5日目(3/25) グラナダ、アルハンブラ宮殿(La Alhambra)

 グラナダ(Granada)とは柘榴のことです。この名前を持つグラナダは緑豊かな土地でイスラム最後の王朝の栄華を今に伝えるところです。スペインの大半を支配していたイスラムは12世紀から始まったキリスト教徒の国土再征服運動(レコンキスタ)により北部から次第に撤退し、ここグラナダ王国が最後の拠点となっていました。最後のイスラム王朝であるナスル朝の宮殿がアルハンブラ宮殿(La Alhambra)なのです。スペイン語はhの音を発音しませんからアランブラと表記すべきでしょうが日本ではアルハンブラというのでそのように表記します。アラビア語の「アル・ハムラー」赤いものに由来します。このあたりの丘陵一帯の赤土を指したものと思われます。ナスル朝はナスル族のムハンマドが1230年グラナダに建てた王朝で1492年キリスト教徒に破れ、グラナダを無血開城し最後の王家のボアブティル一族はモロッコへ逃亡しました。ここに12世紀から続いたレコンキスタは終了したのです。

 私たちはまずカルロス5世宮殿に入りました。イスラムが去って50年後、カルロス5世が王宮に隣接してルネッサンス様式の四角い建物の真ん中に円形の中庭を持つ宮殿を建てました。 カルロス5世は、この王宮を築くことにより、イスラムの王たちの宮殿を顔色なからしめようとしたのです。しかしカルロス5世の時代にはこの王宮は完成しませんでした。「アルハンブラ物語」を書いたアーヴィングによればそれは度重なる地震のためということですが、財政難のためと言うのが真実のようです。 レコンキスタ終了後、資金を供出させる予定であったキリスト教に改宗したイスラムの人(モリスコ)25万5千人を国外に追放したからです。ともかく彼は多くの建物を取り壊して宮殿の正面にこの巨大な王宮を建てたのです。イスラムの建物とはだいぶ趣が違います。中庭は音響効果が優れているため、夏になるとグラナダ国際音楽舞踊祭の会場になります。

 いよいよ王宮に入っていきます。この建物を建設したアラブの人たちはもとは砂漠の民であり、オアシスをイメージしており、水が重要な役割をしています。また地べたに座る生活をしており、床に座って上を見上げると美しく見えるように設計されています。そしてイスラムの建物は外観は質素に作られていますが内部は絢爛豪華に装飾されていました。特に鍾乳洞をかたどった天井は見事です。鍾乳洞はマホメッドが神の啓示を受けたところで特別な意味を持っているのです。アラヤネス(天人花)の中庭は公式行事に使われた場所ですが中央に天人花(または銀梅花)に囲まれた長方形の池があり、その端に大理石の噴水があります。両側にある半円形のアーチを持つ柱廊が大変美しい。噴水の水はシェラネバタから20Kmの水路で引かれているのだそうです。

アラヤネス(天人花)の中庭とコマレスの塔

天人花について

 日本で天人花と言えば沖縄諸島に自生している淡紅色の花の植物ですが、アルハンブラの天人花は白い花です。したがって銀梅花のほうが適切と思われるのですが、ガイドブックには天人花と書いてあります。ヨーロッパでミルテと呼ばれて親しまれている木と同じと思われます。アダムが小麦とナツメヤシとミルテを持ち出したと言う伝説があります。またビーナスの「神木」と呼ばれ、葉や果実は芳香があり、香料にされます。梅に似た小さい純白な花をつけるので銀梅花と言われるこの花は花嫁さんのブーケにも用いられることが多いようです。残念ながら今は未だ花をつけていませんでした。

 もう一つの見所は「ライオンの中庭」といわれるところでしょう。中央の噴水を支える12頭の獅子からこのように呼ばれています。四方は124本の大理石の円柱で囲まれており、円柱の上部はレースのような繊細な模様が施されていてイスラム芸術の最高傑作ともいわれています。また円柱の上下には鉛の板が挟まれており、耐震構造になっているのだそうです。

 周囲にはアベンセラヘスの間、王の間、二姉妹の部屋などの華麗な部屋がありました。壁にはアラベスクの文様が一面に施されてあり、コーランの一節もありました。すなわち「神様だけが完璧」裏を返せば人間は不完全ということです。わざと歪ませた柱や壁はそのことを表しているのです。

ライオンの中庭

 アベンセラヘス(アベンセラーヘ)の間とは王に仕える名門騎士団の名前です。不忠の罪で35人の騎士が惨殺されたと言う伝承があります。床と噴水に見える赤い部分はそのとき流した騎士の血でいくら洗ってもまた染み出てくるのです。王妃と騎士の不貞をボアブディル王が知り、処刑したと言う説があります。同じ名門騎士団のセグリー家との権力闘争との説が真実に近いような気がします。二姉妹の部屋とは床に張られた大きな同じような大理石からきたと言うおよそ夢のない説明でした。

 次は少しはなれたところにあるヘラネリフェの庭園に向かいます。ここは14世紀初めのころ王の夏の離宮として立てられたものです。水をふんだんに使っています。天に向かって伸びる糸杉、きれいに刈り込まれた生垣、咲き乱れる草花、池に上がる噴水、夾竹桃のトンネル、藤の花、ガイドのフェリックスさんがここは天国と言っていましたがまさにそうなのかもしれません。彼は日本語でガイドをしてくれるのですが冗談や駄洒落を連発するのでどこまでか本当のことを言っているのは判断に苦しむこともありました。大変愉快な人でした。

 見学を終えて丘を降りる途中斜面にある洞窟の家が見えました。今はその前に家が建てられているところもあります。ジプシーの人たちの棲家だそうです。レコンキスタが終了したのち、異教徒追放令が出されイスラムの人たちはスペインから出て行ったのですがジプシーの人たちはグラナダの陥落に功績があったとして残されたのです。

 丘を降りたところでショッピングの店に入りました。タラセナ(アラブの寄せ木細工)を売る店です。箱根の寄せ木細工はここがルーツだそうです。お土産に小物入れを買いました。またここからは雪をかぶったシェラネバタの山並みがはっきりと見えました。 最高峰はムーラセン山(3842m)でスペインで最も高い山です。こんなに南で暖かいのに雪があるのは不思議な感じがします。5月にはスキーと海水浴を1日で楽しむことができるのだそうでなんとも贅沢な話です。

 昼食は中華料理でした。

シェラネバダの最高峰ムーラセン

 ここからアルメリア、ムルシア、アリカンテを経由してバレンシアまで524Kmバスの大移動です。しばらくバスは地中海を眺めながら海岸線を走ります。スペインの高速道路は無料のところが多いのですがこのあたりは時折料金所があります。オリーブの木やアーモンドの木の畑が続いていました。ムルシアに入るとバスは内陸部を走るようになります。黄色いミモザの花が目に付きました。ムルシア州に入るとレモンやオレンジの木が目立ち始めました。荷台にいっぱい積んだトラックも走っています。アーティチョークを積んだトラックもいます。ここはトマト、イチゴ、アスパラガス、ピーマンなど野菜の産地なのです。それらの多くは16世紀コロンブスにより新大陸からもたらされたものです。

 バスはまたオレンジの花の咲くバレンシアの長い海岸を走るようになります。バレンシアの街が近づいてきました。スペインで3番目に大きな町です。バレンシア・オレンジ、パエリアもここが元です。火祭りは有名で日本のテレビでもよく放送されます。ただし今回の旅はこの街の見学はありません。夕食は「L’arte Gijon」というレストランでシーフードパエリアでした。夕食後はホテルのある75Km北のカステロンプラナを目指しました。

 今晩の宿はイントゥール・カステロンホテルです。