現実的な感覚が何とも素晴らしい。映画を通して、主人公が人生のどこかで自分のあるべきところのものから遊離してしまったという感覚が浮き出してくる。物語の進行、映像、演技すべてにおいて間然とするところのない傑作だ。

デ・パルマ「パッション」も楽しんだ。(私にとっての)最盛期の作とは比ぶべきもないとはいえ、久しぶりにぎらぎら感、わくわく感がある。映画の性質上あまり書けないのだけど、成功した理由の一つは、一見ごちゃごちゃした展開ながら、根幹にある人間関係が単純かつ感情移入しやすいものであるためだろう。

別稿「変わってしまった人たち」で取り上げたもう一人、ベルナルド・ベルトルッチは「孤独な天使たち」が公開されたが私にとってはあまり興味を持てない人になったということを再確認した。ベルトルッチは未公開だった初期の作品「ベルトルッチの分身」も公開された。ついでに「革命前夜」も再見した。ともに何らかの魅力はあり面白いが、青臭く、決して天才を窺えるものではない。「暗殺の森」も再公開された。これも久しぶりに観たが、やはり紛れもない傑作であった。「分身」が1968年、「暗殺の森」(そして「暗殺のオペラ」)は1970年である。わずか2年でこんなに違うのは何故と思ってしまう。どうも撮影ヴィットリオ・ストラーロの存在が大きいような気がしてならない。単に映像が素晴らしいと言っているのではない。ストラーロは自身の映画の撮影について次のように語っている。

シナリオを読み、映画の中心的な担い手である監督と話し合い、その作品がどういうところを狙うか話し合い、その作品がどういうところを狙うか方向づけが決まるとすぐ、撮影上の観点からストーリーのイメージをどうコンセプト化するか、その方法を探求する。その物語の主題は何か、また、いかにそのコンセプトを象徴的・感情的・心理的・写実的、そして物理的に表現すればよいかを考えるわけです。
(デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート「マスターズ・オブ・ライト」フィルムアート社、高間賢治・宮本高晴訳)

これよりストラーロが映画の造形について深く関わるタイプの撮影監督であることが分かる。「暗殺のオペラ」以降の傑作群は相当に大きな部分をストラーロに負っているのではないか。

今年はまだ4分の1を残すが何か2013年回顧みたいになってきた。ついでに日本映画について気になった傾向について書いておこう。

今年の日本映画界の中で、大森立嗣「さよなら渓谷」、白石和彌「凶悪」は間違いなく力作である。しかし堪能しきれないという不満も残った。「さよなら渓谷」については無意味にしか見えない長回しが気になった。これはやはり今年の主な映画の中にあるであろう廣木隆一「きいろいゾウ」、熊切和嘉「夏の終り」でも気になった。ワンショットワンシーンではなく、ワンショットを無理に引き延ばしてワンシーンにしたような印象である。言葉が悪くて恐縮だが、間が抜けた感じがして、映画全体の密度が下がる。長回しが印象的な名画はたくさんある。タル・ベーラのような特殊な例は別にして、私の印象ではそれらではワンショットの中に、カメラの移動や、人物の移動や、動作や、表情の動きなどドラマがある。ヤンチョーやアンゲロブロスの何も無い据えっぱなしのショットはかえって何か起こるのではないかという緊張を生む。それに対してただ2人が向かい合っているだけのショットが長く続いたりするのは何を意図しているのか面喰ってしまう。

「凶悪」は刑務所の面会室で話す山田孝之やピエール瀧を真正面からとらえたショットが不自然に感じて気になった。印象的ではあるけども見ていて居心地悪く感じた。カメラに向かっての独白や鏡を見ているシーンで話者が正面にくるような例はあるが、このように二人が対面して話している場合に例はあるだろうか。小津映画は別格だが、それでも初めて見る人は違和感を感じると思う。例は有るかもわからない。しかし記憶に残っているものは思いつかないので、それらでは不自然に感じさせない編集がなされていたに違いない。

ここからは根拠のない邪推に入るが、何故以上のようなことが気になるかである。ある映画の上映の場で某映画監督のトークショーがあった。その話から分かったのは、その監督は有名映画監督の映画をDVDで繰り返し見ているようだということだ。今はDVDがあるというのは作り手にとっては大変良い環境だろう。たくさんの過去の名作をいつでも繰り返して、しかも細部を確認しながら見ることができる。だがその結果、芸術的作品の中で使われる手法に対する知識のみが肥大化しているということはないのだろうか。その結果、感性に裏打ちされていない表現が散見することになっていないか。長年日本映画を見てきたが、今回のようなタイプの不満を持ったのは初めてのことなので気になるのである。

初稿2013/10/12