ベルサイユ宮殿

ベルサイユ宮殿

 

フランス王国が絶頂期にあった1682年から1789年までブルボン王朝の優雅な宮廷生活を今に伝えるのがベルサイユ宮殿です。昔は深い森で貴族が狩をしただけの寒村に一大宮殿を築いたのは「太陽王」と呼ばれたルイ14世です。

  彼はルイ13世とスペイン国王フェリペ3世の娘、アンヌ・ドートリッシュとの間に生まれました。ルイ13世の死により5歳のとき王位につきました。幼年期にフロイドの乱に遭遇し、一時パリを脱出せざるを得ませんでした。この内乱を主導した貴族の勢力を弱めるのことが生涯の課題となり、内乱を思い起こさせるパリに住むことを嫌いました。これがベルサイユへの宮廷移転の動機となったのです。

 さらにそれを決定づける事件が起きました。当時財務長官だったフーケが新築したヴォー・ル・ヴィコント城の披露パーティーに招かれたルイ14世は贅を尽くした城を見て怒り出します。  当時自分が住んでいたルーブル宮殿よりも立派だったのです。彼は三銃士のダルタニアンに命じて捕らえてしまいました。公金横領の疑いを掛けたのです。フーケは生涯許されることなく牢獄に入れられた ままでした。この怒りを新宮殿建設にぶつけたのです。

  父親のルイ13世が建てた狩猟用の館に目をつけた彼はフーケの城を作ったル・ヴォールとルイ・ブラン、造園のル・ノートルらに命じて四半世紀にも及ぶ建設に着手したのです。さらに彼は建物だけでなく庭園にも莫大な金を費やしました。さしもの栄耀栄華も次第に陰りを見せてきます。

  彼の後を継いだルイ15世の時代は持ちこたえますがルイ16世の時代になると国家の経済は疲弊して破綻してきます。ルイ16世はルイ15世の孫です。1770年オーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットと結婚します。ブルボン家とハプスブルグ家の結びつきの強化です。しかしフランスは極度の財政悪化に悩み、国民は困窮していきます。

 1789714日、パリの民衆の手でバスティーユの要塞が陥落しました。フランス革命が勃発したのです。105日パリのかみさんたちが手に手に棍棒や包丁を持って20kmの道のりをベルサイユ目指して押しかけました。翌朝、ルイ16世に対してパンも買えない窮状を訴えてパリに戻るように懇願しました。

 そしてルイ16世、マリーアントワネット、その他の宮廷貴族たちをすべてパリに連れ戻してしまいました。以後国王たちは二度とこの宮殿に戻ることはありませんでした。フランス革命で王位を追われたルイ16世は裁判にかけられ、17931月革命政権の手でコンコルド広場に引き出され、断頭台で処刑されました。また同じ年の1016日、マリー・アントワネットも同じところで処刑されました。王族としての扱いを一切受けることなく、粗末な身なりで後ろ手にくくられた彼女を見ても誰も気づく人はいなかったと言います。

  1793年以降、宮殿の調度品の大半は競売に掛けられ四散してしまいます。1883年、フランス最後の国王ルイ・フィリップが「フランスの全ての栄光に捧げる」美術館として整備することを決めます。以後、復元と売却された調度品を買い戻すなどの努力を続けています。

    宮殿の見学は完全時間予約制、私たちの予約時間は11時です。時間まで庭園の見学に向かう。宮殿の西側に広がる広大な庭園の設計者は当時フランス随一の庭園師ル・ノートルです。幾何学的に左右対称に配置された庭園はフランス庭園の傑作です。

  中央のテラス状に一段高くなっている部分を時計方向に回ってみました。南の花壇を見ながら進むと1段低くなった部分にコンテナに植えられたたくさんの椰子の木が見えてきました。冬の間はどこかに保護されるらしい。オランジェリーといいます。なぜこのように呼ばれるのかはわかりませんでした。
(注) オランジェリーとは温室オレンジ園という意味でこのテラスの下 には広大な温室が在り、ポルトガル、スペイン、イタリアのオレンジ、レモン、石榴、椰子、トマトなどがコンテナに入れられて栽培されていました。5月中旬外に出され、10月中旬温室の中にしまわれます。

  美しく刈り込まれたイチイの植え込みとツゲの縁取りを見ながらさらに西に進むと中央にアポロンの泉が見えてきました。泉の向こうに銀色に輝く大運河が続きます。はるかかなたに左右対称に規則正しく植えられたポプラの並木が見えます。そこまで4kmです。これが全て宮殿の庭だというのだからすごい。ここからは見えませんでしたが、この運河の途中直角に十字のように掘られた小運河の先には数々の離宮(トリアノン)があるはずです。そこでは田舎が演出され、畑には野菜が作られ牧場には羊が飼われていたと言います。

   予定時間が近づくと宮殿右側の団体客専用の入り口には続々と各国の客が集まってきました。係りの人が時間をずらしながら入場させていきます。

  見学は宮殿2階部分です。見学場所は大きく分けて正面から右側に王の大居室、左側が王妃の大居室、その二つを結ぶ鏡の回廊です。

  この宮殿の主、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世の肖像画が掲げられている部屋があります。まず目を引くのはテンの毛皮のマントを羽織り、長い髪のかつらをつけたルイ14世です。当時としては当たり前だったといいますが赤いハイヒールを履いています。彼こそが「朕は国家なり」と豪語して絶対主義王政を世界に誇示した太陽王であり、このベルサイユを作った王なのです。

  この宮殿が3代に亘り、フランスの栄光と挫折を見守ってきました。「ヘラクレスの間」に入る。天井いっぱいにヘラクレスを書いたフラスコ画が広がる。3年の歳月をかけてこの絵を書き上げたフランソワ・ルモワースはノイローゼになり自殺してしまったといいます。すぐそばに礼拝堂があります。ルイ14世は毎日、午後1時になるとここに来てミサを受けました。主要部分は1階にありますが2階からでも礼拝できるようになっています。ここはルイ16世とマリー・アントワネットの結婚式が行われ ました。

  「戦争の間」に入ります。ここでも天井画に圧倒されました。ギリシャ神話の絵と思われますがこれはルイ14世をたたえる絵です。太陽王といわれたルイ14世はすなわちアポロンなのです。この部屋と反対側に「平和の間」があり、2つの部屋を結ぶのが豪華絢爛たる「鏡の回廊」です。

  まさにこの宮殿のハイライトです。当時貴重品であった鏡が578枚も壁にはめ込んでありす。シャンデリアがたくさん天井から下がっています。当時、これらは全て水晶でできていました。ここで華やかな舞踏会が何度も催されたことでしょう。蝋燭の寿命は1本45分から1時間、燃え尽きる前にロープを下げて交換しました。その間も何事もなかったように舞踏会は続けられていたといいます。西側に設けられた17個所の大きな窓からは美しい庭園が望めます。

  鏡の間の反対側はルイ14世の寝室があります。太陽王らしく東に向かって作られているのです。後半は王妃の大居室です。ルイ15世の王妃、マリー・レシチンスカヤとルイ16世の王妃、マリー・アントワネットが住んだところです。ルイ14世の王妃、マリア・テレサは1683年に逝去しておりここには住みませんでした。この部分は王妃の趣味やその他で何度も改装されているといいます。金糸銀糸の刺繍や豪華なベッド、宝石箱などに当時をしのぶことができます。

 

出口近くナポレオンの戴冠式の様子を描いた大きな絵が掲げられています。ダヴィトが描いたものです。ルーヴルにあるのと同じ絵です。大きさも構図もまったく同じ、だからと言って偽物ではありません。ナポレオン崇拝者だった彼はナポレオンが失脚したとき、元の絵が焼却破棄されることを恐れて、亡命先のベルギーで同じ物を書いたのです。ただひとつ違うのは左端に描かれた5人の女性のうち、ナポレオンが最も愛したと言われる妹フォーリンクの衣装だけを白からピンクに変えてあります。

  軽いめまいと疲労を感じながらベルサイユ宮殿を後にしました。正直に言えば私にはベルサイユを語るに十分な知識を持ち合わせていません。あまりにも対象が大きすぎるのです。

    バスはパリの象徴エッフェル塔に向かう。1889年フランス革命百周年に開かれたパリ万国博覧会のためにギュスターヴ・エッフェルの設計に基づき建てられたものです。当時の高さは300m、現在はその上にアンテナが立てられて321mです。

  午後はオペラ座の近くの三越でショッピングをしました。奥さんたちは目を輝かしていますが亭主どもは逃げ出してオペラ座のほうに行ってしまった人もいました。私はおとなしく妻にしたがって最後まで買い物に付き合いました。

 

夕食はノートルダム寺院のそばのレストランでさよならパーティーを開きました。ライトアップされたパリを見ながら、ここでエスカルゴを食べました。なかなかおいしい。今回の旅も後1日残すだけとなりました。恒例となった夕食時の挨拶も最後は長老格のMさん、旅の実感がこもっていました。

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