2日目4/14 (金) 運河の町アムステルダムと風車のザーンセスカンス(ZaanseSchans) 朝出発前にちょっとしたトラブル発生。予定の8時45分になってもバスが来ないのです。エンジン不調でバスが動かないとの事でした。結局40分遅れて出発、今日はオランダの首都であるアムステルダムと近郊の見学です。今日のガイドはMsコスギさんです。 |
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まずは 国立美術館(Rijks
museum Amsterdam)です。ここでの最大のお目当てはレンブラント・ファン・レイン(Rembrandt
Hormesgoon van Rijn)の「夜警」です。この絵はベラスケスの
「ラス・メニーナス」(プラド美術館)、エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」(トレド・サントトメ教会)と並んで世界三大名画といわれるものです。他の二つは2年前のスペイン旅行で既に鑑賞しています。そして今回、最後の一つを鑑賞できることになりました。
光と影を巧みに使いドラマチックな場面を演出したレンブラントは1642年に「夜警」を描きます。今では「夜警」と呼ばれていますが本当は夜の場面ではなく昼間です。暗い画面を更に暗くしたのは保護のために塗られたニスの劣化です。 |
379.5×453.5cmという巨大な絵画ですが四方を切り取られています。特に左側は3人の人が切り取られています。本当の名前は「フランク・バニング・コック隊長の市民隊」といいます。しかしレンブラント渾身のこの作品は市民からは受け入れられませんでした。理由はこの絵の反対側に架けられているフランス・ハンスの「やせ細った中隊」の絵を見れば分かると思います。この時代のオランダでは市民がお金を出し合って肖像画を描いてもらいました。従って記念写真のように一人ひとりが得意のポーズではっきりと描かれています。 しかしレンブラントの絵では隊長の号令で、まさに出動する一瞬を捉えています。構成員の顔ははっきりしません。不満を持った隊員は料金の支払を拒否したといわれています。以後レンブラントに肖像画を依頼する者が急激にいなくなり、妻の死に遭ったりして、失意の時代を迎えるのです。それでもレンブラントの制作意欲は衰えることはなく、自画像や宗教絵画を描き続けました。 |
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国立美術館でもう一人忘れてはならない画家の作品があります。もちろんヤン・フェルメール(Johannes
Vermeer)です。大変に寡作の画家で現在まで36点しか見つかっていません。ここで見られる作品は「牛乳を注ぐ女」「恋文」「手紙を読む女」です。
レンブラントのスポットライトのような光線ではなく、柔らかな障子越しのような光の当て方が特徴的です。 素晴らしい絵画を鑑賞して少し興奮して外に出ると入り口は入館者の長い列が出来ていました。 |
続いて向ったのはゴッホ美術館(Van Gogh Museum)です。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は魂の画家と言われ、「自分」を問い続けた画家でした。生前は誰からも評価されず、絵も売れず、弟テオの経済的援助によってかろうじて創作活動を続けました。ゴッホの画家としての時代は1890年 、37歳の時、オヴェール近郊でピストル自殺するまでのわずかに10年、しかし彼はこの間に900点もの油彩を描き上げています。1885年のゴッホのオランダ時代に描かれた「ジャガイモを食べる人たち」は私の心を重くします。1890年のフランス時代の「カラスの群れ飛ぶ麦畑」にしても彼の絵を見ると私は大変疲れるのです。 それは彼の絵から感じられる人間の持つ深い「悲しみ」によるのだと思います。 疲労感に襲われながら外に出ると美術館の入り口は長蛇の列でした。この日、オランダはイースターの4連休と言うこともあるのでしょうが、この美術館は毎年百万人の人たちが世界中から訪れているのです。その功績は絵の芸術性を認め、熱心に管理し、展覧会を開催するなどしたテオの未亡人・ヨー・ファン・ゴッホ=ボルゲンによるところが大きいのです。 昼食後はダイアモンド研磨工場を見学しましたが私は宝石には縁も興味もないので詳細は割愛させていただくことにします。 バスはマヘレのはね橋を見ながらアムステルダム中央駅に向いました。この駅、なにやら東京駅に似ていて東京駅のモデルになったとの話もあるようです。バスはやがて運河の下のトンネルを抜けてアムステルダムの北部に入ってきました。そのようには見えないのですがアムステルダムも最近、土地不足で住宅難だと言うのです。しかし高層のアパートは不人気で規模の小さい集合住宅が好まれるのだそうです。 |
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バスはやがてザーン川沿いに大きな風車が5基並ぶザーンセスカンス(ZaanseSchans)に到着しました。染料を製作している風車に登りました。チーズ工房では実演と試食がありました。お土産に本物は高いし使い方が分からないので木靴のミニチュアを買いました。 バスは再びアムステルダムに戻り最後の見学先はヨルダーン地区、西教会のすぐ近くのアンネ・フランクの隠れ家です。アンネもこの教会の鐘の音を聞いていました。 |
ユダヤの少女アンネ・フランクは家族とともに2年間、息を潜めるように隠れ住んだのです。「アンネの日記」はここで書かれました。この時期、オランダはドイツによって占領されていたのです。 一日の見学を終えてホテルに戻るとき、あと少しと言うところでバスが動かなくなりました。代わりのバスを手配したと言うことでしたが何とかエンジンがかかり、そろりそろりとホテルに戻ることが出来ました。 ホテル到着は20時50分、この日の歩数は6694歩でした。
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