映画の中のショパン

まずは引用から。

だからほんの一フレーズだけ聞かされても、ショパンのものなら決して
他の音楽家のものと間違える筈がない、と思うよ。
                                           −福永武彦「草の花」

学生の頃、この一節を読んで強く共感した。初めて聴く曲であっても、ショパンのものであれば絶対わかると思っていた。他の作曲家だとそうはいかない。旋律や和声の特徴がどうこうという話ではなく、ショパン独特の香りがあるのである。現在そのように言い切る自信は無い。そもそも初めて聴くショパンの曲などもはやほとんど無いので、確かめようがないのだが、それでも自分の中の何かの感覚が失われてしまったと思う。思えばショパンの独特さというのは、感傷や憧憬、俗に言うとロマンチックな気持ち、を至上とするような感覚なのではないか。若い頃の瑞々しい感覚にこそ共鳴するものなのであろう。

ショパンの曲は一聴、耳触りが良いので映画で良く使われる。わりと新しいところで記憶に残っているのは「ポー最期の5日間」で登場人物がピアノでちょこちょこっと弾くのがショパンだったりする。もう少し大々的にに使っているのもある。「愛情物語」は随分昔名画座で見たが、編曲(「トゥ・ラブ・アゲイン」)の段階で既にショパンではなく只の綺麗な曲になっていた。ポランスキー「戦場のピアニスト」ではいろいろ使われているが、特にバラード第一番が印象的だ。これではいわば”サビ”の部分がカットされていて、あまり音楽が際立ちすぎるのを避けたのだなと思った記憶がある。

このようにただ綺麗な曲、効果的な曲としての使われ方ではなく、先に述べたショパンの独特の香りが映画の内容と不可分になっている映画を私は少なくとも2つ知っている。一つは俳優として有名なマキシミリアン・シェルが監督した「初恋」(1970)。この場合映画そのものは全く忘れてしまっていて、映画冒頭に流れるソナタ第3番第一楽章だけが強い印象として残っているので”映像”と不可分というべきかも分からない。今からするとこのツルゲーネフの残酷な物語とショパンが合うのだろうかとさえ思うのだが、冒頭ジョン・モルダー=ブラウンが野原か森で戯れる姿に音楽のみを重ねたシーンに強く心を打たれた。青春のきらめきと、その儚さが溢れていた。この演奏は確か夭折したピアニスト、ディヌ・リパッティによるもので、私の記憶に間違いがなければ、映画そのものもリパッティに捧げられていたはずだ。シーンは延々と続いたように思うが果たして実際の長さはどれだけだったか。DVDは出ているので手ごろな価格で手に入るかしたら、リパッティの件と共に確認しようと思う。

もう一本は村川透監督、丸山昇一脚本の傑作「野獣死すべし」(1980)。この映画ではホ短調の協奏曲(ピアノ協奏曲第一番)が重要なモチーフとして使われている。まず初めの方のコンサートのシーンでは第一楽章が演奏されている(村川監督の兄、村川千秋指揮の東京交響楽団、ソリストは花房晴美)。このシーンはかなり長いが、その中で、ショパンの書いた最も甘美な旋律の一つである第ニ主題をピアノが弾き始めると、伊達邦彦=松田優作の目に涙がにじんでくる。別稿「映画の迷宮、迷宮の映画」を書いた時は失念していたが、この映画も優れた迷宮映画である。いろいろに解釈ができ、またどう解釈しても割り切れなさが残る。しかしこのシーンゆえに、映画が少なくとも傷つけられた青春についての物語であることが分かる。第ニ楽章は松田が小林麻美と再会するレコード店のシーンで背景に使われている。映画全体のある意味でクライマックスである最期のコンサートのシーンでは今度は第3楽章が演奏されている。はじめて観た時は、映画全体がコンサートを聴いている間にみた幻想と解釈できるのではないかとも思ったが、次に確認してみると、ソリストの服装が第一楽章のときとは変わっている。普通に考えると第一楽章と同時に撮っているだろう。わざわざ変えていると思われ、そういうところがうまいと思う。

大薮春彦の原作ではチャイコフスキーのバイオリン協奏曲への想いが少し出てくるだけでショパンは出てこない。村川か丸山の作意である。この映画はほかにもショスタコービッチの第5交響曲や、アルビノーニ=ジャゾット編のアダージオが効果的に使われている。この辺のセンスはどちらのものであろう。音楽担当たかしまあきひこの「野獣死すべしのテーマ」も日本映画離れした垢抜けた曲であるのも付け加えておく。

初稿2013/6/19