○ライオン記念碑 1792年フランス革命のときパリののチュイルリー宮殿で、王妃マリー・アントワネットを守るために全滅したスイス人傭兵786人の勇敢さと戦いの悲惨さを伝える像です。銛を打たれたライオンの瀕死の様子が生々しい。
○旧市街 ロイス川の両岸ですが、川の右岸、旧市庁舎のあたりを歩く。石畳の中世の面影を色濃く残しています。そこここに広場があります。家の壁には美しく彩色された絵がかかれています。広場には噴水もありました。ロイス川には白鳥が遊んでいました。 ルツェルンの見学を終えてバスはいよいよインターラーケンに向かいます。インターラーケンはその名の通り、トウーン湖とプリエンツ湖、二つの湖の間にある街です。夕暮れ時、ホテルからユングフラウの峰が見えました。明日も晴れますように。 今夜はビクトリア・ユングフラウ・グランドホテルと言う5つ星のホテルです。その夜の食事はチーズフォンデュとフォンデュシノワーズでした。後者は煮え立ったコンソメスープに薄切りの牛肉と豚肉を串に刺してゆでながら食べるスイス風のしゃぶしゃぶです。ただし日本の肉と違ってまったく脂身がありません。いろいろな薬味を着けて食べるのですがそのままでも十分おいしい。ここで乳製品から作る発泡飲料リベラと言うのを飲みました。牛乳から作ったとは思えないほどあっさりしています。スイスの言葉 スイスで使われる言語は4種類あります。 ドイツ語 69% 中央北部スイス フランス語 19% 西部スイス イタリア語 10% 南部スイス ロマニッシュ語 2% 東部スイス 徐々にドイツ語化している。4カ国語を話すことができないと国会議員にはなれないと言われています。 ユングフラウ・ヨッホ
昼食はクライネシャイデック(小さな分岐の意)の山小屋風のレストランで取りました。店には新田次郎の写真が飾ってありました。そう言えば近くに「アルプスを愛した日本の作家新田次郎」の碑がありました。 帰りはグリンデルワルトに下りました。街でショッピングと散歩を楽しむ。このアイガーのふもとの村は古くから日本の登山家が訪れたと言いいます。長野県の安曇村と姉妹提携をしています。1時間後再度バスに乗ってインターラーケンに着きました。 スイスは3000mを越えるところでも水洗トイレが完備していました。これはすごいことだと思う。それにどんな高い山でも荒れた様子がまったくない。人間の営みのすばらしさを感じました。山は日本のゴルフ場のようにグリーンです。アルプスの少女の舞台はスイスの東方のマイエンフェルトやバート・ラガッツですがハイジやおじいさんが今にも出てきそうな風景がどこにもあるのです。 ![]() インターラーケンに戻って夕食まで時間があるので妻と二人で街を歩いてみました。お土産などを買う。その晩、夕食は外のレストランで取ることになり、準備をしていると堺ツァーリーダーから電話があり今晩の乾杯の音頭をお願いしますと言ってきました。そこでの挨拶では次のようなことを言ったような気がします。 皆さんこんばんは、ポリテクカレッジ群馬の川です。どういうわけか諸先輩を差し置いて挨拶をすることになりました。大変恐縮をしております。 今日はこの旅のクライマックスでありますユングフラウ・ヨッホへの登山電車の旅、お疲れ様でした。ユングフラウとは「若い乙女」ということですが、今日は皆さんの熱い思いを感じてか恥ずかしがって顔を完全には見せてくれませんでした。あるいは隣のメンヒつまり「僧侶」が邪魔をしたのでしょうか。しかし高山さんの名ガイドにより大いに楽しめたと思っております。大変ありがとうございました。今日の楽しい旅と今後の旅の安全を祈念して杯を上げたいと思います。乾杯 スイスの牛 スイスの牛は3種類です。スイスブラウン、センメンタール、フリブルク(ホルスタイン)どれもカウベルを首につけています。これは遠くへ行っても行方がわかること、持ち主がわかること、乳腺を刺激して乳の出を良くするためです。牧場や牛舎のそばに1mほどの白い円筒状のものが転がっていますがこれは牧草を入れたビニールの袋で牧草を発酵させています。生の牧草がない冬場に干草と混ぜて食べさせると乳の出が良くなります。リンク情報
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