上海

上海・蘇州・無錫・南京の旅 その3

第4日 上海

 早朝5時半の起床、6時15分集合、あわただしく朝食を済ませ、7時5分にホテルを出発、南京駅に向かう。8時10分南京駅をたち、一路上海へ向かう。昨日と同じ車両である。車掌さんも同じ。ただ南京から蘇州に向かう他の日本人団体と一緒で座席はかなりいっぱいになった。羅さんたちともお別れで、案内人はここからは最初から一緒の私たち1号車担当の秦さんと2号車担当の王さんの二人だけになった。 車掌がポットを持ってお茶を売りにくる。4元で緑茶を買う。中国の緑茶は大きめの葉が丸くなっている。それをプラスチックのコップに入れ熱いお湯を注ぐ、お茶の葉は最初、全部浮いているが次第に沈んで底の方にたまる。それを上の方から飲むわけである。飲み終えるとまた次ぎにお湯を注いでくれた。お茶を売り終えると今度は絹のスカーフや敷物を売りにくる。車掌が制服を着たまま、ものを売り歩くのは日本では考えられない。しかしここは中国、日本ではないのだからと割り切る。買い物ツアーで20回以上旅行しているというYさんここでも大ハッスルで品定めをしている。

  たまたまとなりの席のHさん夫婦と話をした。小学生の子供を一人連れている。話をしているうちに奥さんは私の妻の勤務していた東京の同じ病院に検査技師として勤めていることがわかった。IさんとTさんは俳句作りに励んでいる。そこで私も真似をして、俳句の心得がないのでお粗末だが一句作ってみた。

  異国路や 鉄路の果てに 麦青む

 4時間40分長い列車の旅を終えて、上海駅に着いた。南京駅もそうであったが、とにかく駅には人が多い。田舎からの出稼ぎの人たちであろうか、人であふれんばかりである。上海の人口は1340万人、しかし実際には1800万人はいるのではないかといわれている。高層のビルが建ち並び、建設中のビルもたくさんある。上海は北京、天津とともに政府直轄の都市である。地下鉄もある。しかし何か混沌としているように見える。他の都市と違い街路樹の緑が少ないからか、なにやら埃っぽいような気がする。

  高陽食苑で昼食をとり、とにかくバスで豫園に向かった。明代の高級官僚、裁判所の長官をつとめた瀋允瑞という人が自分の母親のために作った庭園だという。それほど広くはないが実によく計算された設計になっている。近くは豫園商場と呼ばれるところに土産物屋や食べ物の店が建ち並んでいる。まさに東京の下町浅草の雰囲気なのである。

 上海にきて観光客目当ての物売りが多いのはまだしも乞食の多さにはびっくりした。身障者の大人に混じって小さな子供の姿が目を引く。社会主義の国なのになぜなのか疑問がわく。多民族国家、12億の民、国家の規模として大きすぎるのではないか。個人の規範としての儒教の教えは理解できても、近代国家を目指すとき儒教の呪縛から離れなければならない。唐の顔真卿の生涯にその典型を見ることが出来る。儒は人間の倫理道徳を説いた教えである。それが「科挙」の重要な課題として長い間用いられてきた。中国の近代化が遅れた理由の一つがそこにあるような気がする。 次ぎに向かったのは玉仏寺である。禅宗の名刹であるが清朝末期に慧根和尚がビルマから持ち帰ったといわれる2つの白玉で作られた釈迦像により玉仏寺といわれる。座像と臥像の2体があるが、座像の方は高さ190cm、臥像は長さ90cmである。白玉特有の艶やかな肌は透き通るように白く、鮮やかな朱の唇、表情豊かな目もとは見るものの心を引きつける。 上海不夜天大酒楼夜総会で夕食、上海蟹を含む海鮮料理ということで期待していたが、あいにく上海蟹のシーズンは終わりとかで小さい蟹しか出なかった。旅行中それぞれのところでその地方の料理を食べてきたが、中国料理は全体に油を使った料理が多い。種類は多いが量はそれほどでもなく食べ残しがたくさんでることはなかった。一卓に10人座って毎回同じメンバーでの食事である。秦さんにあなたも毎日、こんな脂っこい食事をしているのかと聞いたらさっぱりした食事がいいですねと笑っていた。

  食後、オプションツアーの上海雑技団の公演を見に行く。場内説明は英語であった。日本にも時々、来るのでテレビではおなじみであるが実際身近に見るのは初めてで感激する。終演後上海の夜景を見物に行く。かつての英・米・仏など租界のあったところである。今でも当時の建物が並んでいる。幕末、上海を訪れた高杉晋作はこの地に何を見たのだろうか。生前、機会があれば今一度訪れたいと言っていた父は50年以上も前、ここでどんな風景を見たのだろうか。

 米・英共同租界のあった南京路は今では中国一といわれる繁華街である。外灘(バンド)から見ると対岸の浦東公園に468mの東洋一高いテレビ塔が見える。9時半ちょうどに照明が消えた。今夜のホテルは華亭賓館(シェラトンホテル)である。世界に500以上のホテルを展開するシェラトンホテルの経営である。客室は1000以上ある巨大なホテルであった。ダブルベットが2つ入った部屋で中国最後の夜をゆっくり休む。

 

 

第5日目 日本へ

  朝7時、おみやげを詰め込んで最後のパッケージを行う。荷物を部屋の外に出しておくと次の目的地まで運んでくれるのである。重い荷物を持ち歩く必要がないので大変助かった。ただし鍵のかかっていないものは運んでくれない。中国の旅もあっという間に過ぎて最終日になってしまった。空港でこれまで大切に持ち歩いていたビザを渡して出国審査を受け終わったときは、なにやら肩の荷が下りたような気がした。

  私が見たのは広い中国のほんの一部に過ぎないので、もちろん中国を理解したとは思わない。しかし私の頭の中では、あの虎丘で見たリックに一杯のお菓子や食べ物を入れた幸せそうな子供たちと上海の地下道で見た貧しい身なりの乞食をしていた子供の姿が鮮やかな対比として残っている。「一人っ子」政策の矛盾を感じるのである。子供を産むという私的行為が国家権力によって上から統制されている。一人っ子として大切に育てられる子供「小皇帝」と戸籍もなく誰からも認められずにこの世に存在する「黒孩子」が出会うとき中国はどうなるのだろうか。

  日本在住7年の経験を持つ現地案内人の秦月成さんは中国の現状を話すとき、急に饒舌になった。しかしその言葉の多さとは裏腹に意味は聞き取りにくくなった。中国の現実に悲憤慷慨しているようにも思える。だが開放政策が進んだときの明日の中国に期待しているようにも思えた。日本の事情にも大変詳しく、同行の王さんにも尊敬されている優秀なガイドであるが本人は本当はこの仕事は自分に向いていないと言っていた。

  今回、私は今年、大学の国際観光学科に入学したばかりの息子を伴った。カナダ、ニュージランドの経験はあるがアジアは初めての経験である。彼は同行の人たちはもとより、現地の人たちとも気軽に話し合い、ツアー一行の中でもっとも積極的に中国を知ろうとした。周囲の人に多少迷惑をかけたかもしれないが、彼にとっても価値のある旅であったろう。それは私の喜びでもあった。

   今から1200年以上前に、唐の国にわたり、科挙の試験に合格し、ついには秘書監にまでなって生涯を中国で終えた阿部仲麻呂(中国名は朝衡または晁衡)は帰国する船が難破して、再び中国に戻ってしまい、望郷の思いを果たすことが出来なかった。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 だが帰路、上海から成田までのユナイテッド航空UA852便、空の旅はあっけないほど短かった。

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