変わってしまった人たち

ダリオ・アルジェントについての文で、ある作品以降つまらなくなったという事を書いた。アルジェントに限らずある時期までは大好きだった作家がこの頃つまらなくなったと思うことがある。老熟と共に刺激が丸くなって行くのは当然として、なぜか突然あるいは短時間で変わってしまったと感じられる場合がある。変わるのは作る方の勝手で文句を言う筋合いではないが、以前の作風を愛していたファンとしては大変残念な気がする。何故変わったのか理由はいろいろあるであろう。「シャドー」のDVDの特典ビデオで、アルジェントのかつてのパートナー、ダリア・ニコロディは”70年代、80年代がピークで、以降の作品は以前ほど良くない”と言い切っている。アルジェントがどうかはともかく、作品自体衰えてしまったというならどうしようもないが、以下他に私が好きだったのに変わってしまった人たちへの愛惜の思いとどう変わったかの考察である。

ブライアン・デ・パルマ

好きだったのは「悪魔のシスター」から「ミッドナイト・クロス」までの日本公開作。以降デ・パルマは「スカー・フェース」、「アンタッチャブル」「ミッション・インポッシブル」のような大作・話題作、「カジュアリティーズ」や「リダクテッド」のような問題作を撮るようになる。これらは決して悪い映画ではないし、ヴェネチアで賞を取ったりしているのだから作品が衰えたとは言えないだろう。ではホラーのようなマイナーな分野で飽き足りなくなってメジャーを志向しだしたのかというと、デ・パーマの場合は複雑だ。「悪魔のシスター」以前、あるいはその後日本で私のような一部マニアが華麗なテクニックに彩られたホラー映画に狂喜している間にも、ドキュメンタリーやコメディー等の日本未公開作が多数あるようだからだ。たくさんのレパートリーの中の、ホラー・サスペンスというジャンルに興味を失ったというだけなのか。そうとも言えないような気がするのは、その後のホラー・サスペンス分野の作品「ボディー・ダブル」や「レイジング・ケイン」を見ても嘗てのような魅力を感じられないからだ。スプリット・スクリーンやスローモーションのようなテクニック、あるいはヒッチコックの引用等、以前はぎらぎらした魅力を放ち、わくわくさせてくれた感覚がなくなっているように思う。そられは映画好き以外にはどうでも良いことに一所懸命こだわった映画作りから来ていたものではなかったか。こう考えるとアルジェント作品に魅力を感じられなくなってきた理由と共通している。このような、いわば「稚気」は成熟と共に失われていくもので、やむを得ないのか。

デヴィット・クローネンバーグ

この人の変化を嘆くのこそ、かつてのファンの身勝手そのものかも分からない。わが国では「ヒストリー・オブ・バイオレンス」以降の作品の方がより広く支持されているようであるし、最新公開作の「危険なメソッド」は本当に完成度の高い格調ある作品でこの人が今やカナダを代表する映画監督であることを実感させるものであった。しかしながら私としては「戦慄の絆」を頂点とする、生理的につらく気持ちも暗くなる、でも何故か見なければならないという気持ちにさせられる作品群が懐かしい。顧みるに、「エム・バタフライ」や「イグジステンズ」のようなどうかと思うものもあるにはあったが、もともと完成度の高い作品が多く、題材が独特なだけっだったのだとも思う。テーマが変わったのだ。そういえばクローネンバーグというとすぐ連想した、「ヴィデオドローム」で腹にビデオテープを入れられたり、「ザ・フライ」で爪が剥がれ落ちたり等の背筋がぞわっとするシーンも無くなったように思う。これはむしろ歓迎すべきことか。あきらめて見続けていくことにしよう。

ベルナルド・ベルトルッチ

日本で最初に公開されたのは「暗殺の森」だったと思う。それから決して見逃せない監督の一人となった。その後、それ以前の3作品も公開されたが、原案を提供したパゾリーニとの資質の違いがあからさまになった失敗作「殺し」、あまり印象に残っていない「革命前夜」を除き、「暗殺のオペラ」から「ルナ」までの5作品が大好きな作品である。暗い迷宮をさまようようで、しかしながら胎内のような湿った安らぎがあり、かつ神話的な大きさがある。タヴィアーニ兄弟と共にイタリア映画最後の巨匠と思っていた。「ラストエンペラー」以降の大作3作は、溝口健二の「楊貴妃」みたいなもので、あまり合わないものを撮ったのだよね、と思った(「シェルタリング・スカイ」はそれなりに魅力的だったが)。「魅せられて」も軽く一服という所でしょう。撮影もストラーロじゃないし。と思った。変だなと思い出したのは「シャンドライの恋」のあまりもの静けさである。その後「ドリーマーズ」を見てこの人はやっぱり変わってしまったのだと確信した。昔のベルトルッチなら、怪しげな兄弟エヴァ・グリーン/ルイ・ガレルの側に立って描き、迷宮的、神話的世界を構築したはずだ。ところが、映画の終わりでは改心したマイケル・ビットが二人を非難し、説教するのである。なるほど年をとって人格者になったのだろう。それと共にパワーも魅力も失せてしまった。今の私は「巨匠になり損なった人」と思っている。

初稿2013/1/6